には、そんな風に考えられる。」
「じゃ、あなたはまだなの?」と千鶴子は顔を一寸赧らめて訊ねた。
「僕は東北でもうすませた。」
 こんなことを話しているときでも矢代は、夫婦が話しているというような気持ちではなく、特にもう交際する要もなくなった、一番親しい友人同志に似た、和らぎを感じたが、しかし、これでいよいよもし結婚するようなことにでもなったら、細川忠興がガラシヤに詰めよったように、自分も千鶴子にカソリックだけはやめてくれと迫るのかもしれないと思われた。ただ今のような友人同志であってみれば、そんなことで詰めよる権利もなし、またその必要もないだけだった。しかし、どういうことともなく、二人の間でみそぎなどという言葉を使う場合に、一方がカソリックだと、相手の文化性を自認している心に羞恥心を抱かせる気具合を感じ、それに気づいても拭き消しもならぬ妙な気苦労を覚えて影が生じた。それも、云わず語らずにいる間は、思うだけで過ぎ去ってしまう瞬間にすぎなかったが、一たび口にしたとなると、それを習慣としてしまうまで押しきりたくなるのが、またみそぎという言葉の持つ厳しさだった。しかし、彼はこの厳しさの極のゆくところあくまでなごやかさだと思って疑わなかった。
「僕はこのごろ一度、本当のみそぎというものを、してみたいと思ってるんですよ。あなたはどう思われるか、これは別ですがね。」
 と矢代は云って笑った。
「泥臭派なのね。あなたも。」
 定めしこう云うような表情が彼女の笑顔を濁すことだろうと矢代は思ったが、千鶴子は濠の枯草の底を辷って行く電車の屋根を見降ろしたまま、唇を小さくつぼめ、巻き起って来る考えにゆらめくらしい沈んだ表情をつづけていた。冴えた日光が黒い洋装の襟飾のレースに射し、千鶴子の小鹿に似た顎を浮き出しているのを、矢代は、あるあきらめめいた秋の日の和らぎのままに美しく眺めた。
「何んだか、あなたがカソリックだのに、僕がみそぎの話をするのも妙なものだけれども、やはり僕は男というものだから、自分が仕事をしてゆく上では、そっと中心を需めたくなるんですよ。」
「パリでお別れのときも、そんなことを仰言ったわ。あのときのこと、気にかかってときどき考えるんだけど――でも、そんなものなのかしら。」千鶴子は紅茶を匙で掬っては滴し滴しやはり沈んだ。
「何も僕はあなたの考えを、邪魔するつもりじゃありませんがね。」
「でも、帰ってからこんなになるなんて、――」
 一言いいそこなうと、こちらのなごやかさとは反対に、忽ち翳りの来るものが、争われずまだあったのだと矢代は思い残念だった。
「僕は東京へ着いた夜、自宅へ帰る前にあなたのところへ行ったんですよ。」
「まア、そう。」
 不思議そうに矢代を眺めている千鶴子の眼もとに微笑が動いた。
「しかしね、そこはどういうものか、眼が醒めたみたいで、こりゃ、眠っていたときとは違うんだと気がついたというわけですよ、それだけのことさ。」
「それだけのこと?」千鶴子はまた不服そうに白んで訊ねた。
「つまり、云いようのないことですよ。だって、どうしてそんなことが僕らに云えますかね。君も僕も知ったことじゃない、おかしなものが、ふッと出て、そのまま消えたのか、まだいるのかも分らないんだからなア。まア、疲れが癒れば分りますよ。塩野君だって、現にそこで、訳の分らんことをやってるじゃありませんか。」
 矢代はそういうと云いたいことが急に波だち群りよって来たが、云えば云うほど、もつれも解けずなりそうに感じられ、離れた卓上の黄菊をみつけ自分の卓まで持って来て冷たい弁に鼻をつけた。暫くそうして頭の透る香の中へ傾いているうち、ふと二つ巴の自分の家の紋章が泛んで来た。彼はその火の玉形の二つもつれた形が何を意味しているものだろうかと考えた。二個の曲玉にも似ておれば、星雲のより塊ったものにも見え、先日さがし当てた古本版の中の、言霊の亀板面に顕れた音波の原形図とも等しかった。が、最後には、地球の表面を東西に別れて帰って来た千鶴子と自分の、喰い違って廻っている今の念いのようにも見えて来ると、それも跳ね合いながらなおも廻りつづけて行くもののようでもあり、尾と頭がいつまでも追い合って、流れ去り行くものかとも思われたりして、矢代は暫く菊の香の中から、二人の身の上を卜う、無心な気持ちになろうとするのだった。
「今はむかし、という言葉があるでしょう。僕らは何げなくいつも使っているが、どうも恐ろしい言葉ですよ、これがね。」と突然彼は云って菊から顔を放し、また濠の中を見降ろした。
「あなた、ほんとにどうかなすったんじゃありません?」と千鶴子はこう云いたげに恐しそうな表情で矢代を見た。
「何んのこと、今はむかしって?」
「今がつまりむかしで、今こうしていることが、むかしもこうしていたということですがね。きっと僕らの大むかしにもあなたと僕とのように、こんなにして帰って来た先祖たちがいたのですよ。むかし日本にお社が沢山建って、今の人が淫祠だといってるのがあるでしょう。その淫祠の本体は非常にもう幾何学に似てるんですよ。それも球体の幾何学の非ユークリッドに似ていて、ギリシアのユークリッドみたいなあんな平面幾何じゃない、もっと高級なものが御本体になっていたんですね。つまり、アインスタインの相対性原理の根幹みたいなものですよ。それもアインスタインのは、ただの無機物の世界としてだけより生かしていないところを、日本の淫祠のは、音波という四次元の世界を象徴した、つまり音波の拡がりのさまを、人間の生命力のシンボルとして解しているんですね。それも函数で出てるんだから、自然科学も大むかしの日本では、そこまで行っていたとまでは云わなくとも、非科学的なものではない。妙なものだ。今はむかしというのは。」
 千鶴子は一寸顔色を変え居ずまいを正した。明らかに矢代の正気を疑う風な様子だった。
「大丈夫さ。そうびっくりしなくたって。僕は先旦言霊という大むかしから伝っている本を読んだのですが、その感想を云っているだけなんですよ。面白いんだ、僕の読んだ言霊という本の中に、今の理学の大家と人類学の大家と二人が、その言霊の研究者の八木という八十のお爺さんに教えて貰ってる所があるのですよ。ところが、二人の博士が音波が函数にまで出ているのを見てもうびっくりしてるんです。つまり、この博士たちは誰より日本にびっくりした先覚者なんですね。僕はこの博士もやはり豪かったのだと思うんです。誰もそんなの聞いたって、びっくり出来るもんじゃないからな。カソリックのあなたにこういうのは失礼だけれども、しかし、こんなこともあると思われることも、たまには良いでしょう。あんまりみんな馬鹿にしすぎたんだから。たしかにその点文句は皆には云えないですよ。」
 黙って何も云わず濠の底を見ている千鶴子の顔に、ときどき反抗したげに藻掻く微笑が出没した。濠の底で電車の黒い屋根が二つ擦れ違いざまに流れているのを眼で追いつつ、矢代はそれも亀板面に顕れた二つ巴の周囲を円廻する光の波の函数の図と同様に見え、面白かった。山の手省線の円鐶を貫く中央線のカーブが、その曲玉を二つ連ねた巴の線と同似形なのが面白かった。
「分って下すったですかね。僕が一度みそぎをしたいと思うのが。」と彼は笑って千鶴子に訊ねた。
 千鶴子は答えかけては唇を慄わせたかと思うと、またそのまま黙ってだんだん青くなった。
「僕はあなたには、カソリックでいていただいていいんですよ。それはそうなんだけれども、もう少し云いたいのです。僕の家は自慢を云うわけじゃありませんが、むかし城を持っていたのです。ところが、カソリックの大友宗麟に滅ぼされたのですね。僕は何もそのためにカソリックを怨んじゃいないけれども、奇妙なことに、また話は飛びますがね、そのときの先祖の苦心を思うと、どういうものか、あなたがアメリカを廻って帰られるときに、御一緒だったという侯爵のことが浮んで来るのですよ。少し突然でどうもまた怪しまれそうだが、あなたの兄さんはただ侯爵侯爵とばかり仰言っていて、どの侯爵かつい分らずじまいでしたから、どなたですあの侯爵。一度お礼を云わなくちゃ。」
「田辺侯爵ですの。」と千鶴子は低い声で、このときもまだいやらしそうな眼つきだった。
 矢代は侯爵にはいままで一度も会ったことがなかった。しかし、その人の先祖の城は日本で一種特別な城として有名で彼も二度ばかり見た記憶があった。雨中に眺めたときの姿は、矢羽根を連ねたような黒褐色の壮大さで、自分の国の崩れた城跡とは凡そ反対な、一見翼を拡げた見事な鳶を聯想させた。その姿の下に、雨水を集めた大河が泡立ち流れとぐろを巻いていたさまは、栄え極めた鮮明な美しさの城だった。
「一度、僕にその侯爵を見せていただけませんかね、何んだか、僕はその方から鳶を感じるんだが、そういう方でもないんですか。」
「鳶?」
「そう、どういうものだか鳶に似てるね。」
 千鶴子は高い崖から飛び降りたときのようにまだ呼吸を弾ませ、暫くは笑顔もなく怨めしそうに黙っていたが、ふうっと太い吐息をついて空を見上げた。
「あたし何んだか眼暈いがするの。すみませんが、自動車探していただけませんかしら。」
 静脈の浮き出た千鶴子の額の汗ばんでいるのを見て、矢代はすぐ外に出た。彼はタクシを探しながらも、予想以上に衝撃を受けたらしい千鶴子に同情するのだった。たしかにカソリックを誇りとしていることに間違いのない千鶴子だと分っていながら、つい話の調子が意地悪くあんなに辷っていったということは、もうあの場合は、音波の拡がりのような運命だったのだと矢代は思った。また深く考えずとも、やはり一度は同様のことが当然来るべきことも分っていた。避けられぬことならまたこれもやむを得ず、このまま自分も別れて行こうと彼は決心を固め、聖橋の袂の所に立って往還を眺めつづけた。胸の痛んで来るような寂しさももう全身に廻っているかとも思えるほど、秋の日のまぶしさに却って身体がだるく、放心したように彼は何も考えていなかった。すると、そこへ千鶴子が後から来て矢代から少し離れて立っていた。
「もういいんですか。まだ少し顔色がよくないなア。」
 矢代は千鶴子に近よっていって訊ねた。
「あそこ空気が籠っていけないの。歩く方がいいわ。」
 千鶴子は顔を背け先に立って聖橋を渡って行きかけたが、また急にひき返してお茶の水の駅の方へ歩いた。矢代がタクシを拾うまで待つようにひきとめてみても、やはり千鶴子は後姿を見せて駅の中へ入って行った。消えて行く千鶴子の後姿がひどく慎ましやかに見え、小さな黒い帽子の後に下っている紅色のネットが、突然パリの匂いを吹き送って来た。彼はあのときの二人の夢のような調和と、今のごつごつした喰い違った想いの相違も、すべてはこういうのを実際に起っている夢と現実との相違だと思い眼を見張った。それも日本へ帰ってからのこんな二人の不幸は、やはりこれは日本の不幸ではなく、日本と違ったものを見てしまったものの、天罰に等しい個人の孤独な不幸にすぎないのだと思うのであった。
 そして、もしそれが本当なら、自分も千鶴子もその孤独を守り合うより今は仕様がないのだと、そんな覚悟もまた強くなって、千鶴子の後から駅の中へ入って行った。
 駅の中で千鶴子は買った切符を黙って一枚矢代に手渡した。その切符は有楽町行きになっていたが、二枚買ったところを見ると、まだふくれているといえ、千鶴子の意志が矢代にはよく分った。
 晴れた日のお茶の水から有楽町まで行く間の高架線は、東京中で一番人を楽しませてくれる所だと、矢代は前から思っていた。それが丁度偶然にそんな結果となって来たのが彼を喜ばした、また外国のいろいろな都会の中で、活気のもっとも旺溢しているのは東京と大阪だと彼は帰ってから思ったが、その中でも特に旺んな場所の一つはお茶の水から有楽町あたりまでだった。今そのあたりの屋根の上を踏み流れて行くような明るい速度は、たしかに楽しみなくして眺めずにいられぬものだった。
「僕はこのへんが前から非常に好きで
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