長時代に京都へ耶蘇寺を建てたポルトガル人のフロイスという宣教師が、こっそり本国へ送った書翰集を読んでみたら、日本という国は大変な文明国だ、むしろ自分の本国よりも文明が高いと思うと、そんなに書いてあるんだ。それも本国の法王へ出した報告文の中にあるのだから、誰もそこだけは見せたくなかったと見えて、リスボンの博物館からつい近年出て来たばかりの原稿なんだよ。僕はそれを読んで、非常に嬉しくなってね。さっそく久慈に報らせてやろうと思ってるんだが。」
 こういうことを云うときでも、矢代は、塩野の視線を日本の内部へ今より深く潜り込ませてみたい気持ちを、どこかに感じていることは、千鶴子に対った場合とあまり変りのない自分だと思うのだった。また事実塩野や千鶴子に会うたびに必ず想い起す西洋の幻影の盛り上って来る勢力からすり脱けるだけでも、矢代は日ごとに工夫を変えねばならぬ、人知れぬ苦労を要した。もしこれがいつもつづけば、西洋で会った人のうち、忘れることの出来ないこれらの人とも別れて行くかもしれぬ危ささえ感じるのだった。そのくせ、塩野も矢代も黙ってしまうと、彼は前から気になっていた千鶴子の病いのことが重く頭に拡がり、窓の外で赤赤と群れている南天の実に日の射し込んだ艶も、高熱に病むものの閉じた瞼の静けさに似て見えた。
「しかし、千鶴子さんの熱は、あなたのと同じ質のものならもう少し早く来ている筈だと思うんだ、がそれともこんなことは、人によって遅速があるだろうから、やはりそうかな。」
 矢代は考え込むと見舞いに行けない事情に今さらいら立たしさを感じて、突然塩野の返事をうながすように訊ねた。
「さア、そこがね。」
「遅くても来るものなら、そのうち僕にも来るかもしれないんだ。」
「じゃ、君はまだだったの?」と塩野は意外そうな表情で訊き返した。
「僕は東北の温泉へすぐ逃げたのさ。いやらしいからね、そんなのにやられちゃ。」
「それや、卑怯だ。」
 塩野は急に鋭い声でそう云って笑い、矢代から顔を背けた。
「ところが僕のはまた一寸違うので、母が東北なものだから一つは先祖に敬意を表したくなっていったのさ。これが卑怯なら、自分を知らぬもののいうことだよ。どうも僕は、先祖のしたことが急にこのごろ気になって来てるんだ。」
「しかし、先祖というものは、力試しに少しは子孫に反抗させてもみたいものじゃないのかな。僕はどういうものか、死んだ父が漢学者なものだから、せめてお前だけは俺の知らぬものをやってみよと、そんなに云ってるように思えてね、それで僕はこんなカメラとフランス語とをやってるんだと思ってるんだが。」
「そこまで知っていてやる人なら、まア僕らのすること少しは赦されるんだと思うんだ。しかしたいていはそうじゃないよ。僕はやはりそれが心配だ。巴里祭の日に君が殴られたのなんて、あれは君、それを知ったものと、知らぬものとの間に君は挟まれて、両方から殴られたのさ。そして、シャッタを切ったのが、つまりこれだ。」
 と矢代はそう云いつつ写真の中からサンゼリゼの激動の場をめくりあて、塩野に差し出した。
「君は知らないだろうが、このときの君の顔を、ちゃんと僕は君の親父さんに代って見てるんだよ。無我夢中で君は飛び上っていたよ。真ッ青になって、横っちょになって、――あ奴、やりよるなアと思って僕は見てたものだ。おやじだよ僕は。」
 塩野は「ふふッ」と笑みを洩してまた暫く写真を眺め直した。
「思い出すなア。このとき中田教授は僕の傍で、日本がこうなられちゃ、これやたまらんと呻いたが、どうしているかなアあの人。」
 中田という政治学の大学教授はよくパリで矢代にも、論理の大切さを何より主張してやまなかった合理主義者だった。塩野はこの教授の説の正否などはどうでも良く、自分の扱い馴れた愛機のカメラの眼といつか心も近くなっているのであろう、ただ教授の人格に感服していた。矢代も中田の云うことよりも人間の方が好きだったが、いまもし会って、自分がひそかに先日以来感じている不合理な千鶴子との夢の結婚を中田に話したら、必ず自分を蛮人だと思ってしまうにちがいあるまいと矢代は思った。またそれは中田のみとは限らず、おそらく誰でも愚の骨頂として矢代を笑い捨てることだった。今も彼はそれを思うと、塩野にそっと自分のその結婚の愉しさを洩らしたところを想像してみて、彼の愕きあきれる顔が泛び突然おかしくなって笑った。
「ほんとに中田さん、今ごろは苦しんでいるよ。真面目な人だったからなア。」
 不意に笑った矢代の声を中田の狼狽した呻きの追想のためだと、そう都合よく解してくれて云う塩野に、また矢代は合槌を打ってゆかねばならなかった。しかし、一方、彼はこの夢の真相だけは絶対に人に云ってはならぬと、なお笑いつづけながらも、深く思っていくのだった。
「政治学という学問は、みな誰もプラトンへ還るべきものだと思っている風な様子らしいが、僕はあの論理主義みたいな神秘主義を間違えると、きっと今に大変なことになってゆくと思っているね。世界中が美意識の大乱闘をおっ始めるよ。僕はパリにいたときから、中田教授の説には必ずしも賛成しなかったんだが、いまにあの人、帰って来れば必ず変ると思う。君子は必ず豹変するからね。つまり、変るということがなかなか味のある深い論理というものの美しさだということを、君子なら知っているよ。」
 こういうときにも、矢代はどこかに自分の笑いを狂わそうとする狡さを感じて苦しかった。
「しかし、ああ真面目な人だとね。」
 と塩野はあくまで友人の苦痛を念う心配げな表情で考え込んだ。
「けれども君、僕らはギリシアへ還る運命を持っちゃいないよ。みな世界の学者たちが、そういうギリシアへ還る夢を抱いて勉強をつづけているのも結構だが、もっと他に持ちたい深い夢が、いくらでもありそうなものだと思うがね。」
 矢代は自分の笑顔に射し込んで来た狂いを幾らかでも戻したく、そんなに云った。
 話したって無駄なことだとは瞭かに分りながらも、やはり彼は、自分の感じた放射能のような千鶴子との結婚の夢の素質を信じたかった。
「しかし、カメラには夢はないからな。そこが僕らの一番困るところかもしれん。これから一つ夢を持ったり撮ったりする工夫をやるかな。」
 ひやかすつもりはなく塩野は塩野で、何か専門のカメラに関する特殊な技術をまた別に思うらしい様子で暫く黙った。少しも二人の話が触れ合うところがなくとも、互に知らぬ部分でそれぞれ触れ動いているもののあったのを矢代は感じ、事実とはこのような恐るべきものかもしれないと思ったり、さらにまた過ぎた夜のあの夢の実相を、これがこの世の美の極りの消えるところかとも思ったりするのだった。
「あなたはカメラが専門だから、夢なんか捨てて、もっとこちらの美しいところを写真に撮ってほしいな。夢なら、僕が代りに幾らでも見とくですよ。」
 と矢代は云って笑った。このときはもう、偽りもなく塩野を見て笑うことが出来たので彼も愉しかった。
 二人は塩野の全快祝いをかねた夕食を摂りに外に出た。千鶴子を見舞いに行こうかという話も出たが、入院しているならとにかく、まだ自宅にいるからは却って邪魔するだけだと相談して、それもとり熄めた。
 停留所まで下って来たときに、このときは塩野から欅を見上げ先日のバスの女車掌のことを云い出して笑った。人と一緒のときは矢代は、欅に物云いかけたい気持ちはいつもなく冷淡になった代りに、石工の腕の動きだけ特に激しく眼についた。そして、自分もそろそろもう仕事につくことにしようと思ったが、仕事といっても矢代のは整理部だったから、ただ書籍や雑誌の整理をする傍ら雑書を読めばよかったので、いわば彼のは書籍の中の旅をつづけて行くのが仕事というべきようなものだった。矢代はそれを愧じてもいたがまた幸いとも思った。
「どういうものだか君、日本にいなかった間だけ、僕らは日本を知らないのだから、何んとなく考え方に、一般とピントの合わない空洞が出来てそこが困るね。そこをどういうもので埋め合せて良いのか、一寸見当がつかないよ。君もそうだろう。」
 矢代は停留所の白い立札に手をかけ塩野を覗いた。
「どうも僕らはそれが今さら弱点になって来た。」
「僕はこのごろ、皆が何を考えているのか分らなくなったのだよ。何かこちらが云いかけても、これや云いぞこなうだけだと思って、ついやめるんだが、そういうせいか、僕は物が云いたくなると、何ぜだかこの欅に云うようになってね。僕にはこの樹は今は実に大切な樹なんだよ。」
 塩野はちょっと眼の色を変え欅を仰いでいてから、
「なるほどね。天罰があたったと君がここで云ったの、分るよ。――そうだなア。」
 と云いつつなお仰ぎつづけた。矢代もともに眺めていたが、冬枯れた梢の上を流れる断雲に眼を転じたとき、あの結婚した方の妻の千鶴子はいまごろどのあたりを旅していることだろうと、ふとそんなことを思って雲の流れが懐しまれた。唐竹のステッキを握った手首の冷えて来るのに矢代は、まだ自分も目的の遠い旅をつづけている姿だと感じ、バスの来るのを待つのだった。
 二人はその夜両国のある鳥屋へ上った。鳥肌の煮え始めて来たころ、急に思い出したらしく、塩野は今朝の新聞を見たか面白いねと云った。
「いやまだだが何んだ。」
 と訊き返すと、蒋介石が西安で誘拐されたまま生死不明になったということだった。事件は中国のこととはいえ、矢代は身に直接吹きつけて来た突風を覚え、これはいつかは自分の運命に影響して来る何事かだと思ってひやりとした。


 矢代が千鶴子へ病気見舞いの手紙を出してから一週間ほどたって返事が来た。病気は塩野と似ていてやはり原因が分らず、ただ高熱と眠けに襲われつづけただけで、無事恢復したということや睡眠中に矢代の名を口走ったこともあったらしく、後で兄の由吉から揶揄われて困ったことなど書いてあった。
 矢代はそれで先ずひと安心だった。そして、すぐ自分の調べ物もかね、知人の小屋のある上越の山へひとり出かけた。彼の知りたかったのは、一番彼の不案内な宗教と科学の歴史に関する方のことだったので、荷物はその準備の書物で重くなった。
 山にはもう雪が深かった。駅に着いたのは夜で風が谷の底で鳴っていた。宿まで行くのに橇に乗らねばならず、前後に一人ずつ従いた狭い橇箱の中で、幌の破れ目から吹き込む風にときどき矢代は顔を背けた。崖から雪崩れ落ちる雪の音の聞える路が長く、揺れ動く敷板の固さに腰骨が痛んだ。途中で馬橇に出会うと、路を除けあうのにこれがまた時間がかかった。矢代は押しつけて来る山の高い雪層を仰ぎ、調べ物に来るには少し物好きすぎたかと思った。それも滞在中は小屋で自炊するつもりだったので、洋灯に照し出された馬橇の足を食い込んでいる雪の深さに不安も感じた。
 もともと一度前に、矢代はここへ来て友人と自炊をした楽しい経験があってのことで、初めてではなかったが、そのときは五月で、冬の山の自炊はこの度びが初めだった。山小屋の附近に温泉もあり、そこの宿も馴染みの家だったから、困れば宿に泊りつづけても良かったのだが、帰ってから日ごとに都会がいやになって来るばかりのこのごろの矢代は、一つは馴れぬ冬の山の自炊生活もしてみたくて出て来たのである。それもチロルの山小屋を思いきれない苦肉の策も手伝っているとはいえ、今はそれもやむを得ないことだった。
 その夜彼は宿へ泊った。数年前にいた番頭がまた戻っていて矢代には都合が良かった。前に来たときより建増して倍ほども大きくなっている宿の中では、階下にあった浴槽が二階の中央に変っていて、高く突出した展望のよく利く広広とした位置を取り、どことなく外国のテラスに似た明るい美しさが好ましかった。
「ここの浴場は見事だなア。こんなに家全体で浴場を持ち上げているような風呂場は、僕は見初めだ。」
 と矢代は番頭に褒めて云った。
「そうですが。皆さん風呂場だけは、まア褒めて下さいます。」
 塩辛声の番頭を前にして、矢代は、ハンガリアのダニュウブ河の岸にあった温泉を思い出し、そこ
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