二人はこうしているのだった。彼は塩野を抱きかかえたいような衝動をときどき感じたが、さも手持無沙汰のように煙草を喫いつづけてばかりいた。
「東野さんその後どうしてました。あの人も、そろそろもう日本へ着くころだと思うが、二三日前に来た久慈の手紙では、イギリスへ行ったということだが、あれから会われましたか。」
「会いました。あれから一度、東野さんの講演がありましてね。僕は聴きに行ったんだが、あんまり面白くもなかった。妙なことを云い出すものだからひやひやしてね。それでも、フランス人に講演するんだから、まアああいうより仕様がないんでしょうね。」
「それや、ひやひやするだろう。」
 と矢代は、東洋的な東野の一風変った、独断的な話の癖を思い出して笑った。
「しかし、万国知的協力委員会の幹事をしている佐藤という人が、今日は成功だ、と僕にそのとき云いましたよ。それでやっと僕も安心したが。」
「東野さん、どんな講演をしたんです。」
 と矢代はまた訊ねた。
「何んだかもう忘れたけれども、世界の人間が、世の中を愛するためには、先ず各国の人間が、今までの歴史と地理とを、それぞれ、もう一度あらためて認識し直すことだ、というようなことを云いましてね。何んでも、そうすることから、人間の愛情というものが、一層高尚に変ってゆくというのですよ。」
「それはまた東野さん、大きく出たものだなア。」
 と矢代は云いながら、塩野と一緒に笑った。が、日本人がヨーロッパ人の前で無理に話をさせられれば、今のところ、東野のようなことを云う以外に適当した穏かな話はないと矢代は思った。実際、矢代は西洋にいたとき、随分いろいろな事に人後に落ちず感心したが、一方どういうものか、いつも理由の分らない腹立たしさを感じた。しかし、塩野はそうではなく、一心不乱に一挺のカメラの眼に意識を蒐め、対象を研究しつづけていたのである。それもキリストの精神を中心にして、物理がどこよりも一番美しく結晶したノートル・ダムに対い、特にカメラの焦点を向けつづけていたようだった。
「君がヨーロッパにいるときは、なかなか豪かった。久慈や東野さんより、僕は君に一番感服したな。とにかく、君は立派だった。」
 と矢代は塩野から視線を反らせて低く云った。
「豪いも豪くないもないや。他の人とは違って、僕は貧乏だったんだから仕様がない。」
 塩野は後頭部へ両手を廻して笑った。
「いや、そこがさ。」
 こう云いながらも矢代は、巴里祭の日に、サンゼリゼの坂で中央の伝統派の一団と、そこへ襲って来た左翼の打ち合う波の間に挟まれ、殴られつつも、まだカメラのシャッタを切っていた塩野の勇敢さを思い出した。
「あの巴里祭のとき、君が殴られながら撮った写真、あれどうしました。」
「そうそう、あれはうまく撮れてた。引き伸して送りますよ。あの時は、まったく偶然なチャンスにぶつかったが、その代りに頭が割れそうだった。痛い痛い。」
 いつも巴里祭の話になると、顔中ぽっと紅をさす塩野の癖がまた出かかったと思うと、突然彼は話を換え急に馴れ馴れしい、一種頓狂な薄笑いを泛べた眼つきをして、
「あなた、氷河の写真入用ならありますよ。僕あなたと別れてから、またチロルへ行ったんですよ。あなたの渡ったあの氷河が忘れられないものだから、日本へ帰る前に何んとかしてもう一度と思って、とうとうまた行って来た。いいなアあそこは。」
「行ったんですか。」
 矢代は不意に虚を突かれた形で妙に胸が高鳴りをつづけた。暫く赧らみの面に噴きのぼって来そうな予感のまま、彼は氷河の厚い量層を眼に泛べるのだった。
「あそこの羊飼の唄ね、あのレコードも手に入れたから、この次ぎ持って来ましょう。大石と二人で行ったんだが、大石はあれからスイスの公使付に替って、まだあそこにいますよ。千鶴子さんの兄貴も、あそこの唄のレコード欲しがってるんで、持って行ってやらなくちゃ。――あなた会いましたか、あれから?」
「いや、まだです。無事帰られましたか。」
 と矢代は力のない小声で訊ねた。
「帰ってますよ。僕昨日ちょっと電話で話してみただけだが、行ってみましょうこれから。」
「うむ。」矢代は生返事をした。行きたいことは山山だった。それはもう氷河の話が出たころから、千鶴子の名前がいっぱいに膨れ襲いかかって来ていたのだが、それが塩野から無造作にそう云いかけられると、急に返事に詰り、云いようのない苦渋な気持ちで即答が出来かねるのだった。塩野は矢代の表情を伺いながら、瞬間これも理解に苦しむ風な、うつろな眼のまま黙り込んだ。
「それより、夕御飯どっかでどうです。久しぶりですからね。」
 ようやく矢代はこう云って自分の苦しさを掻き除けた。
「ほんとに久しぶりだなア、千鶴子さん、夕御飯に呼んでやろうじゃないですか。喜びますよ。」
 再会の喜びに夢中の塩野からまたそう云われては、矢代も今は抗しがたかった。それも、千鶴子を呼び出すほどなら、むしろ出かけて行っても良かったところを、彼女の家へ直接行き渋る矢代を遠慮とのみ思い込んだ、塩野の勘違いだった。矢代は、この喜びをそのまま素直に受取ろうとしない自分に気枯れのした暗さを二重に感じ、彼にそれも云えない焦燥のまま、不思議と彼は沈みこんだ。
「千鶴子さんに会うのも良いが、どうもね。」
 と矢代は笑いに紛らしながら、争われず塩野を見る眼も、さきからパリを懐しむ思いの方が遥かに強かった。そして、ともすると彼をただその背景の上に泛べているだけの自分を感じては、塩野もまた、こちらを同様に見ているにちがいないと思い出され、ふと差し覗いてくるような寂しさが、冷え冷えと薄気味悪い影を流して通りすぎた。それも、もしこのまま千鶴子に会えば、一層拡がるばかりのパリの影が、今はその前兆のような不吉な尾を、ちらりと跳ね上げ冷笑しつつ流れているかと思われる。
「どうもしかし、旅というものは不思議なものだなア。行くときにはただ夢中で行くが――君、もう暫くすると辛いですよ。こんなに辛いものだと思わなかった。これであなたや千鶴子さんと会うのも嬉しいが、惜しいことに、外国へ行く前に一度会っておいたんだと、もっと良かった。」
「そうそう、それや分る。」
 と塩野も眼を空に上げて云った。彼のその見上げている空中に映っている異国の幻影が、楼閣に楼閣を重ねた絢爛たる光の綾を鏤め、また自然と矢代の頭にも映り返り、塩野を見るのだった。暫くこうした幻影が幻影を見ている間を、窓の外では、晩秋の光線が徐徐に日暮れに傾きつつ、樹樹の末枯《うらが》れた葉の影を深めてゆく。庭の柿の木の下で、落ち潰れて久しくたった熟柿の皮から、白い毛に似た黴が長く突っ立って生えている。
「とにかく、僕らは足を奪《と》られるよりも、頭を奪られているんだからなア。始末にいかん。――元気を出そう。」
 矢代は庭の中の一点の賑やかさを誇っている、狂い咲きの躑躅の花に視線を移して云ったが、晩秋の冴えた日暮がますます腹の底から沁んで来た。


 家を出てから二人は坂路を下っていった。坂の降り口の所で、塩野は自動電話のボックスを見付けると矢代を外に残して中へ入った。どこかの料亭へ電話をかけるのか、それとも千鶴子にか、ただ「一寸待って」と声をかけたままだったが、外から見える彼の顔は、何んとなく千鶴子の兄にかけているらしい、打ち解けた笑顔をしていた。
 矢代は一度ちらりと中の塩野を見ただけで、出て来る電話の主が気がかりなだけに、今は話の内容に気をつけるのがいやだった。彼はそこに手ごろに見付かった近くの煙草屋へ入り、余分の煙草を買った。パリで千鶴子と別れる際、帰ればすぐ会おうとあれほど約束しておいたに拘らず、一ヵ月以上にもなり、それも塩野に間に立たれて初めて会おうとする虫の好さを思うと、向うにしても、彼の電話のままにはやすやす出かけて来ることもあるまいとも思われた。それに、千鶴子もこちらの考えたほどのことは考えた上に、なお婦人として心得るべき特別の事情も、種種考え直して苦しんでいることなど、およそ定っていることであった。
「つまり、そこだ。自分の会いそびれていたのは。」
 と、矢代は煙草屋を出て来るとき口から思わず出かかった。しかし、また向うにしても、こちらの考えを潜って、思いを巡らせていてくれたものなら、悪気があって強いて会わぬわけではない事情など、虫好くして考えれば、分ってくれそうなものだとも思われる。しかし、それにしても、矢代に不思議なことは、会いたいとか見たいとか、一途に思っていたことに変りのなかった自分を、それをせき留めているものの事実あるのは、たしかに自分一人の胸には分らぬ何事かだと思った。そんな自分の所存ではない、二人の間にのみ潜んでいる何事かは、恐らく二人が会ってもまだ分らないものにちがいない。そして、それもみな、異国で出会った男女の間にばかり起り得ることであってみれば、今は運を天に任せて出て行く以外に法もない。
 そうは思いながらも、矢代はなおボックスに恐れを感じ遠く離れたまま立っていた。枯草の中にぽつりと尖がっている、無愛想な灯台形の白い小箱が、運命を判じるアンテナのように底気味悪く見え、その声を運んで来るものまでが、ただの科学的なことではすまされぬ、神秘な光りのように見えるのだった。そこへ箱の中から出て来た塩野の、パリで作ったらしい身についたダブルの洋服が、周囲の風物とかけ離れひどく頓狂に見えるにこにこした姿で矢代の方へ歩いて来た。
「千鶴子さん、来るそうですよ。どうもしかし、初めは妙なことを云いましてね。あたしが行っちゃ矢代さんに御迷惑じゃないかしらって、そんなことを云うんですよ。あれも一寸どうかしてるなア。」
 と塩野は云いながら、ズボンのポケットから煙草を探した。しかし、いよいよ千鶴子が来ると分ると、矢代は急に元気が出て思わず饒舌になりかけた。
「それや、君、帰ったばかりだから、どうかしてるのは誰でもですよ。そのうち君だって、どうかなりますからな、用心しないと入院しますよ。」
「ふむ、入院するかな。」
 と塩野は一寸考える風に眼鏡をせり上げた。
「とにかく、入院するしないは別として、必ず妙なものがやって来る。訳の分らぬものが、無茶苦茶に自分を押し倒して、馬乗りになって来る。」
「ふむ、来ますか。」
 塩野は小首をかしげたかと思うと、「はっ」とかすかに声を立てて笑った。二人はバスの停留所の手前まで来てから立ち停った。
 矢代は今までにもここの停留所へ来るごとに、幾度となく仰いだ眼の前の欅の大樹をこのときも自然に仰ぎ、幹が巧みな別れ方で、それぞれ枝となってゆく見事な様子にいつもながら感服した。別れる所へ来て別れるという単純な美しさが、それぞれ別れたまま空を支えつづけている姿が、彼を捉えて放さなかった。
「僕らは天罰を受けてしまった。どう仕様もない。潔く罰を受けて仕舞いましょうよ。」
 何んとなく欅に云いたくて、塩野にそんなに矢代の云っている前へ、方向の違うバスが一台来て停った。欅に風があたり枯葉がどっと一斉に吹きこぼれて来た。バスの女車掌は下へ降りて踏台に片足をかけ、落ちて来る枯葉を仰ぎ見ながら、
「落葉する日か。いやに感傷的だわね、オーライ。」
 と運転手に手を拡げでひらりと舞うような様子でまた中に入った。塩野は去って行くバスを見送りつつくすくす笑い出した。枯葉は笑っている二人の肩口へなお音立てて舞い落ちて来た。


 千鶴子の家から近い場所をというので、矢代たちは、目黒のある料亭を選び、そこからまた塩野が千鶴子に電話で報らせた。このときは千鶴子の他に彼女の兄も来るとのことだった。ここの料亭は大樹に囲まれた暗さの割に、高台にあるため繁みの深さに陰鬱な気がなかった。ある旗本屋敷を改造したということだったが、そのためもあって廊下や間取りも槍を使うに適した広さの半面、書院の清潔さも失わず、苦心の払われた木口や壁など、天井の高すぎる欠点を補って居ごこちも良かった。
「僕は社の用でときどきここへ来たんだが、前にここは僕の知人だったんですよ。」
 矢代は塩野
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