ね。」
改札口の所の矢代を見付け、千鶴子はまだ車内の蒸気の熱に浮かされた頬で笑った。それはまた夢の中の彼女とはまったく違った顔だった。宿の番頭に荷物を渡してから千鶴子は由吉の弟の槙三という青年を矢代に紹介した。一見彼女の弟かと見える槙三は、帝大の学帽のまま最初から稀に見る穏やかな笑顔をつづけて黙礼したきり、始終黙りつづけていた。由吉とはおよそ違った性格らしかったが、矢代はすぐ好きになった。五人兄弟のうち千鶴子が末っ子だということを彼は記憶していた。しかし、一つ違いの兄のあることは迂濶に今まで忘れていたのを思い出し、まだ自分の頭も常態ではないのかもしれぬと、馬橇の箱の前で矢代はふと思った。汽車の明りは闇を残してまた駅から離れていった。
寂しくなった雪明りの駅前で、汽車の吐き降ろした千鶴子を中心にまだ華やかな匂いが舞い残っていた。
「宿へ着くまではちょっと驚かされるんだが、明日になるとこれで捨てたもんじゃないですよ。」
橇が動き出したとき、窮屈な座席の後で、矢代は槙三を連れ出して来るまでの千鶴子の苦心を想像して云った。彼女の病気のことや、冬の休暇になった槙三の保養のことなど話が出ているときも、橇の片側がひどく雪路で傾いた。
「でも、あんなへんな病気は、一度してしまえば安心なものね。」
と千鶴子は振り向いて云った。町並みもなくなり馬の足音の調子がようやく出揃ったころだった。橇の脇板へ肱をついている矢代の指先だけ、千鶴子の肩の外套の毛に触れ温《ぬ》くかった。マルセーユへ上陸した夜、足の強直病にかかり腕を支えてくれたのも、この同じ黄鼬鼠の外套の温《ぬ》くさだったと彼は思った。あの夜の税関の狭い割石路を、船まで扶けられて歩いたのが千鶴子との始まりだったが、今はこの雪の中だった。洋灯の鈍い光圏の底で舞う雪片が大きくなり下からも吹き上った。
「自炊してらっしゃるようでしたけど、お続きになって。」
千鶴子は笑って訊ねた。
「どうしまして、宿屋よりよっぽどいい。」
「缶詰のお土産だけは持って来て上げましたのよ。だけどもう御不用のころかと思ったわ。」
天井に頭の閊える橇の中で、槙三は縮んだままいつも黙って笑っていた。矢代が何科かと訊ねると、
「理科です。」とひと言槙三は答えた。
「御専門は。」とまた矢代は訊ねた。
「数学です。」
「ほう、それは。」矢代は何ぜともなくそう云ってから、これは本ものの科学派だと思い暗い幌蔭で自然と微笑が洩れて来た。
ときどき脇板から肱が脱れ落ち、矢代の下顎が千鶴子の肩に突きあたるほど橇が揺れた。路傍の崖の下は川だったから踏み転がる危険もあった。
「恐ろしいわね、大丈夫かしら。」
千鶴子も槙三の肩により掴まって云った。灯のまったく見えなくなった狭間の底を、橇の小さな洋灯だけぐらぐら覚束なげな足取りで踉けた。
「僕も初めて来たときは、このあたりで地獄の底へ行くように思ったんだが、着いてみると、この方が来た気持ちがするんですよ。まだまだ揺れる。」
矢代のこう云っているときでも橇は左右に揺れつづけ、風が幌を鳴らせてはためき、その隙から鋭く雪が舞い込んだ。矢代はふとまた橇箱の上で、例の千鶴子が風とともに飛び狂っていそうな気持ちに襲われると、外が闇であるだけ鳴る風に一層敏感になり、それがまたさも狂わしげにばたばた翅を屋根に打ちつけるように思われた。
「しかし、仕方がないじゃないか。今はこっちさ。」
と矢代は外の千鶴子に云いきかせるように胸中でたしなめ、
「実際そうだよ。」
と、思わずそんな叱る言葉もつづいて出た。が、それだけはうっかりして口から洩れたらしく、箱の中の千鶴子は聞き咎める眼でふり向いた。
「何に?」
「いや。妙なところだ、ここ。」
軽く彼は反らしたがひやりとして、自分のひそかな喜びを人に感じられては一大事だと、咄嗟に彼は現前の橇の中の自分に立ち戻るのだった。
「この山を廻ると、向うの高台に火が見えますよ。それが宿だ。僕の小屋はそれから少し上の方になるんだが。」
矢代はそう云いながらも、傍でさきから黙っている槙三が何んとなく気味悪かった。しかし、矢代は自分がひとり不正な快感に耽っているのでは少しもないと思った。人に知られては困ることにちがいなかったが、自分の丹精こめて愛したものが、愛しただけ自ら別の姿となって自分に現れ分るだけのことであり、そのどこに不思議なことがあるものかと、向き直る度胸も出るのだった。もしそれが人に分れば千鶴子にだって、僕の想っている千鶴子は君じゃないよ、もっと君から抽象した人だと、云うだけの準備も胸中で出来ていた。
橇箱の三人は何んとなく黙りつづけて雪の中を揺れていった。
宿の女中たちの玄関に出揃った廊下を、三人は所定の部屋へ渡った。部屋には炬燵も出来ていた。宿着に着換えてから千鶴子と槙三がすぐ湯に行った。矢代はひとり部屋に残って熱い茶を飲み、炬燵に膝も温まって来ると、これからひとり冷えた山小屋へ戻るのも億劫に感じ、どこか別に部屋の空いたのを頼んでみたくも思った。しかし、一緒のものがさばけた由吉ならともかく、汚れの見えない槙三が千鶴子の連れだと思うと、千鶴子と自分の外国流の親しさなど見せるのも気がねだった。やはり夕食だけ宿で摂りそれから山小屋へ帰ることに定め、彼はまた傍の脇息を抱き込んで二人の戻るのを待つのだった。
それにしても千鶴子がここまで出て来ることの出来たのは少しは彼女の母も娘の意志を認めて来たのかもしれず、その相談もあってのことかとも解されたが、二人の間がのっぴきならなくなっているというよりも、も早や結婚する以外にどちらのコースもなくなっているのを矢代は感じた。それも男女の慎しみの限りを守りつづけ、その果てに実となった、われ知らぬ夢中での結婚だったとはいえ、すでに矢代は千鶴子の結婚も終えての今、初めて見るこの夜の親しさは、また格別前とは違って近親の情を覚えた。今となっては、たとい二人の間を妨げるものがあるとしても、やむにやまれず押し切って後悔せぬ張力に変るかも知れぬものだった。
しかし、自分はまたそれをも喰いとめてしまうことだろう、と矢代は思った。もうそれは彼の慎しみでもなければ、羞しさでもなかった。それはどういうものか別に理由のないことで、強いて云えば、それは人にただ守られるだけの努力でやっと伝わってゆく儚ない礼儀のようなものかと思われた。矢代はこんなに自分の心を自由に用いることも、見ることもともに封じているのも、やはり何んとなく、昔から人人の担いで来た分らぬ重い御輿を自分も担いで見たかったからである。
千鶴子は珍しく宿着を抜き襟ぎみに湯から上って来て、タオルをかけ、
「いいお湯でしたわ。お入りになりません。」
と矢代に奨め鏡台の傍で化粧をした。
艶のある爪が軽く頬の上で揺れるのを眺めながら、彼は千鶴子の和服姿を見るのも初めてだと思った。
「早く入ると僕は湯ざめのするたちでね。しかし、ここの湯は良いでしょう。殊に朝がいいんだが。」
「でも、お豪いわ。自炊をつづけてらっしゃるの、お風呂の中でさきも、槙さんとお話してましたのよ。」
「じゃ、明日のお昼はひとつ、お二人を御招待しますよ。山の御馳走召し上ってもらいましようか。」
「お昼?」千鶴子は鏡の中から振り返って、「まア嬉しいわ。お待ちしてましてよ。どんな御馳走かしら。」
駅へ迎いに行くときから明日の昼の招待について考えていたこととて、今になって突然思いついた冗談ではなかったから、材料もある程度明日の午前中に揃う手筈もあった。
「何しろ雪の中の手料理ですからね。東京で作ったのとは違うが、チロルの山小屋のときよりは少しはましかもしれないな。」
「あのときは何んだったかしら。スープとお馬鈴薯と、ソセージ、ね、たしかそうだったわ。」
二人が顔を見合せて笑っている所へ、夕食の仕度が整い料理が出て来た。まだ湯から上って来ない槙三のことを矢代が訊ねると、きっと湯気でも見て何か考え事をしているのだろうと千鶴子は笑った。そこへのっそり入って来た槙三は窓よりの廊下の椅子にかけ山を眺めた。彼は常住坐臥あまり人間のことなど考えていそうでもなく、自然の動きと数の組み合せだけ考えつづけているためか、惑いのない動かぬ独特な微笑を湛えていた。純潔な赤い下唇が少し突き出ていて、大きく澄んだ眼は美しく、自分の気持ちの困惑など少しも人に見せそうもない、おっとり物云わぬ態度をいつも崩さなかった。何かそこに必ず誇りもありそうなことは矢代にも分ったが、それがまた彼の感じを一層よくしていた。
「明日のお昼に矢代さん、あたしたちに御馳走して下さるんですって。お山のお手料理よ。」
炬燵の上へ厚板を敷いた冬の宿の食卓に対ったとき、千鶴子は槙三にそう云ったが、槙三はただにっこり笑っただけだった。
「料理されるのお好きですか。」
と槙三は暫くして矢代に突然訊ねた。千鶴子は下手な槙三の質問に顔を一寸赧らめると、矢代の答え難くげな隙を埋める風に横から云った。
「この方そんなこと一番お嫌いな方なの。ですからあたし、明日の御馳走楽しみなのよ。」
「しかし、山にいますとね、里にいるときとは違って、料理を作ることはたしかに面白くなるものですよ。御馳走という字も坊さんから出て来たというの、よく分るなア。日本の船がむかし椎茸を積んで支那の寧波《ニンポー》へ行ったとき、あそこの坊さんの大将の、その日の務めの最大行事は、美味いものを弟子たちに食わせることだったものだから、山へ降りてあちらへ走り、こちらへ走りして材料を調えに走り廻った結果が、日本の椎茸が一番美味かったというところから、馳走という字になったという説があるでしょう。まア明日はひとつ、僕も坊さんになりますから。」
「じゃ、あたしたち、明日はお弟子さんなのね。」
と千鶴子は揚物の鮭に箸をつけて笑った。
「いや、それはお好きなように。とにかく、東洋人は理窟を食うよりも、美味いものを食う方が人生倖せだと悟ったのだから、その点西洋人よりは賢いですよ。」
食事の愉しさに矢代も傍の槙三が数学者だということをつい忘れて云った。
「しかし、人間が数というものを発見してしまったからは、もう倖せも倖せではなくなったでしょう。」と槙三は急に学生らしくはっきりした声で矢代を見て笑った。これは失敗ったと矢代は思った。
「つまり、それは抽象の発見だから、そのときから人間不幸の初まりですよ。ギリシアの悲劇の発生だ。」
「じゃ、零を発見したのは印度人ですが、これは何んですかね。抽象ですか。」
数のことに関しては、槙三は云うだけ云わずにいられぬ数学者らしい鋭い口振りになって来た。
「そうそう、零を発見したのは印度が初めだそうですね。数学のことはよく僕は分らないんだが、しかし、不思議なことには、まア話は少し違うが、日本人も大昔には零を発見しているですね。ワという字があるが、あれはアイウエオ五十音字の中じゃ、最後の十番を表す行の頭字でしょう。日本の古代文字のワという字は零ですよ。つまり、輪の丸がワの字で、むすびの十番にこの丸を置いたということには、日本数学の何かがあるとこのごろ思っているのですがね。ところが、ギリシアの数には零という字がない。あれが僕には分らない。零というのは輪で、これはむすびの和なんだが。和がないなんて。」
「僕は日本の古代文字のことは知らないんですが、数学では零というものの観念は、まだ誰にも分らないのですよ。ところが、その零という分らぬ丸の上に、すべての近代文化が乗って花開いていると云うんです。」
と槙三はふとさし俯向いて云ったまま黙ったが、やはり穏かな微笑を泛べていた。
「零がね。不思議だこと。」
千鶴子も少し考えたらしく黙って箸を動かした。
食事を終ったころは風も消え、雪明りの谷に馬の嘶きが厳しく響き透って来た。矢代は欄干から明日の料理の鳥を頼んである家の明りを探した。一軒家の茶店の窓から、通りの雪に射すランプの色が温い平安な感じだった。千鶴子も食事をすましてから矢代の傍へ来た。
「あら、雪
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