おうとしていた自分ではなかったと思った。しかし、何ぜこんなに悲しくさみしいのだろう。嬉しくて溜らぬ筈だのに、それに何ぜこんなにさみしいのだろう。それは云うに云われぬことだったが、今の自分のこの気軽さや歎きなど誰に洩してみたところで、忽ち押し流されてしまうそぞろな空しさだと思われた。彼はまた元気を出し浴衣を着替えに立ち上った。
ひと風呂浴びてから彼は母の前で横に身を崩すと、ようやく自分の家にいるらしいくつろいだ気分に幾らかなった。
「はい。お茶。」
と云って、母が出してくれた二度目の茶の熱さは、初めて体内を洗うように感じられた。彼は外国のことなど、一言も母が訊こうとしないのが気持ち良かった。ただ妹の幸子の病状や、親戚のことの変りなど、矢代に訊かれるまま話すだけだったが、こうして母と話している間だけ、あたりに光りの満ち和ぐ思いのするのが、円光に染って休んでいるようで愉しく、屈託のない暫くだった。彼はいつかは自分もこんなに円く曲って、母の胎内にいたこともあるのだと思った。そのときを彼はこの部屋だと見立て、それから遠く海を渡り、陸を廻って来た自分の変りをまた思ったが、見て来た世界のさまを頭に泛べ、元の古巣に戻っているこの自分の物思いは、もう母に話しても分らぬあれこればかりかと思われた。しかし、それにしても、何にいったい自分は悩み、何を希んでやまんのだろうか。――それにまた、この眼をつむったような寂しさはどうしたというのだろう。それは追えども追えども去らぬ寂しさだった。
「あなたお金足りたの。先日も三千円ばかり送ったんだけど、それは受取ってないようですよ。」
母にそう云われて矢代ははッと我に還った。異国で金を握り、銀行から出て来るときの、あの仏にあったそのままのような明るさを思い出したのだった。
「それは知りませんね。いつです?」
「今から一と月ほど前よ。」
「じゃ、駄目だ。」
矢代は、すべてが過ぎ去った日のことだと思ってがっかりした。その金が日本へ戻って来ることは確実だったが、異国で使う金額と、日本で使う同額とは、為替《かわせ》関係の意味ではなく、まったく別のものだった。
金にしてそうであるなら、まして千鶴子という生きた婦人のことである。千鶴子の心や身体に変りはなくとも、千鶴子その人の価値が変っている、ある全く不可思議な質の転換を、矢代とて今はどうしようもない、すべては過ぎ去った日のことだと、また肱を枕に彼は畳目に眼を落した。誰の仕業でもない、時でもなければ、人でもなく、自分でもない、地上の出来事のうちもっとも恐るべきことで、そしてまた平凡な一事実に関したことだった。しかし、それがも早や誰に通じることだろう。それもたとい異国の旅をしたことのないものであろうとも、共通に身に襲いかかってやまぬ、日常茶飯のことだのに。――
「そうでしたか。しかし、それは失敗ったなア。」
とまた暫くして矢代は云って笑顔を撫でた。もし自分が久慈や田村のように、寝ても醒めても、ヨーロッパ、ヨーロッパと浮ごとを云って旅をつづけていられたなら、どんな仕合せな旅だったことだろうと思った。
西洋から帰る多くのものが、船中から神戸を見て、思わず悲しさに泣き出すというもの狂わしい醜態がある。それはいつもあることだが、しかし、天平平安のむかし遣唐使の去来した船中でも、幾度久慈のような青年に演じられたことだろうかと、矢代は思った。それらのものも、言葉が通ぜず通訳を伴って行き、同僚たちから受けた屈辱に耐え得たものたちが、帰って多くの仕事をし上げた。それに引きかえて、言葉に練達したものの多くは、絶望のあまり終生を故郷の草の中に埋め、溜息と化して死んでいった事実の多かったのも、むかしと変らぬ、今日に似た旅愁の所業の一つかとも思われた。そう思うと、矢代もさまざまこれから身に受けるにちがいない屈辱も耐え忍ばねばならぬ自分だと思い、唇を灼く茶の香の中から、意志を強めてかかる決意もまた燃えて来た。
「もう外国へ行くのは、あたしこりこりしましたよ。行くものは良いかもしれないが、家で留守をしているものの心配は、大変だからね。まだお金はあるだろうかと思ったり、言葉も通じない所で、さぞうろうろしていることだろうと思ったり、それはそれは心配なものですよ。」
母は元気を恢復して来たらしい矢代の様子を見て、愚痴らしいものも初めて洩した。
「お金のないときはそれや弱ったけれど、言葉なんか、日本語で結構間にあいますよ。どこだって通じる。むしろ外国語をうまく使う方が、日本でこそ尊敬されるが、外国人からは馬鹿にされる方が多いですからね。」
と、矢代はこんなに自分の不得手な語学に、少しは手柄を与えてやりたくなって云った。それは弁解に等しいものだったが。
「へえ、そんなものですかね。」
「それや、外国語を使うに越したことはないですが、そこは何んというか、僕だって少しは自尊心も出ますからね。妙なもので、外国にいると自分の国の言葉が、非常に有難くなるんですよ。ですから、日本語を使うと日本人には笑われるけれども、まア、一度はそんな真似も、やってみたくなるんですね。」
事実を云えば、異国にいる日本人の多くの者の争う点は、能ある鷹は別として、その滞在国の言葉が出来るか否かということか、出来ても発音とか読書力とかでまた争い、練達しているものはまた、不思議とどちらが出来るかということで争うのが常だった。
矢代は初めこれらのことも当然だと思い、気にもかからず尊敬さえしたのだが、それがどこでもここでも、同族のものを軽蔑する主要な原因のごとき観を呈している醜さを発見してからは、勉強とは云え、あまりにその修練の人格の無さに腹立たしさを感じ、多少は知っている異国の言葉もそのものの眼の前では、つい彼は使いたくはなくなった。そして、以来頑固にひとり日本語を押し通して用を足す反抗をつづけてみたが、まったく通じない日本語も、行くところどこでも不便少く目的を達したのを思うにつけ、知っている日本語さえ話さぬ西洋人の思惑や工夫もまた感じられて、一層彼は日本人の争いに眉がひそんで来るのだった。
「もう遅いですからお土産は明日にして、今夜はお母さん、休みましょうよ。」
スーツの中には買い蒐めた品もあり、その後に遅れて船で着く珍らしい土産のあるのも、まだつきぬ旅の名残りとなって矢代に明日を待たせるのであった。
二三日家にいて、矢代は母の郷里の温泉へ休養に行くことにした。外国から帰ったものでそのまま家に滞っているものは、どういうものか、原因不明の高熱がつづき、入院する危なさを通るのが例である。矢代も溜った疲れを揉みほぐしてしまいたいだけではなく、母の東北の郷里もこの際よく見直して置きたかった。
「幸子の病院も見舞ってやりたいですが、良くなっているのなら、まア温泉から帰ってからにしよう。どうも旅の気持ちを抜いて、すっかり身体を洗いたいのですよ。」
矢代はこう云って妹の方の見舞いを後にするのを母に納得させた。母も自分の郷里の温泉を、この際子供が選んでくれたことを喜ぶ風だった。
「あんな所より箱根の方が良さそうなものだけれどね。何が面白いの。あんなところ。」
「それや面白いですよ。西洋らしい所を見るのはもう倦き倦きして、疲れるばかしだからなア。」
矢代は云いながらも、一度前に、母の実家に女中奉公をしていたことのある婦人に、用を頼んだある日のことを思い出した。その婦人の嫁ぎ先の主人が東京に出て大工をしていた関係から、矢代の家の破損の部分を直して貰いたいと頼んでやった手紙の返事が、すぐ来た中に、
「今日子供が自動車に跳ねられて死にましたものですから、悲しくてごたごたいたしております。主人もすぐお伺い出来ますかどうか分りませんが、遅れましても不悪《あしからず》おゆるし下さいませ。」
と下手な字で鄭重に書いてあった。
自分の子供の不慮の死のあったその日、すぐ手紙の返事を書けるという律儀な恐るべき婦人の精神に、返事を書くことの嫌いな矢代は水を打たれたように覚えたことがあった。彼がその婦人と同じ母の郷里へ行きたく思うのも、一つは、自分の怠惰な心を正したいためもある。
彼の母の郷里は、東京から十時間もかかる東北地方の日本海よりに面していた。矢代の行った温泉場はその地方でも特に質朴で、古風なことでは日本でも有名な湯治場であったが、避暑客のまったく去ってしまった一帯の淋しい山峡では、野分の後に早くも秋雨を降らせていた。見たところ、このあたりの風習や気質には珍らしく西洋の影響を受けたものは殆どなかった。矢代は真黒な太い木組の浴槽に浸ったり、暇にまかせてその地の歴史を検べたりしながら身を休めた。
百軒あまり人家の密集している町は、湯に包まれた一つの木造の家のようなものだった。町の南端に流れている河鹿の多い川の水中から湯の煙が立ち昇り、百日紅の花の下を、泡立つ早い流れが日光に耀いていた。その周囲を包んだ変化に富んだ山波の姿は、巧緻な樹木の繁りを見せて矢代は倦きなかった。
「われ山民の心を失わず。」
このように山を見て云った芭蕉の言葉も、矢代は思い出しつつ山にも登った。山懐ろの秋の静かな日溜りの底で、膨れ始めた嬌奢な栗の毬がまだ青く見降ろされた。遠く向うの海岸のトンネルの中から、貨物列車のぞろぞろ出て来る姿を見ると、彼は田舎芝居を見ているような、道化た煙草好きの男を何んとなく思い出した。そして、あれが日本に顕われ出て来た初めての西洋の姿かと思い、膝に肱つき、下を見降ろしながら、彼は見て来た西洋を想い浮べては感慨に耽けるのだった。
煙を噴き出す貨物列車は蛇に見え、稲の穂の実っている田の中を通り脱けてまた煙を苦しげに、ぽッぽッと吐いて眼界から消えて行く。
このような素朴な景色を遠望しているとき、矢代は、自然にまた自分の父の若い時代を思い出した。彼の父は青年時代に福沢諭吉の教えを受け、欧州主義を通して来た人物だった。ただひたすらに欧米に負けたくない諭吉の訓育のままに、西洋も知らず、山間にトンネルを穿つことに従事し、山岳を貫くトンネルから文化が生じて来るものだと確信した、若若しい父の青年時代を思うと、矢代は父とは違う自分の今の思いも考えざるを得なかった。
「洋行というのは、あれは明治時代に云ったことですよ。お父さん。」
父にそう云った子供の自分らの時代では、いつともなく洋行を渡行という言葉に変えて西洋に立ち対っていたのだが、立ち対う態度を洋式にしているうち、いつとは知れず心魂さえ洋式に変り、落ちつく土もない、漂う人の旅の愁いの増すばかりが若者の時代となって来たのである。
「わしはトンネルに初めて汽車を通すときは夜も眠れなかった。自分の作ったトンネルだからね。どういう間違いで崩れてしまわないとも限らないから、そっと夜起きて、草はらの中に隠れて、トンネルから出て来る汽車の顔を見てたものだ。無事に出て来てくれると、やれやれと思って家へ帰って、また眠ったよ。」
視界にただ一点幾何学を顕した半円のトンネルの口を見降ろしながら、矢代は、父の話した明治の初期の苦心がその弧形かと思った。今は父は庶民金庫に勤めているとはいえ、自分を育て西洋へまで渡らせてくれたのも、つまりは今見降ろしているその弧形のためだった。また自分のみならず、どれほど多くのものが父の作ったトンネルを潜り、便益を得て来たことだろうと思うと矢代も、実益を多く残して老いの皺の深まってゆく父の顔を、自分に較べて見るのだった。しかし、自分は――彼はトンネルの口を見降ろしつつ、降りるべき土もない旅の愁いを深めるばかりの自分かと思った。
「われ山民の心を失わず。」
このような芭蕉の村里びとの自覚も、矢代にはもう遠ざかった音のようなものに見え、半弧を描いた父の苦心のトンネルが、なおも彼に、お前は旅をせよと云わぬばかりの表情で、海岸にレールを長く吐き流して曲っている。
稲の重く垂れ靡いている穂に、裾の擦れ流れる音が爽やかだった。これを耕し刈り採る苦労を少しも知らぬ自分だと矢代は思ったが、見
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