て最後の文化のその絢爛な呻きを聞いているとき、
「どうなるんでしょう。大丈夫かしら?」
 と傍へよって来た千鶴子や真紀子たちは、久慈や塩野を気遣う風に云って横から覗いた。
「大丈夫だとも。どっちもカルトを持ってるんだもの。」
 矢代がこう云っているとき、塩野だけはもう赦されて包囲の外へ出されていた。彼はまだ残っている久慈を見るとまた警官の中へ割り込んでいって、暫く久慈のことを弁明していた様子だったが、間もなく二人は無事揃って外へ出て来た。
「やア、ひどい目に会った。」
 塩野は鼻だけ延び出るような好人物の笑いを立てながら、頭をかきかき矢代たちの方へ近よって来ると、
「とうとうやった。」
 と云ってはまたぼんやりと後ろを見た。
「どうだ。痛むのか。」
 矢代は久慈の抑えている鼻のハンカチを見て訊ねたが、
「いや、何んだか分らん。」
 と云って、久慈はひとり不機嫌そうにトリオンフの椅子の方へ先きに立って歩いた。
 道路の両側に遠く散ってしまった人波は、降り込んで来た雨にみなどこかへ姿を消して見えなくなった。警官の包囲の中では、検束されたものがそれぞれ引き立てられ空虚になったが、後に残った銃剣の警官部隊だけ、血のところどころに流れている雨の中に塊ったまま動かなかった。
「いや、どうも、殴られた殴られた。痛いやまだ。」
 塩野は椅子に落ちついてからも剽軽に頭の横を押してみた。
「しかし、君はなかなか豪いよ。あんなときでもシャッタを切っていたからね。」
 と矢代は事実塩野の勇敢さに感服して云った。
「一ちょらの写真機壊されそうになったが、このときだと思って撮ったんだよ。何が撮れてるか今夜は見ものだぞ。まったく偶然に挟みうちに会わされたんだからな。逃げようにも逃げられないんだ。しかし、あの鉄甲には感心したね。ぴたぴたっと締めよって来た鮮かさは見上げたものだよ。動けないんだ。」
 思い出すと蘇って来るらしい興奮に塩野の顔は赤く染まり、口から泡が飛び出した。
「左翼に一人強い人がいたわ。無茶苦茶に暴れてるの。」
 真紀子のそう云うのに塩野は、
「うむ、いたいた。」
 と頷いた。
「でも、真っ先に飛び出ていった女の人ね。あの方にもあたしびっくりしたわ。あんな人やはり日本にいませんわね。あたし、見ていてはらはらした。」
 千鶴子はそのときもそうして見ていたらしく両手を胸の上に縮め、表情のある眼に変った。
「中田さん、見たでしょう。明日ベルリンへ行くのに、いい土産になりましたね。何よりのお土産だ。ベルリンはまた違うからな。」
 塩野にそう云われ、さきほどからますます考え込んで黙っていた中田は、「うむ。」と難しげに頷いたが、
「いよいよ困った土産だ。とにかく、ベルリンの郊外へでも行ってから、ひとつゆっくりと考えよう。」
 呻くように中田は一層顎を襟に埋め込み、腕を拱いてテーブルの上を見詰めてまた黙った。何んだか強い弾丸に一発致命的な部分を射抜かれた様子である。舞台のような道路の上で、まだ立って動かぬ警官たちの鉄甲の縁から雨の滴りが垂れて来た。
「僕も二三日したらセヴィラの方へ行くよ。少しパリを離れてみなきア、何んだかよく分らなくなった。」
 久慈はそう云いながら真紀子からハンドバッグを取り、中から鏡を出して幾分腫れ気味の頬を映してみた。
「みんなどっかへ行っちまうのか。淋しくなるなア。」
 と塩野は前の元気も急になくなり雨空を眺めて歎息を洩した。空がだんだん暮れかかって来ると、もう通りには警官隊のほかほとんど人影が見えなくなった。


 その夜食事を終えてからトリオンフの一同は皆でモンパルナスへ帰って来た。雨は急に降って来たり霽れたりした。千鶴子の送別会も昼間の疲れでお流れになったままドームへよると、ここはいつもより人が立て込んでいて、どの部屋も満員だったがようやく詰め込む席を探してお茶を飲んだ。
 客たちは誰もみなナシヨンかバスティユの方へ行っていたものらしく、サンゼリゼの出来事を見たものはないような話だった。殊に危険を冒してその日の写真を撮ったものは、塩野を措いて他の外人のうちには一人もいなかったにちがいない。
 矢代はもう千鶴子と二人ぎりになりたかった。疲れも相当に激しく、また今さら云うべきことはないとはいえ、それでも今夜ひと夜よりないのだと思うと、やはり久慈に云われたように皆と別れて二人でいたいと思った。雨の湿気のためかいつもより煙草の煙がむせっぽく立ち籠って来るにつけ、各部屋の中からはしきりに激論が増して来た。それでも矢代の気持ちは始終表の街路へ向いがちだった。街角の闇の中に塊った警官隊の銃剣が濡れた鉄甲の部分と一緒に物音も立てず光っていた。どこかの踊りから脱けて来たのであろう、人通りもない石塀の傍をインディアンの仮装で疲れた足をのっそりと運ぶ画家らしいのが、二三槍を突きつき、「おう、おう。」と叫んで雨の闇の中へ消えていった。
「じゃ、ちょっと千鶴子さんの荷物の手伝いをして来るから。――すんだら来るよ。どこにいるかね。」
 と矢代は立って久慈に訊ねた。
「いいよ。そのまま行って来いよ。」
 笑いもせずむっつりと云う久慈に矢代は顔を赧らめ、ふと挨拶めいたお辞儀をした。
「それではこれでお別れですのね。皆さんどうぞお丈夫で。」
 千鶴子は立って腰をかがめ皆に挨拶をした。
「あ、そうだ、明日の朝だったなア。」
 塩野は忘れていたらしく頓狂に云って千鶴子の顔を見上げたが、
「じゃ、さようなら、明日また。」
 と軽く会釈をし直した。久慈はもう千鶴子を見なかった。真紀子だけひとり千鶴子と握手をしたがそれも軽かった。明朝また見送りにもう一度と皆が思っているにしても、皆の想いとは別にこの夜の別れは非常に簡単だった。
 矢代は襟を立て雨の中を歩いていった。千鶴子はぴったり彼により添うようにしてついて来たが、道路が暗くなって来ても二人は何も云わなかった。


 木の葉の匂いの強い夜で、歩いて来る人声が聞えていても擦れちがうときただちらりと顔が見えるほどの暗さだった。矢代はいつも歩くこの大通りがこんなに暗かったのかと、初めて驚く気持ちで周囲を見廻した。千鶴子も一緒に街路樹を眺め、
「もうこの街も二度と見られないかもしれないのね。これで。」
 とそう云ったが、そんなに悲しそうな声ではなかった。
「ロンドンに暫くまたいらっしゃるようだったら、ときどき手紙を下さい、もっとも僕もすぐここを立つだろうと思いますがね。」
「ええ、でもすぐ船に乗らなくちゃならないと思うの。ですからあたし船の中からお出しするわ。あなたのホテル、手紙きっと廻してくれるのかしら、そんな妙なことだけがこの間からの心配ですのよ。」
 見上げて笑うらしい千鶴子の声に矢代もつい笑い出した。
「大丈夫ですよ。あなたがニューヨークへ着いたころは、僕はベルリンあたりにいると思うな。」
「あたしたち横浜へ着くの三十日ほどかかるんですから、もしあなたがシベリヤ廻りでお帰りになるんだったら、十日ばかりあなたの方が早いわけよ。面白いわそしたら。」
 千鶴子はこう云いながら明日の別れを少しも惜しむ様子ではなく、むしろ矢代のこの度びの黙っている別れの気持ちを万事のみ込んでいる風がありありとした。こんなときでも東西に別れて二人が帰らねばならぬ事情というものは、やはりそれぞれにこれで胸中にあるのだなと矢代は思い、またそれが日本の風習である限り是非それだけは守らねば、どっちの父母からも許されぬもののあるのが、厳格極まりない日本だと思った。それはどういう理由かもう彼には分らなかったが、何んとなくそれは非常に見事な習慣だと思われ、自分が千鶴子の家と自分の家との二家の父母の許しを待つまで、君を愛すなどという言葉も千鶴子に使いたくないのも、実はただそれだけの分らぬ理由からだったとも思った。
 ホテルへ着いてから二人はエレベーターの狭い箱の中に這入り、初めて鈍い電灯の下で顔を見合せた。千鶴子は雨に濡れた矢代の胸のボタンを爪で掻き掻き、ちょっと首を傾けた嬌奢な笑顔で何か云いたそうに唇を動かしたが、その間に箱は上まで昇ってしまった。
 千鶴子の荷造りはほとんどもう出来上っているのと同じだった。ただこまごまとした物を纏めてトランクに詰めれば良かっただけだったが、それも千鶴子でなければ出来ぬ女の使用品ばかりだった。
「手伝いに来たのに何もないんだな。」
 と矢代は手持無沙汰に立ったまま云った。
「たったこれだけ。もういいんですのよ。」
 矢代はそれでも口を開けているスーツケースの蓋を膝で抑え留金をかけたり、古新聞をも一つのに詰めたりした。あまり重くなっては飛行機だから料金が高くなって困ると千鶴子の云うのに、古新聞は記念に良いものだからと矢代は云い張って無理に持たした。矢代から記念と云われると、千鶴子も気軽く笑い愉しそうに応じるのだった。
 すぐ何もすることがなくなったとき千鶴子は下へコーヒーを※[#「口+云」、第3水準1−14−87]咐けた。ソファに向い合ってから、急に千鶴子はロンドンの兄のところへ電話をかけてみようかと矢代に相談した。
「しかし、帰る時間を知ってらっしゃるなら、何もわざわざ不経済する要ないでしょう。」
 と矢代はこれにも反対した。
「でもね、兄さんにはあなたのことよくお話してあるんですのよ。ですから一度電話ででもお話しになって下さると、あたし、何かと後でいいかと思うんだけど。」
 こう云って千鶴子は矢代の顔を見たが、すぐまた、
「どちらも声だけじゃ何んだか変ね。よしますわ。」
 と打ち消した。火の点くように顔の赧くなり始めていた矢代もそれでほっとするのだった。コーヒーが来てから最後の晩餐だからというので、葡萄酒もついでに頼んだ。矢代はここにいるのも後一時間ほどだと思い、時計を見るともう十一時近かった。
「明日の朝は十時とすると、九時にここへ来ればいいな。自動車は僕が乗って来ますからそれで行きましょう。」
 矢代は云うべき必要なことはもうないものかと考えたが、旅に必要なことは何もなかった。
「ロンドンを出るとき電報を上げますから、そしたらあなたも船へ下さるんですのよ。あなたはきっと下さらないと思うけど、駄目よそんなの。ね。」
 と今度は強く千鶴子は云って笑顔を消し矢代の答えを待つ風だった。
「出します。」
 と矢代は簡単に答えた。そのまま二人は言葉の継ぎ穂もなく黙っていたが、矢代は椅子の背に落ちつきながらも、浮き上っていく興奮にどこか身体の綱がぶつりと断れた思いだった。葡萄酒が来て女中が下へ降りてから、千鶴子は矢代の後の床へ膝をつき寝台の上で黙ってお祈りをした。
 チロルの山上のときに一度千鶴子の祈るところを矢代は見たことがあったが、今夜のはひどくこちらの心を突くように感じ、彼もその間ともかく伊勢の高い鳥居をじっと眼に泛べて心を鎮めるのだった。
 暫くして千鶴子が立って来たとき、矢代はカソリックのお祈りをした千鶴子に気がかりな何んの矛盾も感じなかったのが気持ち良かった。千鶴子は前とは変って笑顔も生き生きとして来て、葡萄酒をグラスに瀝いでから二つ揃えた。二人はどちらも黙って葡萄酒を飲んだが、矢代は、今こんなにしていることが婚約を意味していることだとひそかに思い慎重にコップを傾けた。千鶴子の一息に飲み下す眼もともうやうやしくひき緊った表情に見え、それもみな自分の心に応じてくれた優しさだと一層喜ばしくなるのだった。
「それでは明日はお疲れだから、今夜はこれで失礼しましょうか。」
 矢代は果して帰れるものかどうか自信もなかったが、気持ちの晴れたのを好機に、こう云って絡る思いをひき断る気力でうーんと力を椅子の肱に入れてみた。
「でも、今夜だけはもっとお話していたいわ。あたし。」
 千鶴子は表情も動かさず、突然帰ろうとする矢代の考えを嚥み込みかねた訝しさで矢代を見上げた。
「しかし、飛行機は疲れますよ。良ろしいか。」
「でも、たった三時間なんですもの。眠らなくってもいいわ。クロイドンまでだと一時間半よ。」
 矢代は千鶴子の眼
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