そうな真顔で訊ねた。
「さア、それは僕も分りませんが――やはり、地球という球体を日本という中から外へ出ることと、外から中へ入ることと、違うようなものじゃありませんか。」
数学専門の槙三には、そんな説明の仕方も、却って直接的な云い方だと矢代は思って云ったのだったが、槙三は黙っていた。
「つまり、たとえば千鶴子さんが外国へ行かれるのと、僕が行くのとでは、これで思いも余程違っていると思うんです。千鶴子さんのは、小さいときからのカソリックの躾けで行くので、そういう人のは、外国へ行くと言っても実は中から外へ出ることで、僕のような日本人の躾けのままだと、外から中へ入ることになるのですから、同じ行くにも感覚からして違って来ますからね。物理学にもたしか、球面を外から中へ入るのと、中から外へ出る違いと、二つの相違があったと記憶してますが、どうですか。」
「それはあります。」と槙三ははっきり云ったまま、このときはいつもと違い急に微笑が顔から消えて緊って来た。
矢代はこの槙三という兄――それはあるいは、いつか自分の兄となるかもしれぬ青年の中心の考えを、実は少し世間という実社会の中心へ引っ張り出して、触れさせてもみたく云ったことだったが、微笑の消えた槙三の微妙な表情を感じると、この人物は兄の由吉とはまた幾らか違うと、彼を頼母しく思うのだった。
「やはり地球というものは球面をしていますよ。だから、ギリシアの平面の三角幾何学ばかしじゃ、実社会という、つまり球面上の三角形を計るには誤りを犯すことも多いのですね。それはそうと、日本の昔からの幾何学は球面の三角形ですよ。リーマンだ。どうしたって、平面と球面とは違うなア。」
こう云ったそのとき、矢代は、自分の一番云いたかったことはそんなことではなく、千鶴子が外国へ由吉と一緒に再び行ってしまうかもしれぬ、その危険を引き留めることだったと思った。もし千鶴子がいま外国へ逃げて行くようなことになったら、いったい自分にとって、ギリシアや幾何学や、宗教などというものは何事かと矢代は思った。しかし、その危険は自分に迫っていると見ても良かった。
「日本に昔、幾何学はあったのですか。」
と槙三はまた子供らしい真顔で訊ねた。
矢代は要らざることを云ったものだと自分を後悔するのだった。彼はストーブに赤松の薪を投げ込みながら、それでも、今は料理の来る間の手持無沙汰を、話で何んとか揉み消していなければならなかった。
「ありましたとも、日本の古い祠の本体は幣帛ですからね。幣帛という一枚の白紙は、幾ら切っていっても無限に切れて下へ下へと降りてゆく幾何学ですよ。同時にまたあれは日本人の平和な祈りですね。つまり、僕らの国の中心の思想は、そういう宇宙の美しさを信じ示しているんだと思うのです。今の僕らが何も知らずに国家国家と云っていたのは、先祖の考えた宇宙を国家などと小さく翻訳語で云っているので、おかしなものだ。」
「ふむ。」
と云ったまま槙三はまた黙ってしまった。脇道を振り返ることの出来ない純情な槙三に、一層火力をたてて薪を投げ込むような結果になって来た、このひとときが、何んとなく重くるしく矢代には苦痛だった。
「しかし、それは何も僕らにも無理はないので、日本についてはちっとも知らぬという、無邪気なところがあったのですね。われわれみたいなものに日本なんかそう矢鱈に知られちゃ、実際たまらんというときが、日本のいまというものかもしれないんだから、何も知られない方がむしろ結果が良いので、こっそり隠しているのだ。もう暫くすればきっと分るときが来るんじゃありませんかな。もう暫く、そのもう暫く日本人を眠らせて置くということが、それが日本の先祖の愛情のある工夫なんじゃないかと、僕はこのごろになって思うんです。きっとそうですよ。」
こう矢代の云っているとき雪の坂路を、両手に手櫃を下げた茶店の老婆が腰を曲げて登って来た。
「御馳走が来ましたよ。」
矢代は槙三の質問を喰いとめたくて戸口の傍へ立って行った。小屋まで来た老婆はよく磨きのかかった手櫃を二つ矢代に渡した。
「さア、どれから始めるかな。」
矢代は手櫃の蓋を取って見て、山の料理は出す順序が難しいものだなと思った。こんにゃくの白和、自然薯のとろろ、揚物の生椎茸、それに彼の手料理の鶏の丸焼と杉菜の煮物、こうずらりとテーブルの上へ、皿と一緒に並べてからまた彼は云った。
「まア、それぞれ、お好きなものからめし上ってもらいましょうか。」
「こんなに沢山いただくんですの。珍らしいものばかりね。」
千鶴子は鉢から各自の皿へ料理の品を取り別けたり、御飯をみなの茶碗に盛ったりした。
「このあたりで、僕の方がお客にさせて貰いますかな。」
と矢代は云って笑った。
「どうぞ、これだけいただけば、後はたくさんですわ。」
食事中に吸物の出来るようストーブにかけて三人は御飯を初めにかかった。こんにゃくの白和はとくに良い出来だった。千鶴子は自然薯のとろろの味を褒めたが、これは少し味が濃すぎたようだし、生椎茸の揚物は油が悪く期待を裏切った。その代りに御飯がいつもより上手に炊けているので、塩気の利いた物が美味に感じられる食事となった。食い物の味など槙三には分らないらしく、出るものをみな黙って食べていたが、鶏だけは特別気に入ったと見えて、爪附きの片足をひっ掴んだまま、口もとをバタの油で濡らしては必死に筋を食い破っていた。
「あなたのプウレオウリ、思い出すわ。この方ね、パリで若鶏ばかし上ってらしたの。一度鶏供養なさらなきゃ、罰があたりましてよ。」
千鶴子のそう云うのに矢代は、たしかにそれもそうだと思うのだった。
「ほんとに僕はパリで何百羽食べただろう。一度鶏供養をしよう。その供養でまた食べるか。」
「どこの料理が一番お好きでした。」
と槙三は訊ねた。この同じ質問はこれまでに度び度びされるため、矢代は答えるのに、いつか本当のことが云えなくなってしまっていた。
「僕は鶏のことを思うときだけ、一度外国へ行きたいなアと思うんですよ。由吉さんのまた行かれることを聞いても、第一に鶏が浮んで来てね。こういうのが、やはり、供養というんでしょうね。だから、今日のもつまり、これも鶏供養です。」
「それはそういうものでしょうね。兄さんと行くようなことにでもなったら、あたしあなたの代りに沢山鶏を食べといて上げてよ。」
千鶴子は鶏の肩の部分にナイフを入れながら、ちらっと矢代の顔を伺って云った。
「じゃ、あなた、また行かれるおつもりもあるんですね。どうも、いまいましいなア。」
と矢代は、槙三のいる手前もあって軽く、眉を上げて笑った。
「でも、兄さんから行こう行こうって云うんですの。帰ってから半年目と一年目に、一番また行きたくなるって云うけれど、どうもそのようね。何んだかしら、あたしもそのせいか、ときどきふらふらっと、眼暈いするみたいに行きたくなることがあるの。あなたは?」
「僕は今日のように、鶏の出るときだけだ、行きたいのは。」
「外国の鶏はこれよりもっと美味しいんですか。」
とまた槙三は質問した。
「たしかに美味かったと思いますね。」
矢代はそう答えながらも、さきから、これが鶏の罰かとひそかに思ったほど、千鶴子の外国行きのことが重く心にかかって来て、暫くは何んとなく空虚な箸の動きがつづくのだった。それにまた、千鶴子たちが東京へ戻ってから、いちいち自分のことを、母親に報告するにちがいない正直な槙三の現在の立場のことを思うと、彼が普通の客とは見えず、何か権威を具えた斥候のように見えて多少矢代は肩もこった。ただ幾らか矢代にとって都合のよいことは、自分が槙三を好きなことだった。
「しかし、あなたもう一度行くのそれだけはおやめなさいよ。」
矢代は向き直るように千鶴子に云った。
「ええ。」と千鶴子も何か考え込む風に小声で云ってから、
「でも、今度行くのでしたら、あたしみっちり研究してみたいことがあるの。この前のときはすぐ帰るんだと思っていたでしょう。ですから、ほんの真似事みたいに外から調べただけだったけど、帰ってから何んだか惜しくって、あなたじゃありませんが、急に勉強したくてたまらなくなるんですのよ。」
「じゃ、あのとき、あれで何かあなたも研究してらっしたんですか。」矢代は千鶴子との交際の日のことを省みて自分の迂濶さに、今さら驚くように訊ねた。
「あのときは、あなたがいけないんですよ、あなたはただ遊べ、それが何より勉強だって仰言ったわ。」
「いや、あのときは一番それがほんとうだったのですよ。僕だって、あのとき遊んだことだけは後悔したことありませんからね。」
「そのせいね、こんなに帰ってから勉強したくなるの、――あたしね、洋裁の断ち方をもっと勉強して来て、自分で生活をしてゆきたいと思うの。そんなことこのごろいろいろ考えると、愉しいんだか寂しいんだか、よく分らなくなって困るんだけど――」
どういうことを云いたくて千鶴子はそんなことを云い出したりしたのかと、矢代は暫く考えるのだった。槙三のいるため眼に見えぬ家庭内の気苦労を、露《あらわ》には云い得ず、暗に匂わす彼女の苦しさの歪みかと解することも出来れば、また一方どこかで、自分に衝って来ている角の鋭さも感じられ、矢代は返答に窮して黙っていた。
「こんなこと、もうやめましょうね。せっかくの御飯もったいないわ。」
千鶴子はふと軽く翻るように云って、吸物をニュームの鍋から椀に注ぎ、それぞれの前に並べた。小食の矢代は皆より先に食事をすませてから、吸物の代りにコーヒーを懸け換えた。
「これで鶏の供養をすませたことになれば、有り難いんだがなア。」
と彼は呟きながら自分の使った食器の汚れ物を、バケツの中へ入れ、そして、煙草に火を点けた。千鶴子にだけ矢代の呟きが聞えたらしくちらッと彼を見た。
「でも、お美味しゅうござんしたわ。今日のお料理。」
笑って云う千鶴子の後から槙三も下手な礼をのべた。食卓の上が片づいてから気怠い満腹のままコーヒーになった。暫く誰も黙っている静かな窓の外で、ときどき屋根から崩れ落ちる雪の音がした。矢代は耳の欹つその音を聞いていると、コーヒーの湯気のゆらめきかかる千鶴子の臙脂のマフラから伸びた頸の白さが、なまめいた色に見えた。そして、昨日と違う艶のある部屋になったと思い、片肱で身を卓に支えるのも重く感じた。
その日は一日、矢代は今までに感じたことのない胸苦しさを感じた。なるだけ快活にしていることに努めてみても、ともすると、黙り込むことが多くなり、疲労のような気怠い重味を胸に覚えてときどき雪の中へ立った。夕食は宿で摂ることにしたので、彼は客を帰してから、ひとり千鶴子たちの宿屋へ出かけた。途中の坂路の曲り角の所で、宿の褞袍《どてら》を着た三人の女と出会った。その話し声の賑やかさが千鶴子の部屋と二つへだてた部屋の、潰れた汚い声の主だちだった。東京のどこか色街から来たと見える一行だったが、女将らしい六十近い肥った女が、二人の抱え妓をつれた夕食前の散歩らしく、
「おいおい、お前だよ今度は。」
女将は男のような声で若い方の妓の肩を突つくと、一人は云われたまま坂の土手の雪の中へ顔を捺しつけた。前に同じようにして作られた女のマスク二つ並んだ横へ、今度は女将が最後に自分の顔を捺しつけてみて、
「ほう、おれのが一番おかめだよ。」と云いながら、三人声を合せてげらげら笑い崩れた。夕暮前のほの明るい山の頂を連ねたその下で、暫くまた三人は同じことを繰り返して笑いころげていた。
矢代は邪気を無くした女らの戯れを見ていると、自分もともに顔を洗ったような爽やかな感じがした。彼は坂路に立ち停り、暮れ染ってゆく峰の雪を仰いで煙草を出した。そしてふと今夜自分は千鶴子に結婚のことを切り出してみようかと思い、俄に更った気持ちの動いて来るのを覚え元気になるのだった。
矢代は宿の方へ歩きながらも、いよいよ結婚を定めるとすると、一度その前に、千鶴子の朝夕の祈りの際用いるカソリックの誓詞を聞いて置きたいと思った。それも知
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