がやんだわ。あなたの山小屋ここから近いんですの。行ってみたいわ。」
「このすぐ上です。しかし、明日のお昼までは駄目ですよ。これから帰って御馳走の用意をしなくちや、――」
「今ごろからなら、あたしもお手伝い出来るわ。」
「まア、明日だけは黙って僕のお弟子になりなさい。」
こういうことを云っているときでも、料理のことを考えると矢代はいつも覚えぬ心の弾みを感じて来た。
翌朝矢代は野菜を受け取りかたがた、宿屋まで朝湯に行った。千鶴子たちの部屋へは立ちよらぬことにしてすぐ彼は湯殿に廻った。昨夜あれから遅い夜汽車で着いた客が、もう今朝早く発つらしく湯の中は賑やかだった。浴場内は朝ごとのようにいちめんの濃霧で人の身体が隠れ、誰が誰だか分らなかったから、もしかすると千鶴子か槙三かどちらか一人、この中にいるのかもしれなかった。
どこの湯と変らずよく饒舌る客は、いつでもその者だけ饒舌りつづけ、黙っているものはいつも黙っているので、耳に響いている声より人数が多いにちがいなかった。たがいに身体の立てる波紋が絶えず不規則に打ち合い、きらきら光って矢代の顎を洗った。出て行く客もあれば、新しく入って来る客もあって、戸の辷る音も続いてするのに、入の姿のまったく見えぬ朝の湯は、いつもながら矢代を愉しくのどかな気持ちにした。
そのうちよく饒舌る客連れが出ていった。ひっそりした後の水面で鳴る波紋の音だけ、ちゃぶちゃぶ聞えた。
「あ――あ。」
と、湯の縁のどこかで、思いがけなく大きな欠伸をするものもあった。たがいに顔を見合せぬように、なるたけ人人は離れる工夫でそれぞれ湯の中の位置を撰んでいても、新しく入り込んで来る客があると、自然にそれもまた少しずつずれ違って廻った。
矢代は槙三や千鶴子たちとどういうものか、湯の中で出会わぬことを希ったので、傍に人が近づいて来る度びに顔を背けて移動し、濃霧の中の自分ひとりの世界を愉しむのだった。しかし、近くの水面から人の立ち上る音や、蛇口から垂れる水音など聞えて来る中に混って、二つ小さくつづいて聞えた咳き声が、何んとなく千鶴子らしい聞き覚えのある咳だった。昨夜の急な寒さで風邪でもひいたのだろうかと、矢代は気にかかった。湯の縁をひと廻りしてみればすぐ確かめられることだったが、それが彼にはやはり出来なかった。槙三をまだ寝かせ一人で先に湯に来たものとすると、間違いなくもう今ごろは千鶴子の入浴の時間だった。矢代は顔を水面につけるようにして、湯気の足の立つ比較的曇らぬ部分から透してみても、忽ち濃霧が上から舞い下って来て人の姿をかき消した。霧は絶えず湯の波に突き上げられてはまた水面にまき返り、早い速度でぐるぐる室内を廻っているようだった。雪の山が上方の稀薄な霧の部分に、射し出た朝日を受けて高く薄紅色に染っていた。
山際の深い藍色の空は厳しいほど鮮かだった。矢代は湯の縁で足を抱き、空を仰いでいると、ふと千鶴子が自分と別れてパリを去っていったときの、あの飛行機の消えた空の色を思い出した。あのときは、もう二人は再び会うこともなかろうと思ったほど虚しく、深い空の色だったが、――霧は絶えず噴きあがり舞い降りた。嗽いをするような秘かな水音に包まれその中に今も千鶴子がいるのだった。矢代は昼の食事を今から愉しみに入浴しているにちがいない二人のことを思うと、間もなく湯から出た。
宿の女中から貰った杉菜や、生椎茸を擁《かか》えて彼は山小屋の方へ登った。谷底の川の表面は氷の解けた流れだけ薄黒く沈んだ色を残し、他は真白の起伏が全面朝日に映え、微粒子の飛び散るように眼映ゆかった。
自然薯のとろろ、こんにゃくの白和、生椎茸の揚物など、こんな手数のかかるものは茶店の老婆に届けて貰うことにして、矢代は小屋の燠火で鶏の丸焼をするつもりだったが、料理にかかるには時間が少し早すぎた。小屋の床下と地面に積った雪との隙間が昨夜の雪ではまだ埋らず、下から吹く風に小屋も寒かった。
矢代は時間のある間、また朝の日課の調べ物にかかった。一日の読書の時間中、何かまだ知らなかったあることを一つ見つけた日は、先ずその日を空費しなかったと忍耐するこのごろだったが、彼はこの日の部分では意外に大きな拾い物を一つした。それは十三世紀の宗教史の中から遅まきながらも聖トマスという人物の思想と働きとを見つけたことだった。この人物はそれまでのキリスト教からその含んでいた東洋の神秘思想を抜き去り、代りに十三世紀のカソリックに初めてギリシアの主知主義を導き入れた。彼は、人間というものは霊的世界と物質世界をつなぐ紐帯物だと眺め、神の世界に入るためには、人人の感覚の受け取る物質の秩序を科学的に極めて後に、次第に高きに登ることを主張して、ルネッサンスの科学の勃興に決定的な力を与えた主要な人物だった。彼が出て以来それまで相分れて争いをつづけていた宗教と科学とに調和をとらしめ、人間を自然の秩序の中に置き直して、西洋にルネッサンスの花を開かしめたこのことは、これは矢代にとっては、長らく疑問のままに捨てていた中世紀の暗さの中から見出した手応えある光った鍵ともいうべきものだった。このようなことは宗教史に明るい者にとっては、別に異とすることではないにちがいなかったが、調べ物の範囲に設計図を引くためには、矢代の重要な一条の幹線となるべきことだった。殊に宗教の本質を失わしめず、それとまったく相反する科学を、人間最低の知力という能力に咲かしめた花とし、またそれを人の肥料ともせしめ得た配慮と工夫と政治の中には、今もなお東洋人の取捨選択すべき幾多の重い穂粒の水中に沈んでいる筈の箇所だった。そして、この聖トマスが苦心をこらしてルネッサンスのキリスト教の中から断絶せしめた東洋の神秘思想の上には、今こそルネッサンス以上の開明期のさし昇って来ているときだと矢代は思い疑わなかった。実際、彼はそれが眼のあたりに来ているのが感じられて嬉しかった。
矢代は自分らの苦心の勉強もすべては西洋に答うべき東洋の美質の再建のときであって、ルネッサンスの取り入れた科学をギリシアのように頭として使わず、自分の手足として使う能力を養う工夫に、今は全力を尽すべきだと思うのだった。
矢代は書物を伏せて時計を見ると、もう十一時近かった。彼はあわててストーブに薪を投げ入れ、鶏の腹にバタを詰め込んで丸焼にとりかかった。金串に刺した鳥肌が火の上でじじッと脂肪を垂らす音を聞きながら、彼は千鶴子と槙三に御馳走をするその前に、ルネッサンスの中核を嗅ぎあてることの出来た午前を、山小屋に来た甲斐があったと喜んだ。それはまことにほのぼのとした白光の世界を望む思いのする、午前のひとときの喜びだった。
人間の知力というものを人の持ちものの最低のものと観破した聖トマスの謙虚さが、つまり、あの見事なルネッサンスの花を咲かせたのだなア、しかし、今の東洋にはそれ以上の謙虚さが根柢に残っている。それが良いのだ。とまた彼は胸中でひとりこんなに呟いて感服し反省した。
そう云えば、聖トマスという英語はフランス読みに換えるとサン・トーマとなる。サン・トーマ寺院はルクサンブール公園から数町とへだたらぬ所にあった。一度千鶴子と二人でこの寺院を矢代も訪れたことがあったが、内陣の壁画に野蛮人のひれ伏している頭上高く、誇りやかに十字架を輝かせた図の多いのに不快を感じ、よく調べもせずすぐ外へ出て来た記憶のあるのがそこだった。蛮人という生命の資本のごとき活力に知性の槍を突き刺してこれを殺したギリシアのかつての滅亡の因が、その寺院の中にも生い繁っていたのである。むすび(産霊)の零のない数学の藪のように――。
昼近くなって千鶴子と槙三が、まだ幹の湿った杉の坂路を明るい声で登って来た。よく霽れた空の下に拡がった雪の谷を見降ろし、矢代は小屋の窓から手を上げて二人を呼んだ。下からも答える声がした。矢代の調べ物もまだ知らずに雪路を登って来る空腹な二人の兄弟の弟子が、一人はカソリックで、一人は科学者であるのがまた今の矢代には面白かった。
「汗をかいちゃったわ。今日は暖くって、いいお天気ですこと。」
小屋の前まで来たとき、千鶴子は宿から借りた足駄の雪を踏段の角で払い落して云った。
雪が日に解け始めたと見え屋根から崩れ落ちた。部屋に兄弟の客を上げると矢代は茶を淹れた。千鶴子はまだ外套も脱がず珍らしそうに、暫くは裏口の窓へ行ったり、炊事場へ廻ったりしつづけた。矢代は嫁に自分の栖家を初めて見せるような、初初しい気持ちに満たされて彼女の後姿を眺めるのだった。
「どうです、この小屋お気に入りましたか。」
「簡単でいいわ。あなた、無慾になったなんてお手紙で御自慢仰言ったけど、ここならあたしだって、無慾になれましてよ。」
裏口の窓から筧の落す水を眺めていた千鶴子は、ただ二人の間に通じるある意味を含めた微笑で振り向いた。矢代はそういう千鶴子の微笑を初めて見たと思い、何か確実な彼女の心を掴んだ安心を得た思いで、椅子に対っている槙三の顔をまた眺めるのだった。しかし、槙三は、そんな事柄には一向興味の動かぬらしい穏やかな顔つきで、赧い下唇を突き出したまま、卓子の上に散っている矢代の書類を見ていた。矢代は千鶴子がよく気のつく上の兄の由吉を連れて来ずに、槙三を選んだ理由もよく分った。
「あなた風邪はひきませんでしたか。昨夜は少し冷えましたからね。」
朝の浴槽の中で小さく咳いた千鶴子の咳声を思い出し、矢代は槙三にそう訊ねた。
「いえ別に。」と槙三は云ってから、「宗教を研究してらっしゃるんですか。」と訊ね返して笑った。
「宗教というほどのことはないので。」
矢代は笑いながら答えてから、むしろ、宗教よりあなたの専門の科学の方で、とそう云いたくも思った。が、昨夜食事のさい危く二人のもつれかかった話題のことも考えられたので、またこのときも黙るのだった。何か一口いえば、火の発するものを無数に抱いている今の青年の間だと思うと、口口に云いたいことを圧え黙りつづける工夫も、これで並みたいていのことではないと矢代は思った。
「千鶴子さん、まアここへおかけなさい。御馳走は下のお婆さんに頼んだのが来れば、さしあげられますから。」
千鶴子は外套の袖から腕を抜いてストーブの傍へ来た。まだ部屋に籠っているバタ焼の鶏の臭いが千鶴子の動く身につれ掠め立った。
「由吉兄さん、そろそろまた外国行きの準備なんですけれど先日あなたに云われたの利いたものか、今度は奈良や京都をよく一度見直して行くんだと云ってますのよ。そのときあたしも一緒に行きたいと思うの。あなたもいかが?」
「それならいつでもお供します。」と矢代は云った。「しかし、由吉さん、疲れの休まる暇もありませんね。僕なんか、まだ疲れが癒ったとは思えないんだが、馴れてる人はそうでもないものかな。」
「何んですか、このごろは早く外国へ行きたいような素振りもあるんですのよ。あたしにも、一緒にまた行かないかなんて、云うんですの。」
由吉の冗談だとばかり、気軽く千鶴子も思って云ったつもりらしかったが、矢代にはそれがかなり強く響いて応えた。たとい由吉の冗談とはいえ、そんな空気も宇佐美一家の中に漂っていることは見逃しがたいことだった。それも他の男と結婚を迫られている現在の千鶴子の唯一の逃げ場も、再度の外国行き以外にないことを見抜いている、由吉の同情した誘いかとも、矢代には考えられた。また切羽つまれば、由吉の誘いも馬鹿にはならぬ、事実となりそうなものをも含んでいた。
「僕の知人で一人、日本へ帰ると一ヵ月東京にいたきり、すぐまたパリへ来てしまったのがいますがね。ところが、またそれとは反対のもいて、日本からパリへ着くと、次の日にもうパリがいやになって、半月目に日本へ戻ってしまったのもいますよ。人というものは、いろいろなものだなアこれで。」
矢代は千鶴子に、あなたは今はどちらの方かと訊ねるつもりだったのに、そういうことを云っては秘かな狼狽の色を蔽うのだった。
「どうしてですかね。そんなに違うの。」
と槙三は訝し
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