見事な景観を表した。末端の小枝からそれぞれ大枝を伝い流れる雫が、数千疋の小蛇の集り下るように幹に対って一斉に這い降りて来る。滑かな肌は応接のいとまない忙がしさで、ぎらぎら廻り輝く硝子の管のようにも見え、空に突き立った早瀬ともなって、もの凄い速さで雨水を根元へ吸い込んだ。
 ある霽れた日矢代はまたこの欅の下まで来ると、葉を落し尽した梢の枝に鴉が一羽とまっていた。均斉のとれたその樹のさし交された枝枝の中で、鴉をとめた一枝だけが揺れ動くのを眺めているうち、何ぜだかふと彼は、火薬が初めて西洋から日本へ入って来た日のころを思い出した。そのときは丁度この鴉のように、ある一枝の城に火薬が留まり、そこを焼き滅ぼしては次ぎ次ぎへとまた移っていった。当時の日本の城のうち、撰りに撰って、一番初めにその鳥に留られた城が自分の先祖の城だったのだと矢代は思うと、暫くは不吉な黒い姿から視線が反れなかった。しかし、どんなことでも何んの犠牲もなく、安全に生き残ったものの丈夫になった例はない。それを思うと、彼は真っさきに火薬のために滅んでいった先祖の城の運命にも、やはり勲を認めたかった。それも誰からの償いも受けず最初の敵弾に斃れたということは、矢代だけでも、せめてそれを先祖の陰徳として尊びたかった。それでなければあまりに先祖が寂しかった。
 見ていると、鴉は一向に枝から飛び立ちそうな様子もなかった。そして、欠伸をする恰好で口を大きく開けたり閉めたりしては、翅をときどき拡げ、また同じ欠伸を繰り返していた。翅を拡げるたびにその一本の枝だけ、雲行きの早い空の中で揺れつづけて騒いだ。
 襟もとの薄寒く冷え込むまま、人通りのない初冬の往来に立っていても、矢代は、枯枝に留った鴉の黒い色がもう不吉な色には見えなかった。むしろ今は、その鴉から黙黙として滅んだ先祖の運命を徳とする理由を素直に発見出来たことに欣びを感じた。それはまた矢代のみとは限らず日本人の平民なら、各自探せばそれぞれ共通して発見し得られる同じ欣びでもあり、また誇りともなるにちがいないことだった。矢代はそれが何より嬉しかった。
 彼は鴉の留っている枝から眼を転じてまた他の枝枝を眺めてみた。どの先端の細かい小枝もみな大枝に連がり、一本の幹となって立っているのも争われず日本の姿と斉しかった。ただ鴉に留られた枝は少し他の枝と違っており、その枝の不幸なだけ、他の枝枝が強い弾力を貯え得られたことは、それ以来引きつづいて逞しく育って来た今の姿を見ても分った。
 街へ出るたびにこの欅の下へ自然に立たねばならなかった矢代は、こうしているまも、双方の意志までいつか通じるように思われ愉しみだった。また彼はこの樹を見上げたときが自ら正しい考えを得るように感じてからは、その日の吉凶なども判断したくなったりして、知らず識らずそれも習慣となると、いつの間にか千鶴子のことなど、自然とつい欅と相談するという風な癖にもなるのだった。
 千鶴子が母から他の男と縁談を奨められている苦しさを洩して来た手紙を見て以来、特にこの相談めいたことの去来する親しさも増すようになった。
「ね、君、今日もまただが、千鶴子さんのことは、僕から何も特別に云わなくったって善いとも思うんだがね。抛ったらかしといたってさ。」
 と彼は、こんな自問自答風な調子で訊ねる。
「しかしまア、気にはかけておらないといけないよ。」
 と欅が答えるように思う。
「それもそうだが、千鶴子さんの母親が他の男に意志を向けているというなら、これは持久戦になりそうだよ。もっとも、僕の母親も千鶴子さんがカソリックだと知れば、僕の所へ来ることを喜ばないから、千鶴子さんにしても同様だと思うんだ。」
「しかし、君も一度夢の中で本当の結婚式を挙げてあるんだから、そう急いだもんでもないだろう。何しろ相手は現世のことなんだから、人間めいた臭いもするさ。まア宜しくやりなさい。君も夢を見たついでだ。」
 と欅は笑う。矢代はこの欅とこんな問答を始めるときは、相手の端正な姿に心がのびやかになり、情熱のさめ冷えて来る危険も感じたが、こちらの頭を正すには何よりこの樹は役立った。しかし、「君も夢を見たついでだ。」とそう云い放つような欅の立姿には、矢代もふと心中つかえるものを感じて考えた。すべて夢というものは、現実よりも高雅な美しさに充ちていると思っていたときであるだけに。去年から道路を拡げ始めている工事が欅の下で着着と進んでいた。やがてここの停留所も除かれてしまい、そのときになれば、欅もともに截り斃されてしまうのは定っていた。彼はその後の明るく拡った空間を想像して、この欅と別れるのも間もないことだと思った。
「もう暫くすれば君ともお別れだね。」
「どうもそうらしい。毎日足もとを見ているがね。そこまで来とる。」
「寂しいか。」
「いや、へんなものだ。」
「誰が君を截りたおすのか、分ってるんだろうね君には。」
「うむ。毎日見てると、浅右衛門の手つきなかなか上手いよ。」
「云い残しておくことはないかね僕に。」
「ない。」と欅は一言いって暫く黙っていたようだったが、また空を見上げていてからぼそぼそと云った。
「じっとここにこうしていたようだが、これでも長い旅をして来たね。」
 矢代は欅から眼を反らせてもう黙った。日焦けした土工たちの腕の汗が石の間で光っていた。砂利を混ぜ返す音がじりじり髄にこたえる向うの坂路を、バスが傾きながら流れて来た。
「ね、君、僕がここにいちゃ、人間の夢を邪魔するよ。そうだろう。」
 とまた欅は云いかけて来たが、矢代はこのときはもう聞えない振りをした。
「まア、君と話の出来ただけでも嬉しいよ。僕なんかいなくなったって、――」
「さようなら。」
 矢代は自分の見ていないとき截り斃されるか知れぬ欅の様子を感じたので、今からそっと別れをのべておいてバスに乗った。


 塩野が二週間ほど入院していてからまたある日矢代のところへ訪ねて来た。
「とうとう病因分らずじまいさ。」
 塩野は矢代を見るとそう云って幾らか顔色も優れず元気もなかった。言葉は事実を喚び起すという譬えを矢代は思った。そして、冗談の当りすぎた気味悪さもまだ引かず、深くは塩野に病状を訊ねる気もないまま、無事退院の慶びも一言いったにすぎなかった。
「しかし、今度は千鶴子さん、どうやらへんらしいんだ。昨日電話で宇佐美と話しただけでよくは分らないんだが、どうもそうらしいね、熱も相当ある様子だなア、――」
 塩野は声を低め気味悪そうに、笑顔もなく窓の外を眺めたままだった。それでは千鶴子にも来たかと矢代は急に身が緊った。庭がぼっと暗く見えて来る中で、白い山茶花の弁だけ明るく、地虫のかすかに鳴く声が耳に入った。パリで会った人物のうち、帰って来たものも今は塩野と千鶴子ただ二人だけだのに、その二人が日をあまり違えず同じ病いに襲われたのだと思うと、矢代は、もう自分の考え以外のところで事実が厳しく動いているのを感じ、云うべき言葉もなく黙っていた。森森とした寂しさが襟もとに迫って来た。
「しかし、君、黴菌の巣窟へ帰って来たから、病気になるなんて科学説、そんな馬鹿なことはないよ。科学的に云うと、何んだって日本が悪くなるのかね。」
 矢代は急にそんなことを云いたくなり、つい科学の悪口を云ってしまった。敏感な塩野は「うむ」と云うと、耳を動かす馬のようにぴりっと眼鏡を光らせた。そして、病中眠っている間は夢ばかり見ていたので、何んの事だかいまだに分らないと話した。矢代は千鶴子の容態をもっと知りたいと思ったが、彼女の母親のことを考えると直接見舞いに行くことも出来ぬ不便も、二人の間からはまだ解けぬのだと思った。
「今日はチロルの氷河の写真と、巴里祭の写真を持って来たんですよ。」
 矢代はそう云って出した塩野の包みをだるく受け取って開いてみた。葉書大に引延ばされた数十枚の写真も、そんなに見たくもない様子で彼はくりながら、自分の見て来たところの美しさも写真ではやはり駄目だと失望したが、それでもだんだん引き込まれて丁寧に見始めた。
「これこれ、このときだ僕の殴られたのは。」
 塩野は横から、巴里祭の日に左翼とカソリックの右翼の波の間に挟まれ、ひどく殴られつつシャッタを切った一枚を差して云った。しかし、その写真はサンゼリゼの激動の最中に撮ったものとは思えぬほど、映っている部分は静かだった。矢代は人人の押し狂っているさまよりも、背後の篠懸の街路樹が意外に沢山葉を落している姿に寂しさを感じ、あの七月十四日に早やパリは秋立っていたのかと、首をかしげて写真に見入った。
「パリ文明もこの写真一枚に出ているね。美しいところだが惜しいものだ。僕の傍にいた紳士は、何アに、これはただフランスの病気だ、こんなものはすぐ癒るとそのとき云ったがどうだかねこの病気。」
 と矢代は云って写真をはねた。次にチロルの氷河の写真が入り乱れて顕れた。氷の斜面に打ちつけたピッケルの痕から、光りの飛び散るように、日の射し返った氷河の面面が繰り出て来るその背後に、一連の山脈の写真が顕れると、やはり彼は愉しくなって興奮した。ハーフレカールの峯を仰ぎ、千鶴子と二人でミルクを飲んだ白い卓布に、物憂いまで強く射したあのときの日光。足もとの紫陽花に群れた蜜蜂。氷の斜面を這い降りて来ては二人で覗いたびいどろ色の深い断層。スイスの山の方向に流れるゆるやかな雲、牧場、サフラン、――矢代は追憶の愉しさのままにも、もう写真を放したくなり、
「ああ、もうよした。」
 と云って皆テーブルの上へ伏せてしまった。すると、どういうものか写真に顕れた風景とは反対に、欅の下で石を動かしている土工の日焦した腕や、東北の海沿いの白い路に熟れ連っていた無花果や、上越の茂みの下を流れ潜る水の色などがしきりに泛んだ。初めは何気なく彼はそんな景色を思い泛べていたのだったが、いつの間にか、西洋の風景に対抗させたい日本の中の美しい風景を漸次に撰び出し、組み整えているのだった。そして、まだまだ自分は日本の中に深く分け入って美しい光景を見届けて来なければ、心中やみがたく納りがたいと思い、あれこれと過ぎた日に見た、山川の美しさを引き出そうと努めた。が、ふとその緊張がゆるむ後からまた強くチロルの峯峯、南仏の海の色、イタリアの湖と、繰り代り色めき立って割り込んで来る。始末は頭の中のことだけに、矢代の意志のままには片付かなかった。
「僕はそのうちノートル・ダムばかり撮ったのを纏めて、個展をやろうと思ってるんだが、ひとつあなたも撰んでもらいたいな。」と塩野は云った。
「あなたのあれは美しい。」
 矢代はそう云って塩野に賛成した。そして、人間が生活をするのは食い生きるためにちがいないとしても、意識するしないに係らず、人類共通の念願として、所詮は誰も一挙手、一投足のするところ美を造り出すために生活しているのだと思うが、君はどう思うかと訊ねてまた云った。
「それは何もただ芸術の美ばかりとは限らないさ、政治の美、経済の美、宗教の美、そのほか都市、農村、科学や学問や、法律、編輯などの美にしてもだが、つまりそれが文明なんだから、――誰も汚なさを造り出そうとして破壊もしなければ政治もしないよ。間違いかね。」
「それはそうだ。武器にしたって美のない武器を持ってる国は負けるからな。日本刀の美しさなんか、美しさとして見るだけなら、ノートル・ダムの中にあっても、断然光るね。」
 塩野も自分の写しとって来た異国のものから、頭を日本の内部へねじ曲げて来ているらしかった。こういうときに起る難かしさも暫くは繰り返し、邪魔する頭の中の他のものも突き伏せて行かねばならぬのが、怠ることの出来ない、このごろの二人の苦労だと矢代は思った。実際、日本の中から汚なさが沢山に眼につき出すと、何んとかして反対に美しさを探し出したくなって、たまらなくなるときだった。
「城だって茶室だって着物だってそうだよ。もっとも、城はポルトガル人が這入って来てから、少し前とは変った傾きがあるが、それでも、あれだけの美しさにした所は、そうそう、先日僕は、信
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