ね。」
と矢代は横の千鶴子に笑顔で云った。原子核の核の周囲を旋廻する光りのようなこの高架線の設計図は、誰がしたのか、偶然にしても、たしかに日本の知性の一番明瞭に表現されたものの一つのように思われた。そして、それがとりも直さず、言霊亀板面に顕れた倍数に拡がる音波の函数図形の原形と同じだと云うことも、彼には驚くべきことだった。
「あなたがここの切符を買って下さったというのは、何んでもないことでも、僕にはたいへん嬉しいんですよ。何んだかみそぎをすませた後のようでね。」
千鶴子がどんな表情をしていようともう矢代には介意ったことではなかった。
「さっきお話になったことね、田辺侯爵のこと、あれ何んでもありませんのよ。あなた鳶だなんて仰言ったけど。」と千鶴子は斜すに見上げまだ怨めしそうだった。
「あ、そうか。あれはそんな意味で云ったんじゃない。あの侯爵の城を僕は見たことがあるので、それが鳶を見るような感じだったんですよ。」
千鶴子は首を縮め俯向いて笑うと、それからは少し身を矢代の方へよせかけるようにして来た。
「今日はあたしお詫びを云いたいけれど、でも、あなたも残酷な方だったわ。あんなむしむしするお部屋で、あんなことばかし仰言るんですもの。」
「しかし、それを辛抱して下すったことも、僕はいいと思った。」
彼は少し調子づいて来たままに、僕はカソリックをそれで少し認めたくなったと云いかかったが、それだけはまだ黙り、秋空の下を馳けすぎて行く建物の波頭を眺めつつ、この一刻の風光を少しでも見失うまいと楽しんだ。千鶴子は、侯爵は物にこだわらない穏やかな良い方だと云うことや、ロンドンにいるときでも夫人と一緒に自動車を自分で運転して、パリまで出て来ては一泊し、また次の日同じ車を運転して帰る侯爵夫妻の話などをした。そして、由吉もそのとき一緒の車でパリまで出て来ていたこともあるのに、枕木夫人のことなども重なったと見えて、千鶴子や矢代にも会わず、そのままロンドンへ帰ったらしい形跡のあったことも暗示した。
「あの人ならそうかもしれないなア。」と矢代は云って笑った。
「そのうち侯爵を御紹介しますわ。奥さんはそれはお美しい方。パリへ出ていらっしゃれば、サントノレの洋服屋が皆驚くんですのよ。お洋服の買い方やお見立てでも、外国のどんな貴婦人にもお負けにならないんですって。」
幾らか軽快に千鶴子の弾んで来る声を聞きつつ矢代は短い眺望の楽しみを邪魔される愁いよりも、彼女の不機嫌の恢復して来た早さに、少し不満も感じて来るのだった。彼は千鶴子のさきまでの不機嫌の原因を、彼女の頭の中からカソリックの崩れゆく様の表れと解し、ひそかに自分の苦心の効きめを喜ぶ勇みもあったときだけに、自分の言葉の強さが、反対に却って、千鶴子を鳶に誘惑された身体と表現した拙劣さの手伝うところだったと気がついて、自然に楽しみもまた半減した。しかし、また考えれば、長年の彼女の信仰が、自分のたったあれだけの苦心で、そんなに脆く動揺を来すものとも思われず、もしそのときがあるとするなら、おそらくそれは結婚以後のことかもしれないと思うのだった。
それにしても矢代は残念だった。殊に千鶴子のカソリックを自分の方へ引きよせる戦法に、自分の貧しい自然科学の知識を倦くまで用いねばならぬのだと思うと、彼はそれだけでも歯痒さを感じた。それも自分の先祖の滅ぼされた原因が、カソリックよりむしろ自然科学のためであるだけに。――なおその上不思議なことは、近来の物理学の全趨勢そのものの容態の傾きが、漸次カソリックを応援する方向に徐徐に向きつつあることだった。
電車が有楽町に着いたとき、矢代は階段を千鶴子と並んで降りながら、ふとまた侯爵の城郭の壮麗な鳶色が頭に泛んだ。そして、今日はやはりあの鳶に自分は負かされたと思い、半日の自分の喜劇ももう笑うことが出来なかった。
その日の夜、矢代は夕食を千鶴子と一緒に摂って、午後の九時ごろ新橋の駅で別れひとり家に帰って来た。すると、夜の明け初めるころになって彼には何んとも分らぬことに出会ってしまった。それはいつものように、自分の部屋でただ一人眠っていたときに見た夢だったが、しかし、それは夢とはいえ、また夢ともまったく違っていた。千鶴子が彼の横の別の夜具の中に寝ていたのである。矢代は誰かに赦されて千鶴子と事実の結婚式を上げよと命ぜられたように思った。そのとき、充血して来た彼女の口中から清水が湧き出し、それは非常に美しく、見るまに千鶴子の嬉嬉とした顔色は、いつもと違って全身小麦色になると、はち切れそうな筋肉の波が、力強い緊迫で温度を高め始めて来た。
矢代は眼が醒めてから暫くまだ夢の実体に触れている思いだった。すべては夢だったのだと彼は幾度も思ってみた。しかし、朝日の光りをはっきりと認めても、千鶴子と結婚した自分の全感覚は否定出来なかった。彼はこれこそゆるがせにならぬ六次元の夢の厳しさ、みやびやかさだと思い、飛び起きると薄霧に包まれて朧ろにぼやけている太陽に向って礼拝した。あの方が自分に結婚を赦され希望を満たせて下すったのだと疑わず、彼は両膝を揃え、赤児のような心でまた幾度もお礼をのべた。
「今朝はお早いわね。」
母は朝食の仕度をしてくれながら、洗面に井戸端へ降りて行く彼に云った。
「どうも早く眼が醒めて。」と彼は気まり悪げに答えてから、ポンプで水を汲み上げて顔を洗った。それは洗っても洗っても、思わず顔の赧らんで来るような、何んとも云いかねる幸福な感じだった。
朝食をすませてから矢代は自分の部屋に戻り、また千鶴子のことを考えた。しかし、千鶴子はまだこの自分に与えられた幸福な感覚さえ少しも知らぬのだと思うと、彼は自分ひとり授けられた充実した幸福に変りはなくとも、何んとなく一抹のあわれを感じて来るのだった。それも前日の苦心がただ夢に顕れたに過ぎぬ、と云ってしまえばそれまでのことだったが、しかし、それなら夢中のことの方が、はるかにいのちの充実した真の生活だと思ったほど、すべてがまったく活きている以上の実覚に充ちた美しさだった。
その日一日、矢代はその睡眠中の出来事を、真実なことだと思って疑うことが出来なかった。それもそのことを千鶴子に伝えてしまっては、忽ち嘘のこととされてしまうに定っている迷惑となるのも、およそ分ったことだった。あの何ものにも代えがたい、一刻千金のいのちの感覚を、すべて夢だとされてはたまらなかった。しかし、まだこのままいつまでも黙っているなら、矢代にとって、千鶴子はこの世に二人いることにもなった。そう云えばたしかに睡眠中に顕れた千鶴子は、あれこそカソリックに少しも冒されてはいない緊迫した、真の日本人だったと頷けるふしがあった。
「あれだ。あの千鶴子の方がはるかに美しかった。」
と矢代はひとり呟き、またもう二度とめぐり会うことも出来ぬ寂しさに、街の中をひとり方向も定めず歩いた。しかし、自分の真の花嫁と会うことの出来た嬉しさは、どの街へ出ていっても変らなかった。ヨーロッパをともに廻った千鶴子のことをふと頭に泛べても、あれは嘘の千鶴子だったと思うことが、だんだんこのときから矢代に強くなった。もし自分の子供を生んでくれるものがあるなら、あの七夕に出て来る星のような、前夜結婚したその千鶴子に生んで貰いたいと彼は希った。
矢代はその日の夜、千鶴子にあてて手紙を書いたが、前夜の芽出度い個人的な喜びに関しては少しも触れなかった。そして、昨日の失礼した謝罪を述べて、カソリックについて意見がましく自分の云ったことなど、別に気にせずそのままつづけて貰いたいと書きながらも、ともすると、抜け殻になっているものに云うような慰めの優しい文面にもなるのだった。
千鶴子に手紙を書いて二三日してからも、矢代はまだ結婚の夜の興奮がつづいて去らなかった。また実際彼は、夢でもなくうつつでもない、あのように不可思議なことがこの世の中にあることを知った以上は、いわゆる人人の眺め信じている実在というものは、何を意味するものだろうと考えるようになった。人はそれぞれ肉体を具えているのに、まったくあの没我のひとときの感覚の方がはるかに喜びを失わぬという奇妙な現象について――まったくそれにぶつかってみて初めて夢を夢とは信ぜられぬ理知について、――このようなことを矢代はいろいろ考えてみているうちに、人の生命というものの持ち得る感覚は、肉体の死滅の後もなお一層生き生きとしてゆくものかもしれないと思い始めて来るのだった。そして、
「いまはむかし。」
と矢代はこういう日本の云い伝えて来た原理をくり返しくり返し呟いてみて、ふと、それなら人は生きていても楽しく、死んでもなお楽し、という結論に突きあたり勇気が一層増すのを覚えた。
千鶴子からはどうしたことか返事が少し遅れて着いた。
手紙の中に、返事の遅くなったのは幾度も手紙を書いては破ったからだとあって、今の自分は形のなさぬ苦しみに襲われていることがあるので、日毎に楽しさが無くなるばかりだということや、その原因となる主要な二三について書き並べてある中にも、やはり矢代が自分の信じているカソリックを虐める苦しさが一つあり、次ぎには結婚問題の再燃していることが挙げられてあった。
こちらがこんなに喜んでいるときに、向うはそんなに苦しんでいたのかと、矢代は妙にそれがまた楽しく、情の移らぬ顔つきで手紙を読んだ。それも、丁度文面に、
「あたくしがこんな自分の苦しみなどを書きましても、残酷なあなたのことですから、きっとまたあなたはお笑いになることと思います。」
とそんなことのあるあたりを読んで来たとき、矢代はその通りだと思ってまた笑った。
「それでもあたしが外国へ行きます前に、母と約束をしたことがあるのです。母はお前が帰って来てから自分の薦める人と結婚をするなら、お前の外国行きを許可しても良いと云われ、それは必ず実行すると返事をして出て行ったあたくしでした。母は今もそれを忘れず、時を見てはあたくしにその人を薦めてやみません。あたくしは別にその人と結婚する意志など、今のところ少しもありませんが、しかし、母との約束を思いますと、それもやむを得ないことかもしれないと思い、つまらぬことも悩みのたねになるこのごろです。でも、外国にいたときあの幸福だっだ日のこと思い出しますと、こんな苦痛もやはり忍耐すべきかも知れないとも思ったりして、今さら、自分の我がままが身に還って来た辛さに沈みます。それに帰ってからのあなたのことなど考えたりいたしますと、あなたのお考えやお苦しみの御様子なども御無理もないことに見えまして、一層どうして良いのか分らなくなってしまい、ときどきあたくしもやはりあなたの仰言いましたように、天罰を受けた人間になったのかもしれないと、本当に考え込んだりして、お祈りも苦しく切なくなるばかりです。それでも、あたくしはキリストさまをお忘れすることなど出来ません。どうぞこんなことを書きましてもお赦し下さいますように、――」
矢代はここまで読んで来たとき、先夜のあの喜びに充ち溢れた千鶴子とは違い、この千鶴子は何んと悲しい声ばかり出す人だろうかと、矢代はそこで気疲れを感じて一寸空を見上げ、また暫くしてから読みつづけてみた。が、それはも早や、誰かにいのちを奪われてしまっているような千鶴子の歎きのみ綿綿とつづいているばかりだった。矢代は読み終ってからも、彼女を悲しませているものは、かき消えぬ西洋の幻影だろうか、それともキリストか、あるいは先夜のあの自分の結婚のためであろうかと考え込み、細川忠興の勇しくキリストと戦いつづけて踏み停っていた凛然たる苦しさが、今さら強くしのばれて来るのだった。
まだ菊のあるのに木枯の日がつづいた。停留所でバスを待つ間、よく矢代の仰いだ欅の大樹も葉を吹き落され裸身になった。ところどころに残った枯葉も余命のつきた危いそよぎを見せ、彼の仰いでいるまも、一葉ずつ風に※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]ぎ浚われてかき消えた。しかし、この樹は雨の日のときにはまた別に
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