がここに一番似ていたと思った。彼は番頭に山小屋での自炊用の薪や、調味料などの世話を頼み、暫くの浴場もこの宿のを借りることにして、明日からの小屋の生活を楽しみにした。
 矢代は寝る前に音信を忘れていた知人たちへ手紙を書いた。彼は外国へ行ったことの利益のうち、省みて生活に直接役立ったと思うことは、何より自分が無慾になったことだと思っていたので、千鶴子へ出す手紙の中にも忘れずそのことを書き加えた。また結婚のことも考えると、まだ一度も自分が千鶴子にそんな意志を表示したことのないのに気が付き、千鶴子の待ち受けているのは或いはそれかもしれないと思ったが、しかし、特に結婚の申し込みをしなければならぬほど疎遠な間柄でもないと思い、やはり筆にまですることは差しひかえるのだった。自分に自信があるからだと云えばそのようなものだった。そう云えば千鶴子にしても、たしかに自信があるにちがいない素振りであった。たとい向うの母親に異議があり、自分の方の母親にも同様なことが起るとしてみても、それなら、双方の異議の消え去るまで待つだけの準備は、またどちらにも出来ている筈だった。ただ彼は、今さらそれを云い出して事を荒立てる気持ちがなかっただけで、他から云われずとも、自分の方は自分で互に邪魔ものとなる事がらを秘かに処理してみてこそ、それが二人の場合に限った一番自然な愛情のように思われた。もしそれも出来なければ、出来ないような何事かがまだ二人の間にあるのにちがいない。――とにかく、矢代は結婚という言葉を今は強硬に手紙の中で使いたくはないのだった。一つはそれも、千鶴子と自分の間に西洋の幻影が燃え尽きず、まだ焔を上げているのが感じられたからでもある。
「どういうものですか、僕はこのごろ、無茶苦茶に勉強がしたくなって来ています。かつて今まで、これほど勉強をしたいと思ったことはまだありません。あなたのこともよく頭に泛んで来て困りますが、実際、これは困るほどです。なるだけその方のことは倹約することにして、荒行を山でやりたく出て来ました。非常な決心で明日から山小屋の雪の中で、自炊もするのです。我ながら勇ましい覚悟に愕いておりますが、チロルのときのように邪魔しないで下さい。あのときのことを思うだけでも、今の僕にはあなたが少からず邪魔になるのです。」
 こう矢代は千鶴子に書いて、嘘はどこにもないと思った。


 山小屋は宿からあまり離れていなかった。二十畳敷ほどの両側に寝台が四つ、窓際にベンチ代りのが二つと、都合六台あって、椅子、テーブルを中に炉代りのストーブもあり、内側の丸木はすべて白ペンキ塗りのため室内は明るかった。自炊用の道具箱も戸棚の中に揃っていた。やがてスキー客の出揃うころになると、この小屋も満員になりそうなので、矢代の勉強もするなら雪の浅い今のうちだった。
 ここは特に朝の景色が美しかった。山際の雪に接した空の色の鮮かさは、醒めたばかりの眼を射抜き、貼りつけられたように暫く視線がそこから動かなかった。そこへさし昇って来る朝日に照り耀いた雪を冠ったまま、朧に静まる薄紫の枝枝の繊細さ、――矢代は顔を洗ってから一寸雪片を口に含んで菜を截り、火をストーブに焚きつけてそこで湯を沸かすのである。自炊はさして面倒なものではなくむしろ楽しかったが、後の洗い物が苦手だったから、これは附近の老婆に御飯と一緒に頼むことにした。
 二三日は矢代は小屋からあまり外へ出ず書物ばかり読みつづけた。宿から初め小屋に移って来たときに感じた辛さは、宿で女中に見張られた気苦労よりも暮し良く、この生活は自分の理想の一つだと思えたほど退屈もしなかった。ただこの生活にもし書物がなかったら、恐らくこうして二日とはいられぬだろうと思うと、窓の外いちめんの白さが、ふと恐るべき退屈の塊りのように見えた。シベリヤを通ったとき矢代と同室の南が、十年前に一度雪のそこを通った景色も忘れたことを話し、
「あのときは雪が降りてたから、外なんか見なかった。いや、しかし、今度は驚きましたね。」
 と、シベリヤの広さに驚歎したのを矢代は思い、十日余りも続くあの地の真白な世界を想像してみて、その途方もなく巨大な白い塊の中に生活して来たロシア人の表情も、所詮は、我れ識らずに退屈と戦って来た長い苦しさかも知れぬと思ったりした。退屈しのぎにせっせと人殺しをすることを書いた帝政ロシアの小説を、矢代はいつか読んだこともあった。それも雪のせいだったようにも記憶しておれば、また、昨日までの親友が明日自分のその友達を殺して平然としていることがよくあるのも、それも、突如として大平原に襲って来る気候の激変のためだと、モスコーを通ったときそこにいた日本人から聞かされて、なるほどここなら、それも別に不思議はないと頷いたこともあった。およそわが国のみならず、どの国の自然、風土からこの国を考えても、誤差の甚だしく生じるロシアだと彼は思ったが、ひところこの国に栄えた思想を範とせよと各国の知識階級に呼びかけた者の勢い旺んだった年のあったことも、すべては当時栄えた唯物史観という、ある種の科学説の力だった。
「いったい、ギリシアは何ぜ滅んだのだろう。」
 と、こういうときには矢代はいつも思うのが癖だった。今も彼が雪の山小屋へ勉強に出て来たのも、科学を世界に伝え残したこのギリシアの滅んだ理由を調べたかったからである。そして、矢代の先祖の城を滅ぼしたのも、つまりはすでに滅んでいるこのギリシアの残した科学のためであり、それもカソリックという宗教の仮面を冠って不意に襲って来た科学であったのに、今もなお彼までそれを調べねばならぬとは、身を省みて怪しまれることだった。
「とにかく、あれはおかしな代物だ。」
 と矢代は、こんなときには薄笑いを洩してギリシアの文明について考えるのだった。
 また彼のその薄笑いは彼ひとりのみならず、東洋共通の表情にも通じたもののようでもあり、恐らくそれも東洋だけの愁いでもなく科学の仮面とされて遠く波路を渡り、東洋に押し出されて来たカソリック自身の歎きにもちがいないことだった。
 こんな意味から選んで持ち込んで来た矢代の書物の類も、宗教は宗教のことの歴史だけより書いてなく、科学は科学だけの歴史より書いてなかった。今の矢代にとって目下何より知っておきたいことは、この二つの歴史の争いもつれたその接点の歴史だった。


 矢代は朝起きると朝食の前に小屋を出、宿まで行って浴槽に浸った。朝の空に突出した高い浴槽は、他には見られぬ稀な場景を泛べ、ここの温泉は毎朝の彼の一つの愉しみだった。
 さし渡し三間もある白いタイルの円形の中に、透明な湯が漲り溢れていて、部屋から入りこんで来る客も朝は賑わった。浴槽内の温度が外気を遮る大きなガラスの壁面の冷たさに触れ、物凄い濃霧の湯気となって場内に巻き返るので、肌の触れ合うほど間近に顔を並べている隣りの客の顔さえ朧だった。その他の客の姿など少しも見えず、ただ男女の声だけ聞える茫茫とした霧の中に、朝日に映えた薄紅色の山の雪の明るさが射し透った。
 矢代はいつも山に向いた位置を撰び背をタイルの縁に寄せ、舞い立つ霧の底でがぼがぼ鳴る湯の音を聞いた。広い山の湯の男女の混浴は隔離した湯よりも、むしろ清浄な山川の匂いが強く肌に染み入り、互に羞らいのない心の爽かさが、また一層朝の人の眼醒めを美しくした。
「冬は暖いとこの温泉へ行きたいが、来てみると、やはり冬は冬景色を見るのも良いものだな。」
 とある客の声もした。猪の出たことや、この地の葱の特別の美味さや、馬橇の値の高さなど、湯の中の話を聞くともなく聞きながら、矢代は、朝の雪中の男女の混浴を俗情と見ず、こうしている人人も、健康な日のギリシアにどこか似ているなと思った。そして、また彼は今調べつづけているその文明の滅んだ理由を、湯の中で自然に考えるのだった。
 矢代の読んで来たギリシアの滅んだ理由はさまざまであった。小党の分立だとか、社会主義の跋扈《ばっこ》だとか、科学の発達から当然に起った農村人の都会化だとか、神神の紛失だとか、歴史家の見方は、それぞれ違った理由を述べたてていたが、彼はそれらを尽くそのまま真実のこととは思えなかった。まだ人人の誰も知らぬことがらが必ず隠れているにちがいないと思い、裸身の人人の湯の中の姿を濃霧の中から見つづけた、ときどき朝日に透けた霧の中から、二つの乳房がおぼろに水面に対って重く垂れている均衡のある美しさを彼は見て、あるいはギリシアは、ここに何か欠陥が生じて滅んだのではあるまいかと思ったりした。
「つまり乳が不足したのさ。代りに山羊の乳を人間に飲ませすぎたのだ。」
 何んとなく彼は勝手にこんなことを思いある日も湯から上って来た。小屋へ戻ると、帰途の寒さに凍りついたタオルをへし折り炉の傍へかけてから、彼は味噌汁に入れる葱をナイフできざんだ。雪を冠った鉾杉の幹の下でぷつぷつ切れてゆく葉脈の匂いが強く発ち、あたりの雪の白さが急に眼に滲みついて痛んだ。
 矢代が小屋へ来てから十日ほどたった日、遅い新聞と一緒に宿の女中が電報を届けに来た。千鶴子が兄をつれてその夜の六時の汽車で着くという電報だった。
「来るなというのにとうとう来るのか。」
 と矢代はひとり呟いて笑った。
 電文の最後に宿たのむとあるので捨てても置けず、彼はさっそく部屋を見に宿屋へ行ってみることにした。女中と並んで坂を降りて行きながら、まさか宿たのむとは自分の小屋を宿に借せという意味ではなかろうと思った。六台もある寝台だから小屋で泊めても良かったが、それには毛布が足りなかった。また今は宿だけは別にする方が良かろうと思い、やはり彼は宿屋まで下っていった。
 東向きの適当な八畳を撰んで置いてから、後は廊下の欄干に手をついて雪景を眺め、暫くまた千鶴子に時間を奪われる覚悟を決めるのだった。まだ彼は自分の探している部分の研究に手がかりのつかぬときだったので、実はもう二三日来るのを延ばしてほしかった。彼女の病後せっかく会う機会も、仕残した調べものの片付かぬ気がかりがあっては、襟首を掴まれた形で落ちつきが悪かった。いつかも一度彼は書き物に夢中になっているとき、茶を飲もうとして傍のインキ壺を湯呑と間違えたことがあったが、今日の場合も千鶴子にいま来られては、浮かぬ顔が続き、さぞ冷淡に見えることも多かろうと案じられた。しかし、もう千鶴子は出発してしまっているころだった。女人という母乳に来られれば、やはり自分にはギリシアや科学の研究は不似合だ、と矢代は苦笑しつつ、
「いま幾時。」と女中に訊ねた。
「一時二十分。」女中は床の水仙から放した手の腕時計を眺めて答え、
「でも、この時計はときどき狂うんですのよ。」と注意して振子を捲いた。
「しかし、三十分も狂っていないだろう。」
「それは、――まア、五分か十分ですわ。」
 それではちょうど千鶴子は大宮あたりで、鰻の駅弁の美しい鉢を眺め食慾を覚えているころだと彼は思った。


 その夜時間を計り駅まで矢代は出かけた。吹雪になりそうな怪しい空模様だった。ホームのすぐ裏まで押し迫っている岩肌へ吹きつける風が、また巻き返って構内の柱を鳴らせていた。足駄で汚れた雪の残った待合室のベンチに汽車を待つ間、矢代は間もなく着く千鶴子のことを考え、どこか浮き浮きしている自分だなと思った、すると、夢に見た例の千鶴子のことを思い出した。そして、妙にその彼女の顔が気の毒な表情に見えると、あたりに飛んでいる愁い気な様子さえ覚えて耳を澄ますのだった。実際それは我ながらおかしい空想にちがいなかったが、不思議とその千鶴子に実感が籠っていて、
「まア、待ちなさいよ。何んでもないよ。」
 と、山に籠ってからの独言のくせも出て、つい夢の彼女をなだめて云うのだった。やがて駅前の乱れた雪の中に客引きの提灯が並んだ。軽く吹き始めて来た粉雪の中を汽車が明るい灯の連りとなって入って来た。停った汽車の中から出て来た客に混り、千鶴子も黄鼬鼠《いたち》の外套で、後に矢代の見知らぬ青年をつれて降りて来た。
「あら、わざわざすみません、ひどい雪
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