にそう云ってから、庭の隅にある四間ばかりの高さの築山を指差した。
「これは目黒富士といってね、これでも広重が絵に描いてるんだ。近藤勇もよくここへ来たらしいんだが、どうも日本へ帰って来て、少しうろうろしているとき気がつくと、すぐこんな風に、歴史の上でうろついてるということになってね。広重もいなけりゃ、勇もいやしない脱け跡で、これから僕ら、御飯を食べようというんだからなア。」
「そう思うとあり難いね。御飯も。」
塩野は庭下駄を穿いて飛石の上を渡り、目黒富士の傍へ近よっていった。薄闇の忍んでいる三角形の築山全体に杉が生えていて、山よりも杉の繁みの方が量面が大きく、そのため目黒富士の苦心の形もありふれた平凡な森に見えた。しかし矢代は廊下に立って塩野の背を見ながらも、やがて来そうな千鶴子のことをふと思うと、争われず庭など落ちついて眺めていられなかった。パリで別れてから、大西洋へ出て、アメリカを廻って来た千鶴子の持ち込んで来るものが、まだ見ぬ潮風の吹き靡いて来るような新鮮な幻影を立て、広重の描いた目黒富士の直立した杉の静けさも、自分の持つ歴史に一閃光を当てられるような身構えに見えるのだった。
間もなく、庭の石灯籠の袋に火が入り部屋の火影が竹林の足を染め出すころになって、女中に伴われ千鶴子たち二人が廊下を渡って来た。
鷹揚に肥満した背の高い兄と並び、クリーム色に山査子の花を泛べた千鶴子の服が、鳥の子の襖いちめんにぼうッと光圏を投げ拡げ、灯を映したその華やいだ色の中から、千鶴子は首を縮めてちょっと矢代を見ると眼を落した。それはパリで見たときよりも見違えるほどの美しさだった。そこへ塩野は気軽に二人の傍へ近より板についた賑やかな握手をした。矢代も塩野の後から千鶴子の傍へよって行ったが、握手をひかえ、どちらからともなく畳の上へ膝をついて、
「暫くでした。」
と彼が云うと、千鶴子も「御無事で」とただ幽かに云ったまま、赧らみの加わった眼もとをすぐ自分の兄に向けた。
「兄ですの、どうぞ宜敷《よろし》く。」
千鶴子に云われた兄の方は、坐り難げに円い膝を折って坐ったが、すぐお辞儀をするでもなく抜いた懐中から名刺を出して、ゆっくりと落ちつき払った初対面の挨拶をした。矢代は妙に間の合わぬ気持ちで二度もお辞儀をした。宇佐美由吉と書かれた文字もよく眼に入らぬまま、彼も自分の名刺を出したが、固くなりかかった気持ちが、どういうものか急に中途でなくなるのを感じた。後から来た順序で自然に由吉が床の前に坐らされ、その横へ千鶴子が坐った。
「塩野とも暫くだね。」
由吉は大徳寺の一行物の床軸を見上げてから、またあたりを尊大そうな身振りで眺め廻して塩野に云った。彼のその大仰な身振りは傲慢には見えず、一種の剽軽な微笑を絶えず泛べているので、却って磊落な風格を対う人に与えてくつろがせる妙があった。
「どうだったアメリカは?」
と塩野は由吉に訊ねた。
「そうだね、へんに大きいけれども、どうも隙間も大きくってね。」
由吉はそう答えたまま、後は二人に待たせたきりで何んとも云い出そうとしなかった。
「何んだ、それだけか。」
塩野の笑っているところへ酒が出て来たので活気づいた座の外へ、自然とアメリカの談が押し出された形となって、猪口が動いた。
「大石はどうしてる。」
こう云う由吉の問いから塩野と彼との間で、暫く大石の噂が出た後、それにつづいて由吉と塩野たちの、パリ、ロンドン間の交遊仲間の話ばかり懐しげに出揃った。それらの仲間はみな、パリの「十六区」に棲んでいる日本の上流階級の者たちばかりの名前で、あまり「十六区」を知らぬ矢代は、暫くは二人の話を聞かされる番だった。
「僕はもう少し早く帰る筈だったんだが、侯爵がね、どうしても一緒に帰ろうというので、つい船も延びちゃったのだよ。ところが、ニューヨークへ着いたら枕木が来てるんだよ。どうして来たものやら分らないんだが、婿も一緒さ。」
美しい松脂色のゴム絹の袋から、きざみ煙草をダンヒルのパイプに詰め詰め云う由吉の話を矢代は、自分と別れてからの、千鶴子の生活の匂いを嗅ぎつける思いで聞くのだった。由吉の話の中に、侯爵とか男爵とかと、名を云わずただ爵位だけで呼ぶ習慣のあるのも、塩野には当然のことらしく、彼も由吉に応じて笑ったり皮肉を入れたりした。
それにしても、この塩野や由吉らの、日本人放れのした交友たちの間に浸って来た千鶴子が、矢代に近づいていた不似合なパリでの一時期の交遊期を、今さら彼は訝しく奇特なことだと思わざるを得なかった。しかし、もう今は、どこが違っているのか分らぬながら、どことなく総てが前とは違っていた。
「いつお帰りになりました。」
ほとんど先から千鶴子と視線の合うのを恐れていたのも、矢代は、このことだけ千鶴子に訊きにくい事だったからであるが、それもいくらか酒にほぐされ、初めて千鶴子の顔を見て訊ねた。
「八月の二十一日に着きましたの。」
千鶴子は答えただけでまたすぐ食卓の上へ眼を伏せた。頭から飛び散ってゆく何ものかを必死に防ごうと努めている、びくびくした彼女の表情を矢代は見てとり、
「じゃ、僕の想像はあたったな。僕は九月二日ですから、あなたと十日違いですよ。東北の田舎へそれから一寸引っ籠っていました。いかがです。一つ。」
矢代に銚子を向けられた千鶴子は、軽く猪口の端を唇につけただけですぐ下に置くと、今度は急に正面からじっと眼叩きもせず矢代を見詰めて黙っていた。
「この人だったのかしら、あの人は?」
と自問自答をし始めているような、苦しさに光りの滲み上げて来る眼差だった。それで良いのだそれで、悲しむことはない、と矢代は千鶴子に胸中で云いきかせながらも、無意味な幻影の退散を祝う寂しい気持ちも一刻ごとに強まるのだった。彼は話の緒口のほぐれたままに勢いづき、当り触りのないシベリヤの平原のことや、新聞社の競争に巻き込まれた滑稽さなどと、ただ饒舌っているという実感だけで話し始めた。その間、千鶴子はあまり彼の話など聞いてはいない恨めしげな様子で箸を動かしていたが、塩野と由吉は急に饒舌り出した矢代の話に面白がって、「ふむ、ふむ。」と乗り出しては声を立てて笑った。矢代はそれも遠くで聞えるように思われる笑いの底で、やっと気力を掻き集めてはまた饒舌った。
「しかし、とにかく、地球というものは、妙な顔をしてますね。世界は幻影というものが起るように出来ていますよ。どうも僕らは善悪は別として、人間が悩まされている幻影を、拭き落してゆく運命を持たされたような気がしますがね。やはり、平和を愛するのだ。」
と矢代は自分の話の最後を結んで、新しく出た椎茸の揚物に箸をつけた。
由吉も塩野も矢代の洩した意味が、何んのことだかよく分らぬらしく黙っていた。しかし、矢代にしては、そのことだけは特に千鶴子に云いたくて云ったことだった。実際、彼は千鶴子をこの夜見たときから、全く別の舞台で昨日と違った劇を見始めているような、乗り移らぬ気持ちを感じて沈んだ。
そして、その愉しめぬものの一切も、千鶴子の預り知らぬことばかりで、この夜の解せぬ悲しみや寂しさのすべても、ヨーロッパで自分の見ていた幻影のさせる仕業だと思うほど、西洋から帰って来た多くの青年が、船上から神戸を見て悲しみのあまり泣き出すという、弱まり崩れた心根もやはり同様に自分の中にも潜んでいたのだろうかと、矢代は不快になり、一層悲しく沈むばかりだった。
しかし、それも千鶴子一人がどうやら嗅ぎつけたらしい以外には、塩野も由吉もまだ知らず、席は料理の数が増えるにつれ賑やかになっていった。
「それはそうと、男爵は日本へ帰るつもりがあるのかね。」
と由吉は話を換えて塩野に訊ねた。男爵というのは、サンゼリゼのトリオンフで、初めて矢代が東野から塩野を紹介されたとき、一緒に紹介された同席の平尾男爵のことだろうと矢代は思った。
「さア、どうも男爵は、帰ろうにも帰れないんじゃないかな。よく分らないが。」
と塩野は言葉を濁し、明答を避ける風だった。
「そうかね、しかし、早くひき戻す工作を僕らでやろうじゃないか。枕木にも僕は頼んでおいたんだが。あれだけの人物を、いつまでもパリで腐らしとく手はないと思うんだ。」
「しかし、駄目だなア。」
塩野はそう云ってからまた由吉に対い、意味ありそうに笑いながら、
「それより、君の方が心配だが枕木の方は大丈夫か。」
「いや、あれはもう済んだ。」
由吉の薄笑いを洩して俯向いた顔色といい、枕木という奇怪な名といい、矢代は、さきからその名が出るごとに意味の深さを感じさせられていたときだったので、塩野もそれを感じたのであろう彼から、
「宇佐美はね、フランスの枕木王のお嬢さんにひどく好意を持たれたんですよ。ところが、そのお嬢さんには許婚の伯爵がいて、それが嫉妬やきなもんだから、見ていて面白いんだ。」
由吉が片手で「こらこら」と云って止めるのも介意《かま》わず、塩野は矢代に枕木の説明をそんなにして聞かせた。
「しかし、フランス人というものは、危窮に臨むとなかなか見上げたところがあると思ったね。僕はニューヨークで枕木がパリへ帰るというから、船まで送っていったんだよ。ところが、いよいよ船が出るというときに、甲板で最後の別れの接吻をしろって、傍の枕木の女友達が僕に奨めてきかないんだ。礼儀ならやむを得なくなって、命ぜられた通りに僕はしたのさ。そしたら傍で伯爵は、それを見ている間静粛に拍手をしているんだ。」
「それや、あすこにはまだ、騎士道の名残りがあるからな。」
と塩野は自分の出入していたパリの上流階級の風習や、また過ぎたそこでの自分のことも思い泛べたらしい眼鏡の光りだった。
しかし、矢代だけは一寸心が詰るように由吉の話を聞いていた。というより、千鶴子と自分のいる前で、そのような情景を話すつもりになった由吉の気持ちが、彼には呑み込めかねた。
由吉の暗示するところと多少の違いはあるにしろ、矢代は千鶴子に対っていた自分の態度を、由吉や伯爵に較べて考えずにいられなかった。たしかに自分の装いには、野暮なところなきにしも非ずというよりも、正当な愛情ある人物の取るべき態度ではなかったかもしれないと思った。しかし、そこが旅というものだとまた彼は思うのだった。旅の喜びを貫いて絶えず流れていた憂愁は、それ自身すでに恋愛以上の清めのような物思いであった。もし千鶴子と自分とが男女の陥ち入るような事がらに会っていたなら、定めし想いの残る旅の印象はよほどこれで違っていたことだろうと思った。しかもまだ今になっても彼は自分の旅情を汚す気は起って来ないのであった。むしろ、このまま今の態度を守り通してゆくことに幽かな喜びをさえ感じるのはどういうものだろう。――あるいはも早や愛情を示す時期が二人の間から遠ざかってしまっているのかもしれなかったが、それなら、それもまた善しと思われる何ものかが、新しく生じて来ていることも事実だった。実際、彼と千鶴子の事件はまったく新しく、初めてこの夜出来て来ているような、異国のことではない、沈みながらもある生き生きとしたものが生れ始めているようにも思われる。矢代はときどき千鶴子の顔を眺めてみた。それはたしかに前の千鶴子ではない、何か悩みを含んだ慎しみの深さを加えて来ている、前よりはるかに現実的な千鶴子の顔だった。
「僕はこのごろ、日本の中を旅してみたくて、仕様がなくなっているんですよ。塩野君なんかとそのうちまたいかがですか。」
と矢代は千鶴子に云ってみた。
「ええ、そのときはまた――。」
千鶴子が眉を少し開いて云いかけようとしたとき、塩野はすぐ横から「いいなア、行こう行こう。」と勢い込んで千鶴子に云った。
「そのうちみんな、どっと帰って来るから、そしたら皆で一緒に行こうや。僕は自分のこれからの仕事としても、日本の良い所を写真にとって、どしどし外国へ向けてやらなくちゃならんのだから、何よりだ。もうそろそろ明日からでもかからなくちゃ。」
塩野のそう云うのに由吉だけは一寸頭を撫で、つまら
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