た。
 客は矢代の他に二人よりいなかった。二人の客はそれぞれ別の客だったが、一人は前からここでよく顔を合す常客で、他の一人は、腰かけたまま床下に俯向いていて、今にも吐きそうな苦しげな姿勢をしていた。鈍い電灯の下でその腰折れ客はときどき咽喉を鳴らした。
 矢代は見ていても別に二人の姿が気にかからなかった。板壁に人の凭りかかった油の痕跡が、黝ずんだ影法師となって泛んでいた。彼はその中の一つにも自分の油が滲みついているのを感じた。そして、あれが日本を発つ前の、自分の痛苦懊悩の日日の印刻かと思って懐しかった。彼は指頭で油の影を撫でてみた。
 そのうちにまた別の新客が一人、〆縄のような縄暖簾を額で裂いて顕われて、「やア。珍らしい人だね。」と矢代に声をかけた。それも常客の一人で、矢代の知人の田村という美術評論家だった。
「どうだったパリは?」
 傍の椅子へよりかかって、慰安かたがた云う田村に、矢代は早速には答えかねた。
「何んだかよく分らないね。あそこはどうも、僕にはむつかしい。」
 矢代は田村の猪口を云いつけた。田村はフランス崇拝家の多い中でも少し度を越した人物で、むしろ久慈以上のところがあったから、矢代も迂濶な返事でこの夜の気持ちを壊したくはなかった。
「しかし、面白かっただろう。良いことを君はしたよ。」
「僕はフランス語がよく出来ないからね。僕のは出来ぬ面白さだ。」
 矢代は出発前に自分のフランス語の貧弱さを素直に悔い、また知人たちもひそかに彼のその労苦を憐れんでいるのを知っていたから、田村の得意なフランス語に華を与えた譲歩も、酒の場の挨拶としてはしなければならなかった。
「とにかく、フランス語の教養がなけれやね。フランスへ行ったって面白くないさ。」
 こう矢代に面と向って云った正直者の知人のいたのも彼は思い出した。そして、自分の外遊に関しては、定めし嘲笑の様子が見えぬ部面で起ったことだろうと想像もしたが、それが以後、いちいちそれに満足を与えるような結果となって来ている自分の胸中を、彼はどんな表情で示して良いか、苦しむのだった。
「僕は君らの一番いやがる人間になっているのだよ、もう訊いてくれたって駄目だよ。」
 と実は彼はこんなに皆に云いたかった。しかし、こういう云い方など、もう自分を説明する何んの役にも立たぬと知り、彼は田村の盃に黙って酒を注ぐ歎きもまた感じた。
「僕はフランスにいたとき、日本に心酔してさんざ笑われたよ。どうも日本が好きになって困ったね。向うにいる日本のインテリは、日本の内地にいるインテリなんか、知識階級だとは全然思っちゃいないんだよ。よくしたもので、そう思われると、何んとなく自分も、自分を知識階級だと思わなくなるもんだね。」
 田村は何か云いかけたが、眼鏡の底からただ細かく眼を光らせただけで黙っていた。ふと矢代は田村を見ると、彼の洋服姿がフランス語を習っている神官に見えて来た。
「実際おかしなものだ。まア誰も彼も、遊ぶときまで論理論理と云ってるよ。僕はまるで論理の景色を見に行ったようなものさ。世界の人間がこんなになってしまえば、何んか起るぞ今に。」
「まア、僕はフランスを見ないから何んとも云えないがね。しかしそれはそうだろうな。」
「見たって云えないよ。――とにかく、僕は何も、どこの国に心酔して行ったというわけでもなし、特にフランスを見たくって行ったわけでもないが、まア、地球というものは円いものかどうかと、検しにいってみたような結果だな。しかし、たしかに地球は何んとなく円いと思ったね。」
 矢代は特に謙遜や弁解を示そうとしてこんなに云ったのではなかった。振り返って旅中のことを思いめぐらす自然の言葉が、加わる疲れとともに、このように弱まって出たのであった。それは考えると物足りなく寂しかったが、そうかといって、この夜も昼もフランスでなくては納まらぬ田村の前で、ここのこの小料理屋の木目が、今の僕には神殿の木目の美しさに似て見えるのだと云ったなら、この田村は何んとふれ廻って歩くことだろうと、云いたいことも、一途に彼は抑え慎しむことに努力した。
「絵は見たか?」とまた田村は、何よりそこを自分は一番希んでいるのだと云いたげな様子で訊ねた。
「見た。」と一こと云うと矢代は黙った。
「どうだった絵は?」
「意外に下手な絵の多いのにびっくりしたね。」
「そうだろうな。」
 田村は、お前のことならと云う意味も含めて、もし自分ならと、云いたいところも、歯痒ゆそうに微笑にまぎらせて、その口に猪口をあてた。矢代はこれから会うものごとに、みな誰も田村のように同情を自分に示すさまがありありと感じられ、自分にとって一番難しいのは、何んといっても日本の内部のこの外国語を習っている神官たちだと、直覚するのだった。そして、それも所詮は他人のことではなく、自分自身のことだった。ああ、自分のことだ、みんな。――これは難しい、実に云いがたく難しい、実生活の犇めきよせた世界の中へいよいよ自分も帰って来たものだと思った。
 窓から外に眼を向けると、泡を集めたようにどろりとしたメタン瓦斯《ガス》の漂う運河をへだて、互に肩を凭り合せて傾いた木造の危険な家並のところどころに、灯火を透した蚊帳の青さが、夏の名残りを見せていた。矢代はふと、大理石に囲まれたベニスの運河を思い出し、セーヌ河の重厚な欄壁の間を流れる水を思い泛べた。そして、暫くはあの河、この水と思うまにまに泛んで来る海港や、ロザンヌ、フロウレンスと連って来る、水上の灯火がしだいに幻のように閃きわたって来るに随い、も早や異国の匂いの脱けきれぬ自分の身の漂いを感じ、旅の愁いはこうしてこれから行く先ざきの自分に、深まり続いてゆくのみであろうか、もうこれは、自分からは取り去ることは出来ないのだろうか、と歎いた。
 その夜、矢代は帰りのタクシで千鶴子の家の方を是非廻ってみたくなった。店が日本橋にあり本宅が目黒と聞いていたから、目黒の方なら廻りもそんなに遠くはなかった。しかし、彼は車の中で、もう会うまいと決めていた千鶴子に、着いたこの夜、会わずにいられぬ自分が寂しかった。いつかは耐えきれぬものであるなら、明日か明後日を待つのも良いと思われるのに、この夜でなければ明日もないと思うのが寂しかった。そして、「追えども去らぬ夢幻し」と悩んだ古人の呟きが、彼の口から自然に出た。
 運転手に教えた番地も近よって来ると速力も鈍った。大きな樹木の立ち並んでいる屋敷街は、どの家も鈍い灯だけ残してみな門を閉めていた。幾曲りも同じような小路を折れて入る中に交番があった。運転手にそこで千鶴子の家の「宇佐見」の名を訊かせてみると、尋ねる家はもうよほど近づいていた。彼は曲り角で車を待たせて歩いた。幹の中ほどから二つに分れた椎の大木が、道路の中央にただ一本立ちはだかっていて、そこを折れると、両側に長くつづいた練塀に狭められ、あたりは一層暗くなった。どの家の塀の中からも大樹が覗いていて、樹の香が鼻を透して来た。矢代は闇の中を歩いているうちに、車を降りたときの胸騒ぎがしだいに無くなるのを感じた。千鶴子の家を見つけても今ごろから中へは入れぬ事情だったが、今はただ見て置けばそれで良いと思った。彼は云われたまま眼で追って行く左側の所に、趣味の良い太めの建仁寺垣を連ねた門が見えた。そこの門標にはまぎれもなく宇佐見の名がはっきり眼についた。彼は人通りの誰もない道路の中央の所に立って、光りを除け、暫く欅の一枚板の閉った門を見つめていた。葉の細かい椎と椿の大木が門の裏側に茂っていて、そこから玄関までよほどの距離の庭があるらしかった。潜戸の隙から中を覗くと、庭いちめんの白い砂が夜気を吸いあつめ、寝静った玄関をがっしりと守っていた。矢代は一見して、その単調な厳しさからカソリックの千鶴子のしつけが頷かれた。漂う和らぎは厳しさの結果から来ているらしい。整然とした規矩もあった。矢代はこれがあの自分の夢の生い育った家だったのかと思うと、まだ旅のうつろいやまぬ夢心地も、急に醒め冷えて来るのを覚えた。もし今ここへ千鶴子が顕われて来たなら、ともに異国に遊んだその姿も別人のように見えるにちがいないと思った。彼は夢の脱落してゆく下から顕われた正体に面と対った感じで、暫くはそこから動かず立っていたが、自分と千鶴子との間に立ちはだかりて二人を会わさぬものは、争われず、この欅の門扉に厳しく顕われ出ている家風だと思った。彼は待たせてあった車の方へ戻っていった。車の中でも彼は、マルセーユへ上陸した途端に、同船の男たちがいままでの千鶴子を眼中から振り落してしまったときの、一日の恐るべき変化を思い出した。あのヨーロッパへ上陸した途端に、まったく千鶴子の魅力の消え失せた日とは逆に、今は彼女に面会することさえ出来ぬこの変化は、これはいったい何んだろう。
 矢代は車のライトに照し出されては消えてゆく家家を見ながら、その一つ一つに具った家風の違いを思うと、千鶴子と結婚する無理から起って来る自分の方の両親の困難が想像された。それは絶えず千鶴子の家へ自分の両親の頭を下げさせることであった。
「洋行から帰ると、その晩はホテルで泊る方が良いというが――」
 と、こういう心配と小さな誇りを持っている父に、頭をいつも下げさせてゆく子供に自分がなることは、いわば、洋行したためばかりに起って来た悲劇であった。船で日本を離れ始めてからは、乗客たちの身分とか、財産とか、名誉とかいうものの一切は、人の頭から吹き飛んだ平等対等の旅人となっていられた。しかし、その習慣も、帰れば誰に命ぜられたものでもなく、忽ちこのような、かき消えた自然さで再びもとのわが身に還った落ちつきである。とはいえ、実はそれも自分の身分を考えず、頂きの高さで人と平等に眠っていた身が、眼を醒すと同時に、下まで墜落して行く狂めくような呆然たる静けさに、それは似たものだった。こんなことは矢代もみな想像していたことだったが、しかし、それがこれほど早く前の自分の姿を見る寂しさに変ろうとは。――
「君、日本へ帰れば、もう君と千鶴子さんとは会わないにちがいないよ。だから今のうちさ。」
 こんなに久慈が彼に奨めた日のことなども、矢代は思い出した。しかし、もしこれが自分の自然の姿であるなら、むしろ夢から早く醒めただけでも結構だと思った。たしかに、千鶴子と自分との交遊は事実あったことだったが、それも夢と等しいものだったと、思えば思い得られる自分の国の変化だった。またそれは同時に、自分自身の変化でもあるのだった。何がこのように変らしめたのか分らなかったが、パリにいたときの同じ思いを貫きつづけていても、水が氷になるように、いつの間にやら揺れ停って質の変っている自分であった。それは氷か水か、自分がどちらか分らなかったが。――


 渋谷からは路も暗かったが、ライトの中に泛き出される繁みや看板など、矢代には見覚えのものが多くなった。どれも暫く見ぬ間にひどく衰えた姿になっていた。それでも彼は窓ガラスに額をあてて、迎えてくれる風物を見逃すまいと努力した。繰り顕われては走り去るそれら一瞬の光景が、どれも鄙びた羞しさで、顔を匿して逃げ走る生き物のように見えた。溝を盛り起して道路の上まで這い繁っている夏草の一叢の所で、矢代は車を降りた。自宅の門がもうすぐそこだった。
 彼は門の引手をひき開ける手具合も、暫く不在のうち、度を忘れてつい大きな音を立てた。
 まだ母はひとり起きていた。彼は奥座敷で帰った挨拶を母にし直してから、初めて襖や天井を見廻した。廊下の方から幽かに肥料の漂って来るにおいがした。ふと彼は永く忘れていた子供のころのまま事を思い出した。柱の手擦れた汚れや、砂壁の爪の痕跡など、それぞれ自分の身を包んでいた殻のように感じられ、加わる疲れのまま見降ろしている畳目が、無きに等しい軽やかなもの思いに似て見えた。彼は母の出してくれた茶をただ今はがぶがぶ飲むばかりだった。
「へんなものだなア。お茶がうまいというのは。もう一ぱいくれませんか。」
 矢代は母に、こう云いながらも、そんなことを云
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