から、ふと翻るおもむきで、
「じゃ、僕の方が写真上手いぞ。」と云った。
「そう。あなたは冷たい人だから、上手よきっと。」
 と真紀子はすかさず虚を突いて久慈を見た。
 車がアンヴァリイドからセーヌ河の方へ外れていくに随って、皆な黙り勝ちになり、矢代の淋しい想いもまた自然に重く返って来るのだった。


 サンゼリゼの坂下で車を降り、一行はすぐ眼に見えるトリオンフまで歩いた。ここは伝統派の本拠のこととて、今は警官の圧迫を受けているとはいえ、見て来た行進のあった街街の様子とは違っていた。
 凱旋門から両側に連り下ったカフェーは道路に向い、大劇場の客席の雛壇を展いたような豪華な形だった。ちょうど道路が舞台となり、そこから見渡す両側は、どちらを見ても統一された真紅の観客席のゆるやかな傾斜をつづけ、人人はそこに充満していた。それぞれここのはスタイルの見本帳から出て来たような、端正な服装の紳士や淑女ばかりだったが、もうみんな戦闘の準備を終えたらしく、壮麗な一帯の展望ながらステッキを握った手を前に突き立て、凱旋門の無名戦士の墓を占拠しに襲って来る左翼を待ち構えている興奮がどの面面にも漲っていた。
 ここを失えば、もう世界の文化は破壊されるばかりだと確信を抱いた必死の反抗が、建物の窓窓にも現れ、一丈ほどもある三色旗の大旗を横に掴んだ老婆まで、高い窓から下の通りへ向って旗を振り振り応援していた。
 通りの下の方からは、七八十人の学生の群れが女学生も中に加え、腕を組み、国歌を合唱しつつねり登って来た。

[#ここから3字下げ]
祖国のために
今日の光栄の
日は来れり
老若男女
剣を持て
[#ここで字下げ終わり]

 この合唱に応じて両側の通りやカフェー、建物の窓窓からまた合唱がつらなり起った。窓の老婆も顔を充血させ、洗濯をするような恰好でますます強く大旗を揺り動かして歌った。照るともなく曇るともない空模様のうちに雨が降って来た。鉄甲を冠り銃を肩にした警官隊が横町に塊っていたが、これは政府党の警官ではなくパリ市直属の精鋭で、もっぱら市街の秩序の維持に当てられるものだった。駅夫のようなフランス帽を冠った政府党の警官たちは群衆の合唱が大きな声になると、畳んだマントを左右に振って鎮めようとつとめたが、それもどことなく自分もともに歌い出したいらしい顔つきで、「これこれ。」と云うほどの程度でゆったりとしていた。
 矢代たちがトリオンフの椅子を占めてから間もなく、バスティユの方から戻って来た塩野や中田たちと落ち合った。
「あっちはもう赤旗ばかりだが、こっちは頑張っとるな。」
 と塩野の元気な声で云うのに、久慈は、
「この調子だと、左翼はもう来ないかもしれないね。」
 と云って凱旋門の方にカメラを向けた。
 いや、来るのが分って待ち構えているからこそ、左翼はやって来るのだと塩野の意見はまた逆だった。彼の話によれば、バスティユでは左翼以外のものを広場へ入れなかったが、カルトを見せるとすぐ入れた代りに、日本もわれわれと同じインターナショナルだからと肩を叩かれ、胸に赤い三角の旗をピンで差されたという。右翼との衝突も少しはあったらしかったが、苦心の割りに写真の収穫はあまりなかったとのことだった。
 雨は降りかかって来たかと思うとまたすぐ晴れた。マルセエーズの合唱が街路樹の下からつづいて起って来た。警官はその群衆の方へ行ってはまたマントを振りたて制止につとめた。
「国歌は唱ってはならぬとなると、困ったなア。これが日本だったら、君が代も唱っちゃいかんということだ。こうなられちゃ、これやたまらん。」
 中田は一番苦悶の表情でぶつぶつと呟き、ひとり首をひねって考え込む様子だった。伝統の造り上げた堅固な立法が、そのままそこから脱け出し、いつの間にか伺い主の伝統を縛り込めようとしている未曾有の事実が、今や起りつつあるのだと矢代は思った。
 塩野は椅子から道路へ出て興奮しているあたりの群衆を撮っていた。うっすら薄日の射して来た凱旋門の下に、右側一列に騎馬隊の警官が十五六頭馬首の星を揃えて停っていた。みな黒い髪を背中まで垂らした銀色の甲を冠り、豊かな恰幅の堂堂たるナイトの服装だった。坂下の方のマロニエはまだよく繁った緑色を保っているのに、上の方の篠懸はもう淋しく葉を落して枝枝を透かしていた。
 矢代と久慈は婦人たちを中田の傍に残し、塩野の後から道路へ出ていった。記者のカルトをそれぞれ胸につけているので、怪しまれぬのを幸いに塩野と久慈は恐れげもなく幾度も写真をとった。
「君たちはどこの国の人です。」
 と山高の学者らしい紳士が矢代に訊ねた。日本人の記者だと彼は答えると、
「あ、そう。日本は健康でいいね。フランスはいまこの通り病気をしているが、もうすぐこの病いは癒るから、よく日本人にそう伝えて下さい。何に、これは小さな病気だ。」
 こう紳士は云って坂下のロンパンの森の中から噴きのぼっている噴水を眺めた。日本は健康でいいね、と歎息した紳士の言葉は、跳り出て来た若者を歎称する老人の声のように矢代には聞え、ふと照れ気味で自分の国を振り返ってみるのだった。なるほど、立法はあってもその原型を噛み納めると、たちまち情意を立法としてしまい、争いあれば云うだけ云って自然な一つの言葉で鎮まり返り、しかも、季節ごとに燃え上っては、また後から後からと若芽を噴き出してやまぬ、もやし[#「もやし」に傍点]のような瑞瑞しさが日本だった。
 これぐらい健康で新鮮な国もまたとあるまい。――
 しかし、これを云うと久慈のように怒り出す日本人も今は充満しているのだと矢代は思った。そのくせ外国人が云い出してくれると、眼を細めて人一倍に喜ぶ謙虚さも持っていた。けれども、何をどんなに云おうとも、われわれは健康なことに間違いはない。この健康さを信頼せずして他の何に信頼して良いだろうと矢代はこのときある強い思いに打たれずにはおれなかった。「ただもっと欲しいのは自然科学だ、これさえあれば――これは欲しい。」と彼は思った。
 彼は道路から千鶴子たちのいる方を眺めてみると、雛壇の群衆の中に沈んで小さく見える千鶴子も、こちらを見て軽く笑い片手を上げた。矢代も一寸手で合図をした。彼はもうこれならこのまま明旦二人が別れて行こうとも絶対に大丈夫だと思った。それは確信に近い感じで、むしろ、また会うときを想像する喜びの方が大きいほど、生き生きとした信頼の心からだった。
「君、あそこに隠れている警官隊ね。」
 と塩野は建物の蔭の小路に固まっているパリ市直属の鉄甲の警官隊を指差して云った。「あれは軍隊から優秀な兵士ばかり選抜して来た警官隊なんだよ。あれは一番強くって公平で勇敢なんだ。あれを撮ろう。」
 塩野と久慈が広い道路を横切っていって半ばごろまで渡り切ったとき、突然矢代の後ろの方から、
「あれだッ。」
 と叫んだものがあった。矢代はその方を向くと、ソフトを冠った紳士がステッキで坂下のロンパンの方を差していた。ロンパンの森の方から赤旗を首に立てた一台の自動車が馳けて来た。カフェーの一角が急に衝撃を受けて動き停ったと思うと、まだマルセエーズの合唱に揺れているそちこちの群衆の上を、ひと薙ぎその衝撃が薙ぎ通してから、次第にざわざわと揺れ出した。
 それは丁度ぼッと燃え上るような早さで、道路の両側の群衆の上に感応していくと、矢代の前後左右から次ぎ次ぎに、「あれだッ。」とか、「来たぞ。」というような声が漲り起って来たが、そのうちに首に銀狐を巻いた紺色の盛装した若い貴婦人が、ただ一人前方の群衆の中から飛び出て来て、そして、近づいて来た自動車の方へ真直ぐに馳けつけた。と見る間に、一時にどっと両側から真白なカラアの高い群衆が道路のその一点へ向い、波の打ち合うような速度で雪崩れのぼった。警官隊はマントを振り立てて群衆をとめようと焦っても忽ち人波に押し揉まれた。
 矢代は傍の篠懸の街路樹を楯にとって動かなかった。彼は久慈の方を見ていると、塩野と久慈は、打ち上がって来る高いカラアの潮に奔弄されたような様子で、周章てて後へ戻ろうとして引き返して来た。しかし、そのときはもう、後からも同様の群衆の雪崩れが襲って来ていた。二人は横向きに傾きかかって沈んだり浮いたりした。それでも塩野は動揺する中でまだカメラのシャッタを切っているらしかった。
 赤旗を立てた先頭の自動車の後から、二台三台と同様の車が陸続とくり込んで来た。恐らくどれもナシオンへの行進をすませて崩れて来たものにちがいなかったが、どの車も坂を進もうにも進まれず、みな道路の中央で停ってしまった。すると、群衆の真先にいた盛装した銀狐の婦人が拳をふり上げ、自動車から降りて来た左翼の若者たちの群中へただ一人で跳り込んだ。つづいてその後から、紳士や淑女ばかりの一団の群衆が襲いかかった。踏み台に二三の男の飛び上る姿がちらっと見えると、またたく間に引き摺り降ろされて群衆の中へ沈んだ。踏む、蹴る、殴る――そこの一点の得も云われぬ綺羅びやかな特種な乱れの重なった人波の中で、じっと動かぬエナメル色の黒黒と光った自動車の窓ガラスが、見る間に血で真っ赤に染って来た。
 あ奴が怪しいと思うと、その者が右翼であろうと左翼であろうと、もう群衆には見境いがつかなかった。「そら、あれだ。」と一人が云うとどっとまたその方へ襲いかかる。あちらへ揺れこちらへ爆けしている中へ、好んでそこへ飛び込んで来る左翼の群れの数もだんだんに増して来た。矢代の方から久慈の姿はよく見えなかったが、殴りつけられ横ざまになりつつも、まだシャッタを切っている塩野の眼鏡だけ、ときどき青く飛び上るように光った。
 矢代はその方へ馳け進もうとしても荒れ狂った群衆に遮られ、もう自由に体が利かなかった。並んでいる自動車の窓という窓ガラスが滅茶苦茶に叩き砕かれていった。
 ひき裂かれたワイシャツから血を噴き出した赤い徽章の男が一人、叩かれても突かれても、跳り上ってはまた群衆へ幾度でも飛びかかっていくのがあった。そこへ新手の群衆が殺到して殴りかかる。もう血みどろになったその若者の顔は目鼻も分らぬながら浮きつ沈みつしていた。政府党の警官たちは、その間にも誰彼なく検束にかかっていたが、どれもみな右翼のものを抑える検束だった。
 奪い返そうとするもの、それをまた引きつれて行く警官らとの間で、暫く揉み合いがつづいていた。しかし、群衆はも早警官の活動力には手にあまるほど膨脹していた。暴れ廻っている中心の輪が拡がって流れ、下へ下へと爆け流れて行こうとしているときである。
 今までぼつりぼつりとより降っていなかった雨脚が急に激しくなって来た。すると、いつの間に顕れたものか市直属の鉄甲の警官隊が、鋲を打ち込むような固さで一人ずつ群衆の間に立ち並んでいった。思いがけなく中心核から遮断された群衆はまだどよめきを続けたが、不意に黙黙と立ち並んだ銃剣の厳しさには近づき難い様子だった。しかも、この一隊だけは政府党の警官たちをも監視し牽制する厳正中立の鉄甲である。それでもまだここへも雪崩れかかろうとして詰めよる群衆と、引き返す者との混乱が暫くは繰り返した。しかし、それと同時に三段の構えで、坂の上と下から騎馬の警官隊が栗色の馬の胴をよせ合い密集部隊となってじりじり群衆を締めくくって来るのだった。
 もう群衆ははっきりと田の字形に包まれた中と外との二つに別れた。矢代はこの鮮やかな警官隊の包囲の外に立っていたが、銃剣の警官にだんだん締め縮められてゆくその中に久慈や塩野のいるのを見た。塩野はまだカメラを上げてあたりを狙っていたが、久慈は鼻からひどく血を出してハンカチで抑えていた。
 矢代はどうなることかと見ているうち、雨はますます激しく降って来た。今は警官の包囲の外の左翼も右翼も退き、まったく誰も近よろうとしなくなったときだった。警官たちは中に締めくくれるだけ締めた群衆の中から、見覚えの暴れたものを牛蒡抜きにゆっくりと検束にかかり始めた。矢代はこれではもう世界の文化の中心もいよいよ崩れへたばってゆくばかりだと思い、茫然とし
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