らずに結婚をしてしまっては、法華を信じる自分の母との衝突のあることなど先ず予想していても、その間に挟まる自分の態度に、以後困ることが生じる惧れがありそうだった。しかし、彼は結婚するとしても、何かそこにもまだ冒険を好む心のあるのを感じ暫く胸中の声を聞く慎しみで立っていた。が、ふと急に彼は煙草を捨てて呼吸を殺し、土手の雪の中へ顔を捺しつけた。灼けつくような冷たさの頬に刺し込んで来る中から、明るい玉が幾つも入り乱れ、弧を描いては浮き流れて消えていった。すると、それが暫くつづいていてから最後の乱れた玉の中を、夢で見た千鶴子が幽かに赧らんだ顔で斜めに態を崩して、振り返りざま飛び去って行くのを感じた。矢代はそこで呼吸が切れて来たので顔を上げた。
「何んだったのだろうあれは。」
彼はまだ灼けている頬をオーバーの片袖で拭いて空を見上げた。彼は暫くしてまた雪の中を歩いていったが、古事記の中で夢を見て行動を起された尊たちのことが思い出されて来ると、玉の緒に巻かれて飛び去った千鶴子の夢の姿の美しさは、何か結婚の慶びをともに祝ってくれた諦めかと思われて矢代は嬉しかった。
宿へ着いてから欄干よりのテーブルに彼は千鶴子と対い合った。槙三の姿の見えないのを訊ねると、娯楽室へ行ったということだった。昨日から初めて二人きりになった今、理由もなく矢代は胸騒ぎを覚えて山を見つづけた。千鶴子も同じように黙っていた。
宿の後の山が谷を越し向うの山の頂近くまで影を投げていて、雪を冠った雑木が睫のように刺さった裾の方に鉄橋が見えていた。
「あたしたち、明日の朝帰ろうと思いますの。」
と千鶴子はまだ山を見たまま低く云った。
「じゃ、そろそろ僕も帰るかな。」
「あなたお帰りになったら、田辺侯爵に一度お会いになって下さらないかしら。」
千鶴子はどういうものか、云い難くげに顔を赧らめて矢代を見た。
「会いますが、それはまたどうしてです。」
「どうってこともないの。ただね――」
千鶴子は一寸言葉を切った。
「あたしのお母さん、あなたとお会いしたことないものだから、やはり、どなたか中に立っていただいといた方がと思って、侯爵にお頼みしたらと、そんなこと、あたしひとりで考えたの。でも、あなたもしお嫌いなら、いいんですのよ。」
「そういうことならいつでもお会いします。」
と矢代は簡単に云った。
「じゃ、ありがたいわ。」
千鶴子は山の頂の方をほッと開いた軽い笑顔で見上げた。頂の雪だけ明るくオレンジ色に染め残した峡間に、ますます濃い薄暗が迫って来た。
矢代はこちらから云い出そうかと思っていたことを、そんな自然な表現で千鶴子から切り出して来てくれたのは、何か母との間にいよいよ話せぬ溝の深まりが生じて来たためかと思った。それを彼に覗かせたくもない彼女の苦心の一方に、またいくらか、彼に知らせねば自分の躊躇の理由も伝わらぬ思案の末の工夫かと思うと、矢代も感動を覚えて千鶴子の見上げている同じ山頂を仰ぐのだった。
「しかし、あなたのお母さんの方は、そんなことで納得されるんですか。僕は暫く無理はされない方が良いかと思うんですがね。」
「ですからあたしもそれを考えてるんですの。お母さんは少しむずかしいものだから、何んだか分ってくれないところもあるんですのよ。」
千鶴子は山の頂からすぐ真下の路上に眼を降ろして伏し眼になった。炭俵と蜜柑を積んだ手橇が一台人もなく雪路に停っていた。そこへ餡パンを啣えた宿の小さな子供が出て来て、手橇の柄を掴み、それを動かしてみようとしてうんうんと力み出した。
「お父さんの方はどうですか。」
と矢代は下の子供を見降ろしながら千鶴子に訊ねた。
「父はいいんですの。だけど、こんなことは、お母さんの云うとおりになる人なの。」
「僕の方はいつまでだって待ちますよ。あなたのお母さんにお会いしてもかまわないんだが、もっとはっきり嫌われるだけだと分ってからの方が、勇気が出るかとも思うので、まアそれまでは、このままの方が無事でしようからね。」
「あなたのお母さんは。」
千鶴子はそれが何より気がかりだという風に、急に欄干から頭を上げ眼を耀かせて訊ねた。
「僕んところの母は、僕が頼めば承諾は必ずしてくれると思うんです。しかし、あなたがカソリックだと分れば、それからが厄介なところがありそうですね。何しろ僕の母は法華なものだから、これは曲げようにも曲らない。しかし、ただ一つ見どころがあるので、そこを何んとかうまく僕はしてみるつもりです。」
矢代はこの宗教の違いのことだけは口には出すまいと思っていたのだったが、云うべきときには云って置くのも、後の邪魔を取り去る何事かになりそうに感じ、つい母の法華のことも云ったのだった。すると、籐椅子のきしむ音を立て急にまた千鶴子は悲しげに欄干の方へよりかかって下を見た。
「しかし、僕は失望はしていないのですよ。一度こういうことがあったので、――一寸お聞きなさいよ。あなたにだってこれは重要なことだから。」
「何んだかあたし、悲しいわ。あなたのお母さんに叱られた夢を見たこと思い出すの。――」
千鶴子は手巾を出し眼をそっと拭いた。
「しかし、そんなことなど、一度や二度は必ずあると思うべきでしょう。あなたがカソリックで母が法華なら、反りを合そうたって、合すことの出来た人がありましたかね。だから、やってみるのも面白いでしょう。」
「やれないわ、あたしに――」千鶴子は手巾の中で呟いた。
「勇気がないんだなア、カソリックのくせに、僕のことを考えてみてくれたまえ。僕はカソリックと法華に挟まれて、君どころの騒ぎじゃないんだから。」
二人はまた黙り込むと下を見た。下の路で橇の柄を握り力んでいた子供は、執拗くそれを動かすことをやめようとしなかった。餡パンを啣え口を空に向け、ふんぞり返った顔を充血させていたが、橇は微動もしなかった。すると、子供は手を放して後ろへ廻り今度は後から橇をうんうん云って押してみた。明らかに荷の勝ちすぎているのが、上から見るとすぐ分ることだったが、下からでは動きそうに見えるのかもしれぬと矢代は思い、自然に自分の今のことも思い合せてなお下を見つづけるのだった。
そのうち子供は餡パンを一口食べてからまた思い切れずに前に廻った。そして、橇の柄にぶら下ると今度は自棄になって足を柄にひっかけ、逆さにぶらぶらしながら唱歌を唄いだした。千鶴子も矢代も思わず一緒に上から笑った。
「ああでなくちゃ駄目だ。あの子はきっと出世をするな。」
と矢代は云った。
「ほんとにね。あんなになればいいわ。」
千鶴子も幾らか機嫌が直ったらしかった。
「僕らのも動かす方法をさえ考えれば良いのだが。」
「じゃ、あたしどうすればいいとお思いになって。」
千鶴子は欄干から身を起し生真面目に訊ねた。
「まア、餡パンを食ってみたり、押してみたり、唱歌を唄ってみたりしているうちに、時間が来ればあの橇の主が出て来て曳いて行きますよ。人の運命と云うものは、そんなものじゃないのかな。」
「じゃ、あたしたちの橇の主は誰かしら。」
千鶴子は一寸あどけない表情になりあたりを探す風に見廻していたが、それも困惑した思いに衝きあたったらしく、また苦しげな元の顔に戻って来た。
「僕は一度あなたにお訊ねしたいと思っていたのですが、毎日お祈りをされるときに、あなたらの使われる誓詞があるでしょう。それを一つ僕に教えていただきたいのですよ。どう仰言るのです。」
千鶴子としては答えがたいことかもしれぬと矢代は思い、穏やかな気持ちでそう訊ねても、こんなこととなると争われず密偵のようなさぐりを入れる感じで心が曇った。
「あたしのは学校で教わったころのままですわ。」
と千鶴子もすぐ、矢代の質問の意味を感じて他所行きの顔になるのだった。
「どうもいけないな。こんなことは知って置く方が良いのか悪いのか、僕にはまだ判断が出来ないんだが、しかし、誰にしたところで、心の中でそっと唄う唱歌はあるんですからね。さっきのあの子供だって、最後はくたびれて歌を唄ったですよ。あれは、橇の主を知らずに呼んでいる声なんだもの。そんなものがあなたにだってあるでしょう。」
「でも、そんなこと、御存知でしよう。」
千鶴子はますます不愉快そうだった。宗教の違いとなるとこんなにも争いがつづくものかと、今さら矢代は事の難しさに、安心の出来ぬいら立たしさを感じて下を見た。間もなく宿の廂の下から藁沓を穿いた橇の主が出て来ると、坂下の方へ炭俵をひいて下っていった。しかし、このときは、もう矢代は動き出した橇を眺めても興味が起らず沈むばかりだった。
「僕たちは人より一つ、余計なことで苦しまねばならぬとはいいことじゃないですよ。こんなことは始末につかないことだと分れば、その分ったことの範囲で何んとかしなくちゃ、僕はつまらぬと思うんだが。――何もあなたを嫌いで僕が虐めているわけじゃなし、――」
「あなたはあたしのそんな悲しみ、御存知ないんですもの。あなたのお母さんのことを思うと、きっと、あたし、叱られてばかりだと思えて、それが悲しいんですわ。あなたはお母さんの味方ばかりなさるの、定っているんだし――」
千鶴子は矢代を正面からじっと見詰めて眼を放さなかった。彼の母に対する嫉妬のようにも見える強い千鶴子の眼差に、矢代は何か俄に返答を迫られているような怯みを覚えて身が緊った。
「しかし、どういうものか、女の人というものは、良い宗教でも邪宗にするくせがあるんじゃないかな。僕の母を見ていても、子供の僕でさえ困ることがあるんですよ。僕の父は家代代の真宗なんですがね。母ひとりは法華なんです。それというのは、母の実家が法華なものだから、小さいときから南無妙法蓮華経で育ったでしょう。ですから、僕の父の所へ来てからでも、南無阿弥陀仏ではどうしても有難さを呼び醒すことが出来ないらしいので、そこでひとりいつも苦しんだらしいのですよ。実際それは、真面目になればなるほど苦しいにちがいないんだし、そうかといって、良い加減に捨てても置けないことでもあるしして、やはり今でもそこに、何か、父との間でごたごたしているものがありますね。」
「じゃ、あなたはどちらですの。」
と千鶴子はすかさず訊ねた。
「僕は古神道です。」と彼はここだけ小さな声で云ってから、
「しかし、これは宗教じゃないですよ。神道とも違います。」と云い直した。
「古神道って、何なのかしら、あたし初めて聞いたわ。」
千鶴子は羞しそうにこれも小声で云うと、微笑を浮べたまま、遠い夕空を見上げていたが、それでもまだ容易に訝しさの去らぬ表情だった。山頂に漂っている明るさはもう空からかき消え、峡間には刻刻暗さが増して来た。そこへ槙三がのそり娯楽室から戻って来ると、氷柱の下った廊下が急に遽ただしくなった。そして、女中たちの火を運ぶ音や、膳を置く音がつづいてして、矢代たちのいる部屋にもその忙しさが廻って来た。
食事がそれからすぐ始まった。千鶴子は女中代りに男たちの茶碗の世話をしながらも、まだ矢代に云われたことが頭に閊えているらしく、あまり話さなかった。矢代は槙三に多く話を向けるようにして、物理学に関する新しい話題を聞き出すように努めるのだった。
槙三が物理学の一番困っている新しい仮説の創造ということについて述べ終ったときに、
「ね、槙さん、お話別だけど、あなた古神道って御存知。」
と千鶴子は横から訊ねた。
「さっきもこの方ね、自分は古神道を信じているんだと仰言るのよ、そのくせ何んのことか仰言らないわ。あなただって知らないでしょう古神道って。」
槙三はただ黙ってにやにや笑っているきりだった。
「いや、それや、これはむずかしくって、僕だってよく分りませんがね。まア、一切のものの対立ということを認めない、日本人本来の非常に平和な希いだと僕は思うんです。ですから、たとえばキリスト教や仏教のように、他の宗教を排斥するという風な偏見は少しもないのですよ。千鶴子さんなんかの中にもこの古神道は、無論流れているものです。つまり、あまり高級すぎ
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