能力を顕すものと一般に思われがちであったから、客も新聞社から頼まれればその熱意に動かされ、自然に二社の激しい競争の中に巻き込まれざるを得なかった。こうしていつの間にか、矢代も南も同車の敵という運命に置かれてしまっている二人だった。
「しかし、わたしはたしかにT社から頼まれたんですよ。手紙まで貰ったんですから、わたしがT社の筈ですがね。」
と南はまた怪訝そうに小首をかしげて考え込んだ。
「じゃ、あなたを日本人一人だと見て持ち込んだんでしょう。」
「そうかもしれませんな。まア、どっちでもいいや。持って帰ってやりましょう。」
無造作に南は云ってから、急に矢代の方へ首を突き出し小声になった。
「どうです。あなたのそのフィルムと、わたしのとこっそり取り替えっこしときましょうや。え? 面白いですぜ。そしたら。」
人柄に似合わずふざけ方がひどいので、矢代は黙って彼の顔を見上げていると、また南は首を突き出し、
「ね、替えときましょう。その方が面白いじゃありませんか。」
冗談にしては意外に乗り気な表情である。
「まさかそうも出来んでしょう。」
「どうしてです?」
同意を示さぬ矢代に疑問を感じたと見え、一瞬南は真顔になった。
「どうしてって、別にわけはありませんがね。」
無駄な骨折りをさせるだけの後のごたごたが分りそうなものだ、と矢代は思って笑っただけだったが、よほどこの人も頼まれた方のフィルムを持ちたいらしく、あくまで自分がT社の使いをしているものだと信じている様子が、車中ずっと続いていた。
ポーランドからソビエットへ入るまでの二人は、部屋も別別だったからまだそれほど親しさもなかった。しかし、ソビエットの国境で乗り換えいよいよシベリヤ行の列車になってからは、二人は同室になったので、寝るのも起きるのも、食事も、それから雑談まで絶えず同じようにしなければならなかった。
モスコーで四時間ほど停車の時間があったそのときも、街見物に迎いに来てくれたT社の案内の車に、南は遠慮なく乗り込み、当然のことだと思う風に悪びれず街を廻っていた。矢代も迎いのT社の特派員には南を強いて紹介せず、自分同様その社のフィルムを預った一人として、行動をともにした。またこの特派員の夫人は親切な人で、感冒で寝ていたのを起きて来て二人のために、特に車中で食べる寿司まで作ってくれたりした。
旅先きで受けた親切さは旅人は忘れがたいものだが、南にしても、これほどにされては、自分の持ち運んでいるフィルムの性質を知られたくはないらしかった。事実自分の意図とは反対なものを運んでいる南の心中を察すると、矢代も困っている彼の様子に同情せざるを得なかった。そうかと云って、捨子のようになっているA社のフィルムを見ては、それもまた気にかかり、引取人の現れるまでは育てたいらしくときどき退屈になると南は、円い鑵からフィルムを取り出して窓の方に透かして見ながら、
「うむ、なかなか面白い。これや、あなた、見てごらんなさい。なかなか面白いものですよ。」
と云っては矢代にも一緒に見ることをすすめた。
「オリンピックは僕も見ましたからね。競争はどうも――そのフィルムだって、満洲里まで着けば、後はそこからT社のとまた競争するんだから、もう何んでも競争だ。」
矢代はこの競争ということが何事によらず嫌いな性質だった。T社から依頼を受けたマラソンのフィルムにしても、A社との競争だと思うと愉快ではなかったが、シベリヤの間だけは無競争も同様なので、する必要のない今の期間だけでも、せめてその競り合いから脱け出していたかった。矢代のこの競争嫌いは、千鶴子を挟んで久慈との間で起りかけたパリでのある一事件の期間も、自分から身を引いたほどだった。また彼が外国で競争らしいものをしたのは、久慈と二人で千鶴子の周囲を廻った記憶以外には一度もなかった。
とにかく、矢代はこのシベリヤの十日の間だけは、忘れられる限りもう何事も忘れていたかった。このようなとき、ふと朝になって眼を醒し、棚の上にある競争用のフィルムが眼につくと、突然その一角から現実の呼吸が強く顔を吹きつけて来て、急いで彼は視線を反らせた。実際矢代は、今は千鶴子のことも忘れようと努めていた。それはただ単に千鶴子のことだけではなく、見て来たヨーロッパのことも、出来れば頭の中から尽く消したかった。それはどういうわけか彼自身にもよく分らなかったが、考えて見ると、それは日本があまり小さい島に見え始めて来たことが原因のようだった。日本のことを思う度びにそんなに小さく見えて来ると、矢代は、誰からも聞かれぬように胸の奥でそっと「祖国」とこう小声でひとり呟いてみた。すると、胴のあたりから慄えるような興奮がかすかに背を走った。
しかし、また彼は、日本へ帰ってから人々の前で、
「祖国」
とこういう名前でうっかり日本を大きく呼んだりすれば、忽ち人人から馬鹿者扱いにされ、攻撃を受ける習慣のあるのもすぐ感じた。それも人人だけではなく、前には自分もそのような一人だったような気持ちもした。しかし、いったい何時の間に、誰がこんなにさせてしまったものだろう。矢代は窓から見えるソビエットの平原に向い、ひとりこういうときには胸の中で呟いた。「ね君、君はそれをよく知ってるだろう。誰が一番こんなにさせたかっていうことを。僕は今にどこの国の人間も、僕が君に云うように、誰も彼も云い出すときが必ずあると思っているよ。俺の国の美風をどうしてくれたとね。云わずにはおれないじゃないか。」
ここはポーランドの国境からずっと写真を撮ることも、旅客は禁じられていた。夜など窓に降ろされたブラインドを上げて外を見ることも許されず、日本人のいる矢代たちの部屋の前には、特にボーイが監視役についていて、中の様子に一晩中聞き耳を立てていた。しかし、こんなことも、矢代らはもううるさいこととは感じられなくなっていた。ただ一日も早く日本の匂いが嗅ぎたいばかりが望みとなり、それも眼のあたりに迫っているのだと思うと、どんな退屈さや窮屈さも忍耐出来るのであった。それに引きかえて外人たちは、日本が近づくに随って、表情も淋しげで日に日に力のなくなるのがよく分った。船で往くときには、マルセーユへ近づくにつれ勢いを増して来た外人たちの群れだったが、今はそれが反対に衰えの加わる彼らを見ては、矢代は、地中海へ入り始めたころの日本人らが、丁度そんなに凋み衰えていった当時の有りさまを思い出したりした。
南はナチスの外交官がいつも手放さずに、食堂へ行くにも携げて歩いている二尺大の皮製の薄い鞄を見て、
「何んですか、それは?」と訊ねたことがあった。
「これは日本にとっては、大切な大切なものです。」
とその外交官の一人の方が笑って答えた。国と国とを繋いで動かそうという一本の希望に似た綱が、どちらへどんなに引き合うのか分らなかったが、ただこのような鞄の中に入っただけで簡単に往来をしているのを見ると、矢代は一寸奇異な感じがした。どこの国も、この鞄の中の希いを見たくて溜らぬという時であるだけに、狭い廊下で鞄がズボンに擦れて通るときは、矢代も思わず緊張した。隣室では夜も二人の外交官らは、一人が眠ると他の一人が起きていて、交代に鞄の番をしている苦心の様子を見ていても、その中の秘密の重さが思い知られた。それもソビエットを挟みドイツと日本とを繋ぐ縄である以上、この一台の客車の進行していることは、ソビエットにとって、身のひき緊る愁いでもあったろう。しかし、何ごとも希望を満たそうとして動いていることに人間は変りはないと彼は思った。よしたといそれが幻影に終ろうとも。――
こんなに矢代の思ったのも、一つは彼にもまた希望や幻影が入り交って襲って来ていたからだった。それは日本へ帰ってからするべきさまざまなこと、勉強や、計画の実行などと、考えれば、彼のしたいと思うことがきりなく湧いて来てやまなかった。しかし、そのうちでも千鶴子と結婚するということだけは、これ一つ彼には不安だった。こんな不安は千鶴子とパリにいるときでも附き纏って放れなかったことだったが、今もなおそれは一日一日と深くなるばかりだった。
「日本へ帰ってから変るのは、やはりあなたの方だわ。あたし、あなたが変ってもあたしは変らないと思う。きっとあなたの方が変ると思うわ。」
別れるときにそう云った千鶴子の言葉を、矢代はその後もよくそのまま呟いてみたりした。しかし、あの別れる際にあれほど切実な響きを含んでいた声も、何んとなく今は空虚な流れを伴って感じられた。それは誰でも迂濶に一度は云い、誓いに副う感傷をひき立てる表情になるとはいえ、云ったがために歓びよりも、苦しみを生むことの方が多くなる性質の詩情であった。そうかといって、矢代は千鶴子を今も信じないわけではない。またアメリカから廻って来た千鶴子の手紙も、別れの際の表情を裏切っているものでもなかった。ノルマンデイの船室から持って上ったらしい海老色の二疋の獅子が絡み合っている模様のレタアペイパには、ニューヨークの埠頭の壮観さや、船の中で知人になった人人のことや、閑にまかせた旅の観察などと、明るい筆つきで書いてあったが、特に矢代の気持を沈ませるようなことは何もなかった。むしろ、文面に顕れた明るさが却って浮き足立ったものに見え、慾を云えば、いま少しの愁いもあって欲しいと思われたほどである。しかし、こんなに思うのも、やはり矢代は、彼女の家の両親が自分と千鶴子の結婚に反対するのが十中の八九、眼に見えて明らかなことだったからだ。異国の旅の空で物を思う娘心の浮き上った言葉尻を掴まえて、帰ってから、それを誓いの言葉として迫る拷問攻めのような再会が、矢代には出来がたいことであった。考えようによれば、それはもう愛情の問題ではなく、脅迫にも見れば見られる、薄情さに変ってしまう再会にも近かった。
「外国にいちゃ、とにかく、云うことすることに間違いが多いですからね。」
と矢代はあのときも千鶴子をたしなめて云ったことがある。
「みんなこちらのことは間違いだなんて、そんなこと――あなたがいつもそんなこと思ってらしったのが、何んだかしら、いやアな気持ちよ。毎日あんなに楽しかったのに――」
千鶴子は彼に答えてから急に沈んだのもまた矢代は思い出したりした。そのときの沈んだ千鶴子は、帰ってからいよいよ自分と会うというときにも、一度は、あのときのような伏眼な瞼の影を湛えて考えるにちがいない。それも傍からしっかりした眼で彼女の母が見て、自分よりはるかに良い結婚の相手が沢山千鶴子に追っている場合に、一度ならず娘に忠告を与える言葉も、今から矢代に考えられないことではなかった。しかし、いずれにせよ、こっちにいるときの二人の気持ちという幻影を変えないことが大切なら、どちらも帰って会うよりも、会わない方が互いのためだと思った。地位、身分、財産、血統、家風などという、日本の内部を形造っている厳然とした事実の中へ帰っていって、なおそのまま二人の幻影を忍ばせ支えつづけて行くためには、二人は今のうちにひらりと変り、互いにこのまま会わない方が変らぬことにもなっていく。――もしこのまま約束を重んじて勇みたち、再び会うなら、――もうそのときは異国ではない、眼が醒めた浦島太郎のように互いの姿を眺め、これがあのパリにいたときの二人だったのかと思うにちがいあるまい。――
このように思うことは矢代をいつも苦しめた。変ることが変らぬことで、そして変らぬことが変ることと思う準備――日本へ近づいて行くに随い、一度はこんな哲学めいた心の準備をしておくことも、この場合の矢代には事実必要なことだった。それが出来るか出来ないかは別としても今に憐み合うような日の来るのを待つのは不快だった。実際考えれば何ぜ憐み合うのか、この理不尽なことも残酷に襲って来るだろうと思うと、それが一層矢代には口惜しかった。こんな口惜しさが嵩じて来ると、ベルリンにいるときどきでも、その夜はもう彼は眠りがたかった。
しかし、何を云おうとも千鶴子はもう日本へ着いているにちがいな
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