のだ。」
「でもまア、あたしたちの面白そうなところよ、パリはいいでしょう?」
「うむ。」と矢代は低く口の中で呟くように云って苦笑した。
幸子は眼ざとく兄の表情の濁りを見てとると不審そうに一寸黙った。
「まア、あんなものだなア。」とまた矢代は云って顔を赧らめながら幸子から顔を背けた。
「おかしな人。」
「何が?」
「じゃ、つまらなかったの、行って?」
執拗に表情の後を追って来そうな幸子の視線を、今は矢代は手で払い除けたかった。
「そういうことは、そのうちおいおい話すとして、それより早く身体を善くすることだ。幸スケのような病気をする奴は、やはり心がけが善くないからだよ。」
「そう云われれば、それまでだけれど。――でも、お母さん心配してらっしてよ。お兄さんひどく元気がないようだが、どうしたのかしらなんて。別に心配するほどのことも無いんでしょう。パリまで行って――」
「無いさ。」矢代は簡単にそう云ってまた笑った。しかし、これで自分のどこかにやはり元気の無さそうな部分が見えるかもしれぬと思うと、その原因が千鶴子のことだとは分らぬながらも幸子だけは、外国での男の間に生じる出来事など想像出来るにちがいないことであれば、さきから執拗く表情を追って来るのも、そのあたりの不審が元であろうと矢代には思われた。
「もっとも、興奮が醒めると多少は元気も無くなるがね。」
矢代は妹の気持ちを早く他の事に反らしたくてそんなに云った後から、都合好く、平壌で不時着したときに会った妓生《キーサン》の話を思い出したのでそれを聞かせた。またその妓生が彼に洩した話は疲れて平壌へ降りたときの矢代には何より興味を覚えたことだった。
福岡まで大連から一飛びに飛ぶ筈だった飛行機が前方の風雨のため平壌で停ってしまった夜、矢代はここが妓生の産地だと聞かされていたのを思い出し、こういうときこそ朝鮮の歌を聴きたいと思って料理屋へ出かけた。そこは一流の料理屋で窓の下に大同江が流れていた。部屋には渋色の紙が敷いてあるだけだったが、同様に暗い隣室では彼には分らぬ二三の話声だけ高く聞えた。川水に灯火のない夜のためか、その声は洞の中に沈んだざわめきの酒声に聞え、ヨーロッパから帰って来て着いたばかりの矢代には、一帯の光景が荒涼とした暗の中に慰めに見えてひどく彼は寂しくなった。そこへ妓生が純白の衣服で入って来ると、矢代の傍へ片膝を立てて坐った。歌の上手な人という註文を出してあったので、その妓生の歌は隣室の酒声を抑え、際立った美しい調子で暫く響いた。妓生の名は忘れたが東京へレコードの吹込みを頼まれて行ってから、帰ってまだ三日にもならぬと話しながら、彼女は何んとなく元気のない、悄然とした様子でチマの皺を摘んでいた。
「東京は初めて行ったの?」
矢代は自分も初めて外国から帰った当夜に、これも初めて東京から帰って来たばかりらしい妓生との巡り合せに興味を感じて訊ねてみた。
「初めてよ、あたしね、東京から京都、大阪と、今度は随分いろいろな所を見て来たわ。でも、神戸があたし一番好きだった。こんな美しい所が世の中にあったのかしらと思って、うっとりしてしまったわ。」
「神戸が?」
矢代は一寸意外な気持ちで訊き返した。
「ええ、神戸にはあたしすっかり感心したわ。ですからあたし、平壌へ帰っても、ここで一生自分が過さなくちゃならないんだと思ったら、もう元気も何も出なくなってしまったの。もう、早くお金を溜めて、田舎へ引き籠って一生暮そうと決心したの。」
妓生の年を訊ねると二十歳だという。高麗《こうらい》文化を伝える二十歳の歌の名手に絶望を与えた神戸に、何がいったいあったのだろうと、矢代はそのとき考えた。ヨーロッパから帰って来た青年の多くの者が、船中から神戸を見て、その貧しさに悲しさがこみ上げ、思わず泣き出すというその港、そして、そこからいま帰って来てひそかに洩らし悲しんだ妓生のこの歎きであった。
「つまり、それぞれみんな自分の故郷の美しさを忘れたのさ。心ないことだよ。」
皆話し終えてから、矢代は幸子を戒めるつもりで言葉も、さして苦しまず自然に出て来たのを一層好都合に感じて云った。
「君も身体が善くなったら、こんな所であぷあぷしてずに一度奈良や京都でも廻って来るんだね。僕もそのうち行くつもりだ。まだ僕の旅行はいよいよこれからが、始まりというところさ。」
さして馬鹿とも思えない幸子には、今の場合の兄の気遣いなど、およそこれほどのところで察しもつくだろうと矢代は思った。それまで海の上を黙って見ていた幸子は、急に立ち上ると彼に背を見せながら、ベニスのショールをかけてみた肩を鏡に映して眺め入った。
「いいわね。これ。早くよくなって、あたしもさっさとどっかへ行ってみたいわ。」
白くギリシア模様を浮き出したショールの向うから、思い余ったように吐息をついて云う妹の声に、矢代は、なるほど幸子はまだ病人だったのだと気がついた。そして、ふとこれで妹は自分を心配させないために健康を装っているのかもしれないと思うと、自分と一緒に自由に異国を渡って歩いていた千鶴子の健康な様子と思い合せ、突然妹が気の毒になるのだった。殊にチロルの山の上で泊った夜、
「こんなにあたし幸福でいいのかしら、こんなこと、いつまでも続くものかしら。」
と、蒼ざめた眼に恐怖を泛べて呟いたときの、あの千鶴子の吐息を矢代は思い出した。しかしそれは、今の幸子の息に籠った深い歎息に較べ何んという違いであろうと、今さら妹に同情した。寝台の傍の白薔薇に射している秋の日が、長く忘れていたものの幽かな息づきに見え一層矢代の胸を締めて来た。
「そのうち、どこへでも行けるようになるさ。ものというものは、心得さえ良ければ良いようになるものだよ。」
「それがあたしには出来ないのよ。」
鏡から離れて幸子はショールのまま、土産物のハンドバッグを持ち財布の厚い金具をぴちりと立てて、兄の前を様子振りつつしなしなと壁の傍まで歩いてみた。そして、
「どう、いいでしょう。」と振り返って笑った、矢代もつい一緒になって笑ってしまった。
矢代の手もとへ久慈から手紙が来たのは、東北から帰って間もなくであった。矢代は、やはり彼から来る手紙を待っていたので喜んだ。手紙によると、久慈はスペイン行きの途中、反乱勃発のため引き返してスイスからイタリアへ行き、再びパリへ戻って来たばかりらしかった。またその手紙では、塩野がもう日本へ出発し、東野がイギリスへ渡った後で、パリには早や彼の知人少く、マロニエの枯葉日毎に音立てて散る秋を迎え、淋しさ静けさ加わるばかりと書いてあって、その最後のところに、
「噂に聞くと、君もどうやら生還したようだが、僕はいよいよ怪しくなった。羨望すべき君子よ。」
と、そんな皮肉なことまで忘れずあった。この皮肉な短文には、久慈の苦心の意味が籠っていたので矢代は苦笑しつつも、すぐ返事を彼に書き、パリで絶えず論争しつづけた二人の争いを、また東京の自宅から彼に向けたくなるのだった。実際、矢代は、久慈にだけは他人には云いかねることまで書けるので、その点だけでも彼の人徳に感謝して争った。
「ミイラ捕りミイラとなりし談もあり、――君がそんなになって帰るのを待つ自分の悲しみも察して貰いたい。」
矢代はこういう意味のことを書いているときにも、強く西日の射しつけたモンパルナスの街の中で、
「ああ、もう頭の中は弾丸雨飛だ。僕はただ絶望するばかりだ。」
とそう呟きつつ日光を避け避け細めた久慈の眼差しを思い出した。
「どっちも生還おぼつかないか。」
矢代はそれに答えてそう云ったと思ったが、久慈も、二人のそのときの様子を思い出したらしく、相当に彼の手紙の皮肉は利いていた。
しかし、矢代は、久慈のミイラとなった死骸を迎えに出る日のことを考えながらも、彼を乗せて入港して来る船の中には、恐らく久慈同様な生きた死骸を沢山積んでいるにちがいないと思った。そして、それらのミイラとなったさまざまな幽霊が、日本の内部へぞろぞろ散って行く図を想像すると、やがて何かの肥料にはなるだろうそれら死骸の土の中から、やがて芽を出し、花を咲かせる草木の色艶も考えられた。またそれは、何らかの意味で光沢も増すにちがいない。
彼は久慈にも、応酬したくなった皮肉にそんなに書いているうち、日本に初めて襲って来た、激しい西洋の波の有様を次第に強く思い泛べるのだった。それは戦国のころから、安土桃山の時代に波うち上げて来たカソリックの激しさである。この精神の波は、僅か十数年の間に、日本の知識階級ほとんど全部の頭に浸入した。千五百八十二年、信長が殺された天正十年の正月に、九州のキリシタン大名の使節がローマに初めて出発して、八年後に持って帰った印刷機から吐き出された信心録のその拡がりの早さ、――それからまた、四十年後の寛永九年、全国に襲ったキリシタン迫害の暴風と、それに抵抗した大殉教の壮烈さ、――
矢代はローマ帝国がキリスト教に示した大迫害と匹敵する、当時の日本の大弾圧の様を考え、そのとき殺されていった無数のそれらの生命力の行方を想い泛べるに随い、下ってそれから三百年後の今の世に栄えている、カソリックの姿もまた自然に頭に泛べざるを得なかった。それも、矢代の先祖の城の滅ぼされたのが、カソリックの大友宗麟のためであり、その子孫の矢代がヨーロッパで知り合って、現に彼を悩まし、ともすると一切の判断を失わしめる婦人が、同様にカソリックの千鶴子だった。
「栄えるためには、人は何ものかに殺されねばならぬのかもしれない。君のように。」
と、矢代は久慈への手紙の中にそう書きながらも、このカソリックの再度の繁栄の理由を、むかし殺戮された殉教者たちの、断ち切りがたい意志の招きかもしれぬと思うのだった。
「歴史は繰り返すのか、進むのか僕には分らないが、恐らく君の亡き骸の悲しみも、何かの役目を果す日の来ることを僕は希い、またそれを祈っている。日本へ帰ってからの僕の念いは、今のところ、歴史は繰り返さない、ただ進むばかりだと信じたいことだけだ。しかし、人間の腸のうねりのような歴史は、恐らく僕らの祈りなど、聞き届けてくれないことと思う。だが、何んにも僕は心配などもうしていない。僕も君も、どちらも野蛮人というような高級な感性的なものにもなれず、知性人というような、これまた同様に透明な抽象的なものでもない。それなら僕らはお互に最も底辺にいるべき人物同志であり、この底辺という富み籤を引き当てた健康なものこそ、それなればこそここに最も真理が豊かにあることを自覚すべきである。何ぜなら所詮この底辺の僕らが人の世を運ぶのだからだ。そして、僕はこの自覚から楽しく出発するつもりだ。茲《ここ》に僕らの道徳がある筈だと思う。」
矢代は久慈にそういう手紙を出してから、三日目に、突然塩野が訪ねて来た。取りつぎに出た母から名刺を手わたされたとき、「あっ」と矢代は云ってすぐ立ち上った。人が来たのではなく、パリが人の姿で不意に訪ねて来たような胸騒ぎを彼は感じ、弛んでいた帯を絞め直して玄関へ出ていった。
「やア、暫くでした。一昨日着いたんですよ。御無事でしたか。」
塩野は勢い込んだ元気な顔を上に向け、両足を揃えた正しい姿勢で矢代に云った。
矢代は塩野を応接室に上げてから、そこでまた一別以来の挨拶をした。どちらもパリにいるときは敬語を使わなかったのに、このときは妙に固くなり、互に初めて会うような鄭重な言葉が自然に出た。矢代はそれを崩すのも却ってぎこちなくなりそうで、溢れて来る感動も礼儀のために絞めくくられ、ともすると無感動な静かな表情になるのだった。
「しかしとにかくまたお会い出来て、良かったなア。」
と何んとなく嬉しさに疲れ、二人が黙ってしまったとき、矢代はふとそう呟くように云った。窓からぼんやり庭の石榴を見ていた塩野は、云いたいのは自分もそれだと云いたいらしく、「うむ。」と頷いた。まったくどちらもここにこうして再び対き合っているという事実が、今は不思議な気のする一刻だった。またたしかに
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