に光りの浮いたのを見てまた坐ったが、彼が坐るとすぐ千鶴子はコップに葡萄酒を瀝いでちょっと黙った。
「明日沢山来て下さるんだから、もうお話も出来ないでしょう。ずっとブールジエまで、自動車で御一緒出来るといいんだけど、来て下さる方にお気の毒ですから、やはり飛行館までにしようと思いますのよ。」
 しかし、矢代はこれ以上いては、別れが苦しくなるばかりだった。誰も監視しているもののない部屋で、別れる最後の愛情のしるしを今か今かと待ち合うのは、今日はいつもと違って気忙しく苦しかった。
「僕もいろいろなことをお話したいんだが、外国にいちゃ、何んと云っていいか、とにかく云うことすることに間違いが多いですからね。しかし、帰ればきっと僕お会いします。僕は間違いはないつもりなんですが、どういうことであなたが困られるか分らないから、それでつい、これだけは慎しむ方が良いとそんなに思いましてね。」
 すると、突然、千鶴子は云いかねた顔色に変って来て黙った。矢代は自分の云ったことが云いたいこととは遠く、何か千鶴子の決心も間違いだと匂わせている全く別な言葉となり変っていそうに思われ、これは大変なことを云い出したものだと思わず言葉を嚥んだ。事実、どこの国にいようと、結婚する意志に変りのあろう筈がないと思っている千鶴子に、初めてうち明ける危険な真相であってみれば、それに気づけば千鶴子とて気づかない前より二の足を踏み考えるにちがいなかった。
「でも、あなたそんなこと、本当に思ってらっしゃるんですの。あたしが間違うだろうなんて?」
 伏目になって悲しげにそう云う千鶴子を見ながら、矢代はそれではまだ気づかれなかったかと、胸撫でおろすような気持ちになるのだった。しかし、何かすぐ真面目に答えなければならぬとすると、話は意外な傷口をますます切り開いてゆくばかりだった。
「間違いはないと云うのは、僕の方のことを云うのですがね。」
 こう云って矢代は笑いにまぎらせたついでに、投げかけた暗影を一挙に揉み消す曖昧な力をさらに引き出そうと努めながら、
「つまり、あなたの方が間違いを起し易いというのですよ。」
「何んだかあたしによく分らないわ。みんなこちらのことは間違いだなんて。そんなこと――。」
 低きに流れる水のようにだんだん千鶴子の疑いの深まって来るのを矢代は胸に打ち込まれる釘のように痛く感じた。まったくいつもそんなことを考えては千鶴子に近づいていた報いが、やはり一度はこんな風に来なければならぬのかもしれぬと、矢代も瞑目する思いで静まるばかりだった。
「明日の朝お別れだというのに、こんなになっちゃ困るなア。」
 と矢代は力なげに笑って云ったものの、これは実際に困りはてた疑いだと思い、これを前の白紙に完全に戻すことはもう不可能かもしれぬと思った。千鶴子はテーブルの上の一点から視線を放さず悄れたままだったが、
「あたしの帰るときに、どうしてまたそんなこと仰言ったのかしら。あたし、あなたがいつもそんなこと思ってらっしたのが、何んだかしらいやアな気持ちよ。毎日あんなに楽しかったのに――」
「ですからそこじゃないですか。僕だって同じですよ。」
 こうなっては矢代も、もう思っていることをみんな云うべきときだと覚悟をするのだった。
「僕は前からこんなことを気づかれはしないかと、いつもびくびくしてたんですよ。何も僕とあなたが特に二人にとって、間違いなことをしているとは少しも思っちゃいないですよ。けれども、何んと云ったところで、ここは外国でしょう。ですから、あなたも僕も島流しになった二人みたいで、僕たちの心の通じるのは広くたって三人か四人でしょう。それなら、親切にしたり喧嘩をしたりすることは当然なことで、檻の中の友人のようなものだから、これらのものがそれぞれ日本へ帰って自由な身になったら、島流しになっていたときと同じ心でいるわけはないと思うのです。それも無理に島流しにあっているこんなときを、大切にしているならともかく、それだって、帰れば周囲のものがそのままにさせておくものじゃないんですからね。ですから、それを僕は考えると、もっとあなたを自由にさせておかないと、いつかあなたが僕を恨むようなときが必ず来るんじゃないかと、実はまア、あなたの困るときばかりを想像して、不吉なお話もしたわけです。」
 矢代のこんなことを云う途中に、もう千鶴子の顔は解け流れて来るようににこにことして聞いて来た。
「そんなこと――まア、あなたは何んて用心ぶかい方なんでしょう。あたし、本当に感心してしまったわ。でも、恐ろしい方だわあなたは。」
 初めてあなたを知ったという風に千鶴子は暫くまた黙って考えていてから、
「あたし、とてもあなたのように考えられないわ。あたし、間違っていたと思えないんだけれど、でも、あなたがそんなに思ってらっしゃるのでしたら、あたし、何を云ったって駄目かもしれないわ。」
 と、ふとまた矢代の云ったことを真実なことと気づき直した様子の千鶴子は、夢見るような伏目のままに、
「そんなことをいつも考えてらっしゃれば、あなたのようになるのね。でも、あたしはそんなこと、もっと簡単に考えていましてよ。そんなこと、いくら深く考えたって、それや駄目なことだとあたし思うの。ここで起ったり思ったりしたことは、あたし一番変らないと思うの。本当にそう思うわ。」
「それは、君はカソリックだからでしょう。そこが僕と違うのだなア。」
 と矢代は初めてまた胸をついて来た新しい事実に内心びっくりして口走った。しかし、争いの鎮まりかけたものを再びかきたてるこの無用も、もうするだけしてしまいたいと彼は決心するのだった。
「あなたは物事を考えるのに、ヨーロッパを基準にして考えているのですよ。しかし、僕はやはり日本を基準にして考えてますからね。それだけはどう仕様もないものだと思うな。」
「それじゃ、日本へ帰ってから違うのは、やはりあなたの方が違うわけね。あたしの今の考えの方が正しいわけだわ。きっとあたしの方が正しくってよ。あたし、あなたが変ってもあたし変らないと思う。きっとあなたの方が変ると思うわ。」
「とにかく、そんなことは云ったって始まらないことばかりですからね。それですよ。僕がこんなに用心ぶかいのは。」
 こう云いながらも矢代には、今は二人の争ったことは愉しいことだったが、しかし、こんなに好意を持ってくれた婦人がこの千鶴子だったのだと思うと、また一層彼は帰ってからの怖れが心配になるのだった。現にこの日の昼間のことを考えても、サンゼリゼの伝統派と左翼との格闘のさまなど、カソリックと科学との闘争だといえば云うことの出来る精神の違いの流血沙汰だったと思われた。彼はあんなことが、千鶴子と自分との以後の生活に起ったなら、終生どこを二人の結ぶ心として生きてゆくべきなのか、これは考えれば考えるほど心中根を深めてゆくばかりだった。もし今の二人の別れが身も心もともにこのまま別れる最後だったら、それなら自分はもっと愉しむだけは愉しむかもしれぬと思った。
 けれども、矢代はこのような不用な怖れを今ごろするのも、こんなことばかりが絶えずぎりぎりと頭にかかるこの西洋に現在自分がいるからであり、また一つは、昼間のサンゼリゼの出来事を眼にした直後の不安なせいかもしれぬとも思うのだった。あるいは日本へ帰ってしまえば、カソリックであろうと法華であろうと、さらに異とせぬ、「えい。」と気合いのかかったような爛漫たる無頓着さで、事は無事融合されてしまうのかもしれない。そんなら二人にとって一番神聖なものもやはり日本にあるにちがいない。
「まア、あなたは僕より一足さきへ帰ってみてくれ給え。何も僕はあなたを疑ったわけじゃなし、二人のために一度はしなくちゃならぬ心配を、うち明けてみたまでのことですから、黙っていたのより、気にかけた方が安全だというようなものでしょう。」
「それはそうね。黙ってて下すったのより仰言って下すった方が、やはり良かったと思うわ。」
 表情までまだ矢代の云うままに流れて来る千鶴子だったが、それでももう前のような明るさはだんだん千鶴子から消えて来た。後から襲って来る不幸よりも、不幸を未然に防げたという意味にも解せられる千鶴子の力なげな様子が、またこうなると矢代には心配になり始めた。それも千鶴子の頭へ、これから帰って行こうとする日本の待ち伏せた生活が、早や波打ち上って来ているのにちがいないのである。しかし、何んと云おうと、どちらもわれわれの生活へ戻ってゆくのだと矢代は思った。それが不幸になろうと幸福になろうと、何を今から恐れたことだろう。――夢見るだけは、もうここで自分らは夢見て来たではないか。そんなら、帰れるものだけ早くさっさと帰れば良いのである。――
 こんなに思うと、矢代も急に千鶴子を前へ突き動かしたくなって来て、
「さア、もう僕も帰りましょう。こんなにはしてられない。」
 と云うとグラスに残った葡萄酒を一息に傾けた。彼は立って千鶴子に強く握手をしながら、寝過したら電話で起して貰いたいと頼み、
「さようなら。」
 と云った。
 千鶴子は手を出したまま握り返さず、黙って矢代の顔を見ていたが、本当に帰って行く彼を見ると後ろから急いで立って来て、
「じゃ、さようなら。」
 と一こと云った。矢代は暗い廊下へ出てからエレベーターの前まで来て、上って来るボックスを待っていると、千鶴子は後から追って来て彼の傍にまた青ざめた顔で黙って立った。
「あなた本当にお帰りになるのね。」
「帰ります。」
 と矢代は灯の点いたエンジケイタの針の動きを眺めて云った。針が五階に近づいて来たとき、千鶴子は肩を寒そうにつぼめ、
「雨まだかしら。」
 と云って窓のない廊下の外を覗う様子を一寸しかけ、また矢代を見た。矢代はボックスが停ると千鶴子の肩を押した。
「君もうここでいいですよ。じゃ、また。」
 闇の中に光っている大きな千鶴子の眼を見ながら、矢代は笑顔を軽く作って下へ沈んでいった。彼は奇蹟に似たものが体内で激しく起っているような、何か気違いじみた素晴しく軽い飄然とした気持ちだった。
 ホテルの外へ出てからも彼はやみかかった小雨の中をルクサンブールの方へ歩いた。五階の千鶴子の窓の灯がもう消えたかと思って仰ぐと、窓はもう前から開いていて千鶴子がそこから下の通りを覗いていた。矢代は早く眠すみなさいという意味の手枕の真似をしてみたが、黒い影のように見える千鶴子の姿が、
「どういうこと、それ?」
 と訝るらしい首の曲げ方で答えた。その千鶴子の様子は、なまめかしい悩みを顕している風にも矢代には見え、一瞬強く足の立ち竦む思いに打たれるのだったが、それもどういう作用で切りぬけているものか彼も分らぬまま、また歩いて街角を曲った。
 初めて千鶴子の影が見えなくなったとき、矢代は首すじから背中の半面へかけひどい疲れで鈍痛を覚えた。歩く足も右を出しているのに左を出しているような錯覚を感じ、ときどき足を踏み変えてみながら公園の外まで行って彼はそこのべンチへもたれかかった。


 翌朝矢代は早く眼が醒めたがまた眠った。そして、うとうとしてから、時計を見るともう九時近かった。コーヒーも飲まず彼は千鶴子のホテルへすぐ自動車で行って、その車を下で待たせたまま、五階へ上っていった。薄化粧もすました千鶴子はただ彼の来るのを待っているばかりだった。
「早く起きたんだけれども、あんまり早すぎてまた眠ってしまった。どうも失礼。」
 と矢代は云って笑った。昨夜の苦しい決断がこの日の朝の快活さを予想してなされたかのように、二人は打ち溶けた気持ちの良い笑顔だった。千鶴子は宿の払いも今すませたばかりだと云ったり、この天気だとドーバア海峡の揺れも少いだろうと喜んだり、あわただしげな中にももう悲しそうなところは少しもなかった。矢代は薄靄のかかった森の上にパンテオンのかすんで見える窓の傍まで行き、下の自動車を指差した。
「あれが待たせてある自動車ですから。――まだ一時間もありますが、どうします。もう行きますかね。」
「行きましょう。皆さんお
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