なそうに声を落して云った。
「君らはいいね。僕はそのころは、またヨーロッパだ。僕のは命ぜられるんだから仕様がない。」
なるほどまだこれから行く人もあるのかと矢代は思うと、由吉の落した声を気の毒に聞くのだった。
「帰って来たばかりだのに、行く奴の話を聞くのは面白くないなア。」
と塩野は急にがっかりしたように笑った。
「しかし、僕はさっきの矢代氏の、あのお話は面白いと思ったね。僕らは人間の幻影を拭き落してゆくのが運命だというね、僕もどうも、そんな気がするんだが。」
パイプを啣《くわ》えた大きな顔を天井に向け、眼だけで塩野を見降すようにして云う由吉の様子を見て、矢代は、突然話を切り換えたその由吉の頭の鋭さを、風貌とは似合わぬ繊細な能力をひそめた商務員だと思った。
「幻影か――」と塩野は云ったまま黙っていたが、
「さっき来るとき矢代君、妙なことを云いましたね、枯葉の散って来たときさ、僕らは天罰を受けたと、君は云ったよ。あのとき何んだか僕ぞっとしたね。」
笑い話のつもりらしかった塩野の意図に反して、何んとなく座は一瞬しんと静まり返った。千鶴子は座を立ってひとり外へ出て行った。別に眼ざわりな立ち方ではなかったが、前から話の途中に席を脱す癖のあるのが千鶴子の欠点だと矢代は思っていたので、また始ったと思い気にかかるのだった。
チロルの山の上での夜も、急に見えなくなった彼女を探しに行くと、氷河を向いてひとりお祈りをしていたことなど思い出し、千鶴子の心の中でカソリックはどうなっているのかと、暫く彼は憂鬱に食卓の上に肱をつき彼女の戻るのを待っていた。
由吉は陶器に趣味があるのか出て来る食器を取り上げ裏を返した。そんなことなどいつもは矢代の気にならぬことだったが、それが千鶴子の兄の癖かと思うと自然に彼も注意した。
千鶴子は化粧を直してまた部屋へ戻って来ると、出て行ったときとは違い、特長のある靨も明るく笑顔をひき立て、何か今度はしきりと矢代に話しかけたそうな視線だった。
「真紀子さんからその後お便りありましたか。」と矢代は訊ねた。
「ええ、ミラノからいただきましたわ。何んだかひどく寂しそうなお手紙よ。あなたには?」
「僕には二三日前に久慈から来ましたが、また喧嘩を吹きかけて来た。どうも久慈とは、とうとう碁敵みたいになりましたよ。」
「久慈さんからあたしもいただいたの。真紀子さんとも駄目のようだって書いてあるんだけど、どんなかしら。」
ふとまた沈みかかろうとする気力を、ひき立てては自分を支える努力で、千鶴子は矢代を見るのだった。矢代もパリ以来の二人の緊張の弛み垂るんだ面を支えようとして、快活な風を装ったが、それも千鶴子と視線を合せる機会が苦しくなってすぐ脱した。
「やはり僕の云ったことも正しかったでしょう。パリにいるときの方が怪しいっていうことが。」
さすがにそれだけは云わなくとも、矢代はそれを云う代りに微笑ともつかず、いたわりともつかぬ薄笑いのもれようとするのも、事実ここに現れたこの結果が二人を指し示している以上、それを蔽い隠すことも無駄だった。それもみな二人にとってはこの上もない不服なことだのに、しかし、与えられた儼とした判決の後では、も早やすること為すこと自分らには余興にも似たことなのだろうか。
こう思うと矢代は白白しくなるよりも、むしろ、二人をそんなにしてしまった何か云い知れぬその判決に対して、憤りを感じ、挑戦したくもなるのだった。
そこへ客部屋を挨拶に廻っていたこの家の主人の沢が入って来た。丸刈り頭で眼をしぼしぼさせ、とぼけ癖の表情のまま矢代の傍へ来て坐った。
「どうです、このごろは。あッ、そうだ、今日はウイスキイのいいのがあるんですよ。およろしかったら持って来させますが。」
沢は笑いもせずぽつりとそう云って、勝手に女中にウイスキイを命じた。矢代は由吉や塩野たちを沢に紹介するとき、この人らは君の自慢のウイスキイの本場から帰って来たばかりだと説明した。
「ヘエ、それは困りましたな。しかし、お金はいただきませんから、いくらでも召し上って貰いましょう。」
「そういう人は、ロンドンにもいなかった。」
由吉の気転で一座は急に賑やかになると、沢は、「これは呑まれますかな。」と云って頭を掻いた。由吉は女中が持って入って来た黒い角壜の液体をひと目見た瞬間、
「いや、これは素晴らしいぞ。」と居ずまいを正しほくほくした。アルコールは廻らぬように見えながらも由吉にはかなり廻っているらしく、くだけた磊落な風格がますます出て、女中の手から鷲掴みに角壜を受けとりすぐ自分のコップに注いでみた。
「さア、これで鬼に金棒だ。」
ひと口由吉はコップに舌をつけてから、沢を見た。
「よろしいですな。これは。」
微笑を湛えた眼がぎろりと変ると、一瞬間閃くように光りが凄くなり、ねめ廻すあたりに逆に笑いの波を立ててゆく、不思議な猫を由吉は想わせた。彼は沢や矢代のコップに注ぎながらも、酩酊してゆく流れの底で異国に残して来た婦人の身の上に想いをはせているらしい。二三杯のみつづけたとき片肱を食卓につき、船に揺られるような調子で由吉は唄を歌い出した。
[#ここから2字下げ]
わたしの好きなものは
この世に二つある
パリの夜の街の灯し火
胸に描くは
こころのふるさと
[#ここで字下げ終わり]
矢代は由吉の哀調を帯びた唄を聞いているうちに、何か自分のことを歌われているような切ない胸の響きを覚え、押し流され、溺れて行くような情緒に千鶴子の方を見ることも出来ず、歌詞に抵抗する気持ちがつづいて苦しくなった。千鶴子は兄の酔いざまを初めは一寸心配そうに見て笑ったが、そのうち引き摺り込むパリの夜の灯の色に、すぎた日の旅の儚ないもの音を聞きとったのか、彼女も突然くず折れるようにうつ向いたまま暫く顔を上げなかった。
矢代もパリでの二人の日日が次から次へと思い出され、現にこうして旗本屋敷の中で対き合っている千鶴子の姿が、ますます別人のように見えて来るのだった。
「千鶴子さん、あなたお疲れになったでしょう。」
と矢代は云った。
「いいえ。」
眼を上げた千鶴子の顔に、走り停った強い光彩がぼッと赧らみを加えて来た。
「僕はさっきも塩野君に云ったのですが、用心されないと病気をしますよ。あなた大丈夫でしたか。」
「ええ、でも、もういいんですけど、しばらくは何んだか変に疲れましたわ。」
物いうのさえ何んとなく恐わそうだった千鶴子の顔から、拡がりすぎてゆく漣に似た速さでかき消えた愁いがあった。
「あのときはとにかく面白かったですね。」
と矢代は無意味に云ったが、あのときとはいつだったか考えもしなかった。実際彼は、もう面白いのはあのときで良いと思うのだった。まだこれ以上の面白さを二人でつづけようなどという慾深さは、ただ贅沢なことかもしれぬと思うあきらめに変りはなかった。
「あたしこんなに幸福でいいのかしら。こんな幸福は、いつまでもつづくものかしら。」
とチロルの山の上で洩した千鶴子の吐息も、今にして意味深く矢代には思われて来るのだった。「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな。」こんな芭蕉の句も彼はふと思い出し、心にくいまで巧みな旅愁の表現力だと腹立ちさえ覚えまた千鶴子の顔を見た。
「矢代さん、あなたあたしの手紙御覧になって下さいまして。アメリカから出しましたの。」
「二通いただきました。いや、三通かな。」
「じゃ、あたしの上げた半分だわ。どうしたんでしょう。」
「それはどうも、たびたび有りがとう。」
と矢代は一寸お辞儀をしてから千鶴子のコップにウイスキイを注いだ。千鶴子はそれも尻眼にかけ、呼吸の弾み上って来るような強い眸で矢代を見つづけるのだった。
「あたしね。あなたがもう帰ってらっしゃるにちがいないと思ってましたのよ。でも、いつまでも黙ってらっしゃるんですもの。先日からあたし、いつになったら帰ったというお手紙いただけるかと、そればかり待ってたんだけど、――」
「いや、とにかく、そんなことじゃなかったんですよ。」
と矢代はうつ向いて云った。
「だって、あんなにお約束しておいたんですもの、まさか、そんなことまでお忘れになる方だとは、あたし思えないわ。」
傍に兄や塩野のいることなどももう千鶴子は気兼ねも出来ないほどしゃんとしていた。
「しかし、まア、失礼はたしかに僕もしましたが、考えてもみて下さいよ。いくら僕だって、向うにいるときのそのまま、こちらでまで出来ないし、そんなこと、僕はもうパリでお別れのとき云った筈ですが、ところが、あのときはこんなにまで向うとこちらが違うものだとは思わなかったので、ついそこが失礼することになったのですよ。」
「そうそう、そういうことがあるなア。僕もあった。」
と聞いてはいないと思った由吉が横からひとり頷いた。
「そんなものかしら。」
千鶴子は声を落して急に黙って考え込んだ。
「そうなんですよ。それだけですよ。」
「それにしてもだわ。」
「いや、いや、あなたの間違いさ。面白うてやがて悲しき鵜舟かな。」
話の継ぎ穂もなくばらばらに砕けてしまった静まりの中で、矢代は、当然いつか一度は来なければならなかった失望を、塩野のおかげで早くすませただけだと思い、逆に不思議と元気にもなるのだった。実際パリで別れる前に、予め千鶴子に云うだけ云った用心の後、予想よりも大きくやって来たこの夜の失望に、却って彼はその大きさだけ元気を恢復したといっても良い、奇妙な安定を得たように思った。西洋を旅しているときは、別に何事もなかったとはいえ、何しろ青年にとっては、そのことだけで誰しも生れて以来の大事件であったことに変りのあろう筈はない。そのときに出会った友情の烈しさも、旅の終りとともに事なく解消出来た自然さは、企てようと努めても出来がたい弾力の美しさだったと、矢代は思う。勿論彼は、異国での友情を忘れたわけではなかった。むしろその友情の単なる思い出としてではなく高めるためにも、その間にわだかまった異国という幻影を払い清めることを芽出度しとしてこそ、以後の健康な日常の日の友情とすることが出来るように思われる。そして、たしかに矢代は、寂しいながらも今はある自由な気持ちを底の方で覚えて来るのだった。
この一見さも偽りらしいことも、帰ったそのとき直ちに気付くか気付かぬだけで、漸次にいつかは双方で気付くことである。矢代は千鶴子にもっといろいろと、こんなことに関して話したかった。が、それも他に人のいない二人きりの時を選ぶ方が良かろうとまた思い、この夜はこのまま寂しさに耐え忍んだ。
「ちかぢかまたお会いしましよう、向うのことは向うのこと、こちらのことはこちらで、それぞれ別ですからね。それや、つまるところそうなんですよ。」と矢代は千鶴子を見て、「はッはッはッ」と声を出し軽く笑った。
「天罰ね。」
と千鶴子も所在なさげに一緒に云って笑った。矢代は気軽くなったついでに、東京へ着いたその夜、千鶴子の家の前まで夢中で行ったことをつい話しそうになった。が、やはり、まだそれを云うべき自然なときにはなっていないと思い、彼は云い止まるのだった。
料亭を出てから省線の駅まで四人は歩いた。ゆるく下りになった暗い枯葉路の両側の大樹の下を、塩野と由吉とが話しながら先に立ち、少し遅れて矢代と千鶴子とが歩いていった。
顔の見えない千鶴子の襟もとから香料の匂いが掠め流れた。モンパルナスで別れた前夜、雨あがりの夜道を歩いているときにも匂った同じ香だった。
「あたしの家へも一度お遊びにいらして下さらない。汚いところですけれど。」
と千鶴子は、もう興奮のなくなった声で云ってから、二三日前の夜、まだ見たこともない矢代の母からひどく叱られた夢を見て、恐くてぶるぶる夢の中で慄えたと話した。矢代は母が千鶴子を叱っているところを想像し、そんなところも母にはたしかにあるかもしれないと思い、また今の千鶴子がカソリックのままだと、法華を信じている昔堅気の武士の娘の気性を持つ母との、折れ合えるところはどこだろうかと一寸彼は考え、い
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