のものでもない所だった。一時間といえば五里ほどの間であるが、名もつけようのない奇妙なその五里の幅の地上は、これまでまだ一度も考えてみたこともない場所だった。それもそこを遠慮なく走り脱けることの出来る列車というものも、国際列車なればこそだった。いったい、どこの国のものでもない国際列車という抽象性を具えた列車が、どこの国でもない場所を走るという世にも稀な真空のような状態は、恐らく地球上ではこの五里の間以外にはないかもしれない、それは暗示と啓示に満ちた闇の中の一時間の筈だった。
「これは、何んとなくキリストに似ているな。」
 とまた矢代はぼんやりと考えた。マルセーユへ上陸して山上の寺院の庭へ足を踏み入れた途端、口から血を吐き流して横わっていたキリストの彫像に、ひどく驚いたときのことを矢代は思い出したりした。人はみな自分の国を持っているのに、国と国との接する運動の差の中で、生活を続けている人種のあることも考えられた。それは日本を除いた他の国のどこにも網の目のように張りめぐっていて、吐瀉、腹痛の起るのを思うと、つまりは、この国境の間の五里の空間も、それに似た未来の渦の巻き立つ場所かとも思われた。
「そうだ、もうこんな暢気なことはしていられないぞ。」
 と南は云って起き上って来た。そして、ネクタイを締め直し上衣を着て、荷物の中へ洗面の道具を詰め込んだ。車中の不便を思いベルリンから持ち込んだ角砂糖の残りも、ボーイに皆ここで遣ろうと相談して、二人は量の多少に拘泥せず一つに纏めてからボーイを呼んだ。ついぞ笑顔一つも見せず警戒ばかりに終ったボーイも、このときだけはにこりとしてすぐ上衣の下へ砂糖を隠し、聞き取れぬほど小さな声で、「サンキュウ。」と一言いうと、恐れに追われたように急いでまた姿を消した。一番角砂糖を喜ぶと聞いていたのでお礼を砂糖にしたのだったが、別れの際の笑顔はやはりどこでも気持ち良かった。
 隣室では外人たちも落ちつかぬらしく廊下へ出て来て立噺をし始めた。矢代は列車が次第に膨れてゆくように見え、身体が凄い渦の中に吸い込まれて流れるような眩暈《めま》いを感じた。絶えず潮騒に似た音が遠くから聞えて来ているくせにあたりが実に静かだった。
 しかし、何んといおうと、間もなく着くのだ。――矢代は嬉しくて堪らなかった。日本の方を向き後頭部を後の板に摺りつける風に反って腰かけながら、注意に注意を重ねて落ちついてみたが微笑が喰み出て来て停らなかった。
「日本は良い国ですよ。実に良い国ですよ。」
 こんな風に触れ込みつつ今自分が馳け込んでいるときだと彼は思った。しかし何んといおうともうすぐ着くのだった。手がさきに向うへ飛んで行き、足が飛び、頭が飛び出して、残っているのはただ胸だけのような気持ちがした。何か日の目を見に世の中へ生れて出て行くときが、丁度こんなものかもしれないと矢代は思った。胸の中でごうごうと水の流れる音がしていて、南が何んとか云っているようだったがよく彼には分らなかった。どこからともなく押しよせて来始めた熱気のほとぼりに似たものが、面にあたって来るようだった。それは何んとも云い様のない気忙しさだったが、急に息苦しい空気が狭い廊下から部屋に入って来たかと思うと、沢山な日本人が並んでどやどや廊下を歩いて来た。いつの間にか列車が満洲里に着いて停っていたのである。
 矢代は腰が上らなかった。混雑して曇って見える廊下の方を向いたまま暫く彼は動かずにきょとんとしていた。すると、彼の名を高く呼びながら各部屋を覗いて来るらしい声が聞えた。
「矢代耕一郎さんいませんかア――矢代耕一郎さアん――」
 その声はだんだん矢代の方へ近よって来ると、円顔の眼の脹れぼったい頑強そうな青年が、部屋の入口から矢代を覗き込んでまた呼んだ。
「僕です。」と矢代は答えた。
「あなたですか矢代さん、フィルムありますか。」
 といきなりその青年はむっつりした顔で畳み込むように訊ねた。生れたばかりのような期待に胸がまだどきどきしていたときだったので、矢代はこの青年の失礼な云い方に拍子抜けがして、
「持ってますよ。」と一言答えた。
「じゃ、それ貰おうじゃないか。」
 と早速青年は不躾けに云って手を出した。
 これが最初に会った日本人だったのか、とふとそう思うと、矢代は張り詰めていた喜びも急に堪え難い悲しさに変った。
「僕のフィルムは大切な預り物だから、君には渡せないね。誰です君は?」
 矢代はもうこの男には絶対フィルムは渡さないと思った。彼はもう車から降りるのもいやになり腰を上げなかった。すると、その青年の肩を掻き除けるようにして、痩せた眼の大きい美しい別の青年が後から顕れ、矢代に鄭重にお辞儀をした。
「私はハイラルのT社のものですが、この人は今日一寸手伝いに頼んだ人です。遠い所をたいへん御苦労でございました。今日は大雨が降りましたものですから、ハイラルの飛行機が出ませんので、この人を頼んだのです。どうぞフィルムを下さいませんでしょうか。」
 なるほど、この青年でこそ自分の念い描いていた日本人だと矢代は思った。彼はまた急に嬉しくなって来た。
「そうですか、雨ですかこれで、僕はまだ汽車が動いているような気持ちなものだから、――じゃ、これをどうぞ。」
 矢代は横に用意してあったフィルムの円鑵を青年に手渡した。誰もそれぞれ何をしているのか分らない泡立たしいときだったので、南はと思って見ると、彼もA社の人に引き立てられ廊下の方へ出て行くところだった。
 矢代は荷物を下げ、フィルムを持った青年に守られてプラットへ降りて行きながらも、前の円顔の青年の顔が見えると少し気の毒な気がして来た。待合室でも荷物の検査があったから、審査の始まるまで待っていなければならなかった。大連行の次ぎの汽車の出るまでまだ八時間も間があるとのことだった。ソビエット側の国境の駅とは違い、こちらの待合室は天井も高く、コンクリートの巌丈さで近代的な感じだったが、大きな包みを抱えて眠っている中国人の群衆の間から蠅が群り立ち、電灯の周囲を飛んでいるのが、先ずひと目で受けたヨーロッパとは違った間延びのした東洋の表情だった。矢代は検査の始まるまで広い待合室を眺めて立っていた。一緒の汽車で来た外人たちは睡眠の不足で元気のない顔つきだった。それにしてもこの汚い包みを抱え蠅の中でい眠っている群衆が地球の大半を埋めているのだと思うと、それを見て来た矢代は、今さら世界の上に蠅につき纏われた宿命の人種の多いのに驚いた。それは東洋のほとんど皆の国がそうだった。
 この皆の国から蠅を追い払う努力だけでも、人人のこれからの役目は大変な力が要ると矢代は思った。
「私は警察の者ですが、今夜はこれからどうされます。」
 と、私服の眼鏡をかけた背の高い日本人が、矢代に今井と書いた名刺を出して訊ねた。矢代は別にどこへ行く考えもなく汽車を待つだけと答えた。
「じゃ、まだ八時間もありますよ。何んなら宿屋をお世話しますから、そこで休んで行かれたらどうです。まだこれからならひと眠り出来ますよ。」
 矢代はこの特高課の今井の職責上の目的のことなど今は考えてはいられなかった。それよりも、話しかけてくれる日本人を見るとただ誰でも懐しくなり、職業の差別など全然消えて人間だけが直接話しよる魅力を強く感じた。
「じゃ、宿屋お世話して下さい。一時間でも眠られれば有りがたいな。」
「そうなさいよ。ここは良い宿屋はありませんが、まア休むだけなら沢山ありますから。」
 二人がこんな話をしているうちに荷物の検閲が始まった。ここでは所持金を検べなかったが、荷物の中味の検査はソビエット側よりも厳格で時間がかかった。南は矢代からずっと離れたところでA社の人たちに取り包まれ旅中の事など話していた。矢代の傍には特高課の今井がただ一人附き添っていてくれるだけだった。
 検査を済ませて外へ出たときはもう夜が明けていた。矢代は朝の日光に眼を細めて、レールを跨いだ。初めて見る日の光りのように爽快だった。彼は呼吸を大きくしながらあたりを眺めて歩いた。樹木の一本もない平原の胸の起伏が波頭のように続いていて、その高まった酒色の襞のどこからも日が射し昇っているように明るかった。短い草の背がハレーションを起しているらしい。一望遮るもののない平原のその明るさに囲まれた中で、街がまだ戸を閉めて眠っていた。刑事の今井は矢代の荷物を持ってやろうといって聞かず、「よろしよ、よろしよ。」と云って重い方を奪うように携げると、ステッキを地に引き摺って、人のいない通りを先に立った。
「実に美しい所だなア。」
 と矢代はときどき立ち停り周囲の平原の波を見ながら呟いた。先に歩いていた今井はその度びに矢代の傍まで戻って来て、賞められたことが嬉しいらしく彼も一緒に並んで平原を眺めた。乳房の高まりの連ったような地の起伏が、空に羞らう表情を失わず、嬉嬉として戯れ翻っている賑やかな嬌態で、見れば見るほど平原の美しさが増して来た。
「いつも見てると分りませんが、万ざら捨てたもんでもないでしょう。」と今井は謙遜に云ってまた先に立った。
「いや、たしかに美しい所ですよ。一寸類がありませんね。」
 矢代は疲れも忘れ宿舎へ行くのも惜しまれたほどだった。それも周囲のどちらを見ても美しさは変らなかった。人工の極致とも見える繊細な柔かさで、無限の末にまで届いて祈りのような悲しみが地の一面の表情だったが、それは見ていると、また奔放自由な歓びの線にも見え、清らかな希いに満ちた明け渡っていく世界の明るさにも変って来た。矢代は国境の方の蒼く幽かに薄靄の立っているあたりを指差して、
「あのあたりがつまり、国境ですね。」と訊ねた。
「まア、国境というのですがね。どこからどこが国境だか誰にも分りませんよ。それにどういうものですか、ここでは自殺をするものが多いのですが、不思議ですね。」
 永らくここで暮していても、それだけが分らぬという風に今井は声を落して歎じた。なるほど無理もない、ここなら死にたくなる美しさだと矢代は頷きながら宿舎のホテルへ案内されて入っていった。玄関へ顕れた女中が矢代の前にスリッパを揃えて出した。別に取り立てていうほどの婦人ではなかったが、これも矢代には初めて見る和服の日本の婦人だった。外人には見あたらぬ、特殊な皮膚の細やかな美しさが襟もとから延びているのを見て、思わず矢代はどきりとした。


 南と矢代の別れたのはハルビンの駅だった。彼は一路大連まで来てそこから飛行機で福岡まで飛ぶつもりだったのに、平壌まで来ると先きは雨がひどく不時着したので、途中から汽車に替えて海峡を渡った。彼は昼間の内地を見たいと思っていたが、下関へ上ったのは夜の一時ごろになった。東京行の出るまでには、まだ一時間半もあったので、彼は山陽ホテルで休息している間に東京の自宅へ電報を打った。そのついでに千鶴子へも打とうかと暫く茶を飲みながら考えたが、やはりそれだけは思い止まった。関門海峡の両側の灯が、あたりに人の満ち溢れている凄じさで海に迫っていた。眼にする物象が絶えず跳ね動いているような活気に矢代は人からも押され気味になり、受け答えにも窮する遅鈍なものが、いつの間にか自分になっているのを感じた。それはひどく時代の遅れた自分であり、早急の間に合いかねるその自分から錆が沁み出ているようだったが、しかし、ともかくも日本へ無事帰りついている自分であることだけはたしかだった。今はもうそのことだけで彼は嬉しく、後はどのような目に逢おうとも忍耐出来ると思い、彼は胸の中に笑いの綻ろんでいくようなゆったりとした気持ちで周囲を見廻した。人人の多くは洋服を着ていたが、どれも皆洋服のようには見えなかった。男たちは皆眼光が鋭く不意に殺到して来そうな気配の中を、婦人たちが何んの恐れげもなく歩いているのが、不思議と優雅ななまめいた魚の泳ぐ姿に見え楽しそうだった。
 上りの汽車に乗ってからも、彼は満員の食堂車へ入って見た。ナイフとフォークを使う人人の手の早さが刀を使っているようで、狭い車内の傾いて飛ぶぐらぐら
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