かった。指を繰ってみてもおよそ千鶴子の船は十日も前に横浜へ着いているころだった。


「なかなか眠れませんね。」
 矢代は上の寝台から、直角に延びた下の寝台に寝ている南の顔を覗いて云ってみた。
「もう、眠る暇もありませんよ。すぐ国境でしょう。」
 南は深い底に沈んだままにこにこして答えた。
 間もなく日本の空気に触れるのだと思うと、矢代は胸騒ぎがして来た。いつも停ってばかりいて、毎日同じ所から動いたことのないように思われていた平原の汽車だったが、やはり相当に早い速力で走っていたのだと、ようやく今ごろになって分って来たような気持ちだった。空腹に濃い茶を飲み過ぎたような早い動悸を感じ、ときどき矢代は起き上ってみた。が、やはりどう仕様もなくまた仰向きに倒れた。
 国境を越して日本へ入れば、自分は誠実無二な日本人になろうと矢代は突拍子もなくそう思った。そうなるにはどんなことをすれば良いかと、また一寸彼は考えてみたが、それも忽ち問題ではなくなり、無性に早く国境の向うへ辷り込みたくなった。久慈や東野や塩野の顔がしきりに泛んでは消えた。皆それぞれ矢代と前後して帰って来る筈になっている者たちばかりの顔だったが何ぜともなく今はこういう知人たちとも顔を合したい気が起らなかった。
「いよいよと思うと、一寸妙な気がしますね。」
 と矢代は間をおいて南に云った。
「今度の国境は一番うるさいですよ。ここさえ越せば、後は一時間で満洲里だから、もう大丈夫だが。」
 今までも幾つとなく国境を通り越して来ていた矢代だったが、この度びの国境だけは、特に厳重に眼匿しされた馬に自分が似て見え、疲れて忘れている違犯の部分がないかと彼は考えてみた。一つ間違いがあれば、ここではどこへ連れて行かれるか分らぬという噂さを聞いていただけに、薄暗い部屋の外の闇が絶えず無数の監督の眼に見えた。それも身動き出来ぬほどの重圧感で、何か死をひきつれてさ迷っているような静かな不気味さが、ドアの外から滲み込んで来る。矢代はこれでもし自分が思想的にソビエットと何かの交渉を持つものだったら、あるいはこの反対の感じを受けるのかもしれないと思った。矢代は霊柩車に横わっているような思いで身体を車に任せていたが、いやが応でも迫って来る自分の国と接した国境ほど、自分を偽れぬものはないと思った。それはちょうどプリズムの面に射した光線が屈折して通らねばならぬように、人の心も自分の光の光源がどこにあるのかここで初めてよく分るのだった。矢代は自分も幾度も折れてみて来た光線に似ているなと、寝ながらも思った。そして、その光源の方へ今や戻って行こうとしている自分だと強く感じた。
 こんな感じが強かったためか、また彼は自然に、別れるときに祈りを上げたカソリックの千鶴子の姿も思い出した。この千鶴子の姿は、今までに幾度となく彼の思いの中に泛んで来た姿だったが、今の千鶴子の祈る姿は、不思議と喰い違う歯車のきしみを感じて矢代は困るのだった。
「ここで思ったり為たりしたことは、あたし一番変らないと思うの。本当にそう思うわ。」
 ふと何気なくそのとき云った千鶴子の言葉だったが、どこかに矢代の希う光源とは異う光りに満たされたその声が気になった。前にはそれもあまり異とせずにすませられたものまでが、この国境にさしかかり急に心に閊《つか》えて来たのが、ますます膨張して来そうな気配も伴って矢代は困った。
「それは、君はカソリックだからでしょう。そこが僕と違うのだなア。」
 矢代はそのときも千鶴子にそう云ったのを思い出し、今も同じように云って笑いに紛らそうとしてみたが、どこかに笑いでは応じきれぬ激しいものもぞくぞく盛り上って来そうな不安が強まると、我知らず舞い立てて来た濛々とした疑いの煙りの中で、思わず両手を振って押し鎮めたくなり、心を国境の一点に向けようと努めてみるのだった。しかし、身体だけ無事に国境を通過させるだけでは足らず、精神もともに通り抜けようとする気持ちもおさまり難く動いてやまなかった。
 いや、難しいものが来た。それも毎日来ていたものばかりなんだが――と矢代は思い、困ったときに思い泛べる伊勢の大鳥居の姿を、またこのときも自然に眼に泛べた。
「この汽車、十時間ほど遅れているから、今ごろは満洲里じゃ、待ちぼけくって弱ってますよ。」
 と南はフィルムの受取人のことを思い出したものかそう云って笑った。
「国際列車の継ぎ目は、大幅に動くもんだなあ。十時間か――」
「同じ日がこのあたりで二日もあるんだから、矢代さん、ここらあたりで、日を按配しとかれないと、満洲里で電報打ちぞこないますよ。」
 南から注意をうけて初めて矢代は日のことを考えた。いつも日を忘れる癖のある彼には、同じ日が二度も重なっていることなど考えもしなかったが、それにしても実に暢気そうに見える無造作な南が、必要なことだけ忘れずに覚えているのも、日本人らしいと思って感心した。
 やはり日本人はこれで良いのかもしれない。云うことがもぞもぞとして下手だったが、南がいると、車中の外人らも無事に皆おさまって来たと矢代は思った。それも特別に人の注意を牽くわけでもなく、また合理的なところもなければ鮮かな身振りもなかった。
 背が小さく出っ歯で、小肥りなうえに開けッ放した唇が厚くいつも唾で濡れていた。そのくせ父親らしい均衡があって、温和な円い眼だけが笑いを湛えているので人の集りに生ずる隙間を、誰よりも一番確実に南が満たして列車とともに流れていた。
 矢代は寝ながらも、下にいつも一緒にいた南の和らかな平凡さが、急にこのときから面白くなって来た。国境なども南のようだと取り立てて厳しくも見えず、人もまたそのまま通過を許してしまうのだろう。
 間もなく、いつ止るともなく列車が止った。あたりに駅などあろうとも思えぬほど静な闇の中だった。矢代も南もまだ寝台から降りずにいると、ボーイが来てドアを叩き、国境へ着いたから荷物を持って降りよと云った。矢代は今までの空想が全部差し迫った事実の厳しさの前で崩れるのを感じた。身支度を整え廊下へ出て行くと、隣室の外人たちもみな眠そうな顔で荷物を下げ一人ずつ車から外へ降りた。木造の低い屋根が一軒だけレールの横の窪みの中に建っていた。その屋根を踏むように見降ろしながら坂を降りて行くのに、皆の口から吐く息がもう白く眼立った。
 よく食堂で矢代と向き合った同車の静かなソビエットの士官たちは、いよいよ配備先へ着いた緊張した表情で、腰のピストルの位置をなおし、駅から闇の中へ消えていった。みなそれぞれ勤めの目的がここではすべて、日本を相手として守備につくためになされているのかと思うと、矢代は、いつも食堂で謹直だった士官の様子が、またあらためて思い出された。
 乗客らは待合室へ降りてから、手擦れて木目だけ浮き上った粗末なテーブルに荷物を乗せ、一列に並ばせられた。人のあまりいない待合室からは、外の闇ばかりが見えるだけで、鈍い電灯の周囲に薄霧がむれていた。荷物の検査はどうしたものか容易に始まりそうもなかった。合服の襟を立てたくなるほどの冷たさにときどき矢代は胴を震わせた。油の黒く滲んだ床下に麻縄が解け紊れていて、一見工場の事務室のような待合室は、ソビエットに似合わしい素朴なものだった。
 深夜のこととてどこかで眠っていたらしい検査官が、白く息を吐きながら遅れて顕れるといよいよ荷物の審査が始まった。まだ中学を出たばかりに見える若い検査官二人だったが、どちらも実直そうな好人物の相ながらも、威厳を保とうとする沈黙に努める風情が、並んでいる大人たち乗客の世ずれた表情の中で、初初しく緊って見えた。通過の荷物には白墨で強く十字のマークが打たれた。入ソのときそこの国境で、持ち込み禁止の荷物を提出し封印をされたが、旅客が途中でそれを開封し使用した形跡の有無を検べるのに手間取った。すると、南の荷物の中から封のない裸身の双眼鏡が一つ飛び出して来た。
「これは?」
 検査官の調べがそこで停頓してしまった。取り上げられた双眼鏡のレンズが二つ無気味な光りであたりを見ていた。これは双眼鏡を奪われるだけではなく南が連れ出されて行く代物だった。誰も異様な緊張で黙っている中で、南はまったく予期しなかった狼狽の色に変った。そして即座に出て来ない英語で、
「いや、これはつい忘れまして、荷物の底に入れていたものですから、――ベルリンでお土産に買ったものです。」
 と詰り詰り弁解した。誰が見ても一番疑われる器具の双眼鏡に封印し忘れた手落ちなど、手落ちとしてはあまり乱暴すぎたものだった。しかし、結局は、誰でも気がつきそうなものまで忘れた南のその頓馬《とんま》な失策が、却って逆に検査官の疑いを解いたらしかった。検査官は顔を和らげると双眼鏡まで南に返してあっけなく荷物を通してしまった。
「サンキュウ、サンキュウ。」
 相好を崩して乱された荷物をあたふたスーツに詰め込んでいる南の傍で、次ぎが矢代の番になった。彼のは異状もなくすぐ通った。その次ぎはナチスの外交官で、このときは荷物が通ったが所持金を内ポケットから見せるとき、旅券に記入のない日本の百円紙幣を二枚一緒に出して見せた。
「これは預っときます。」
 検査官は簡単に紙幣を取り上げた。これにはドイツ人も意外だったらしく、暫くぼんやりしていてから周章《あわ》てて、
「それは僕が東京へ着いてから、すぐ入用のお金です。返して下さい。」と手を差し出して云った。
「しかし、記入してありませんよ。記入のないお金はお渡し出来ない規則です。」
 検査官はもうドイツ人の顔を見ようともせず、次ぎの荷物の審査にさっさとかかりかけた。
「それは日本金ですから記入の必要がないと思って、大切に大切に仕舞っといたものです。どうぞ返して下さい。どうぞ、どうぞ。」
 外交官は手をだんだん紙幣の方へ延ばし優しい声で歎願した。
「駄目です。」
「どうぞ、どうぞ。」とドイツ人はまた繰り返して迫った。
「東京滞在は幾日間ですか。」と検査官が訊ねた。
「二週間です。」
「じゃ、帰りにここを通られるとき、お返ししましよう。」
 外交官の歎願の様子が次第に嶮しい表情に変って黙ってしまった。すると、突然胸をぐっと反らしたと思うと、固めた拳で卓をどんと叩いた。
「じゃ、もう要らない。覚えているが良い。このお礼は必ずして見せる。」
 ねばりのある高い声で畳み込むように云い捨てているドイツ人の言葉を、若い検査官はもう相手にしていない様子だった。ソビエットとドイツの国交の険悪になっているときである。規則を守った検査官は正しかったとはいえ、見せずに済ませば済んだ金を正直に示して奪われたドイツ人の怒りもまた正しかった。時と場合の心情の酌量不足が及ぼした争いは、もうこのときから、個人のことではなくなっていくにちがいなかった。
 検閲を済ませたものから順次に、荷物を下げて列車の中へ入っていくので、矢代は南と一緒に自分の部屋へ戻っていった。
「やれやれ、ひどい目にあった。まさか双眼鏡が、あんな所から飛び出そうとは思わなかった。うっかりしてた。」
 南はもう一度荷物を開けて中から双眼鏡を取り出すと、こ奴かびっくりさせたのは、と云いたげなにたりとした表情で弄《いじ》ってみていた。
「しかし、よくまア赦しましたね。あなたの顔が物を云ったのですよ。あのときはね。」矢代は一寸からかってみたくなってこう云いながらも、彼の双眼鏡を覗いてみた。あのときは、一種兇悪な光りを放ってあたりを睥め廻していたレンズも、今はもうただの双眼鏡だった。
「さア、これで後一時間か。」
 南はまた上衣を脱いで寝台に横になった。矢代は疲労のためひどく空転している頭を感じた。彼は上の寝台へ上らず下で煙草を喫っていたが、もうこれで何んの心配もなくなったのだと思うと腰が容易に動かなかった。それぞれ外人たちが各部屋へ戻って来たころ荷降ろしもみな済んだと見え列車はまた動き始めた。リズムに乗った弾むような快感が一層強まるのを矢代は覚えた。しかし、後一時間で満洲里へ着くとしてもその間はどこの国
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