いいかね。」
久慈が読みとるようにそう云って矢代の眼を見詰めても矢代はすぐ返事が出来なかった。
「どこでも良かろう。」
「どこでも良いってどういうことだ。二人きりがいいなら、僕らは遠慮をするよ。」
「いや、そんな必要はもうないのだ。」
と矢代は急いで云った。
「もうないって? 何んだか分らないね。」
妙にくぐり込んで笑う久慈を矢代はうるさく思って黙った。確かに千鶴子と今日一日二人きりの世界を楽しみたいと矢代の思っていたことは事実だったが、それを久慈から指摘されることは、用を不用にする歪みを二人の間にひき起す危さを感じ、矢代は黙ったのである。すると、しつこく久慈は、
「だって、今日一日じゃないか。何んとか恰好をつけとく方がいいに定ってるよ。」
と押しつけた。矢代は久慈の恰好という意味を一寸考え、まだ千鶴子との間の具体的な恰好は何もつけていない自分だと思った。しかし、それはもう幾度となく考えてしまった後の事でもあり、外国での無理な恰好を急いでつける工夫の愚かなことを、賢さとすることに賛成し難いものを感じるのだった。これは歯を喰いしばるような矢代の痛さだったが、日本へ帰っても今の気持ちが切れるものなら、それならいっそ今のうちに切ってしまうのも、二人のためと思うことに変りはなかった。いずれにせよ、矢代は、ここで自分たちの中に起っていることのすべては夢遊病者の夢中での出来事だと思った。
もしこの夢が変らぬ事実だったなら、日本へ帰っても変らぬだろうと思い、せめてそれが事実であってくれと祈る気持ちで何事も云わず、千鶴子と別れてゆこうと試みる、ある実証に臨んだような決心とも云うべきものが強かった。恐らく帰れば久慈のいうように、千鶴子と断ち切られてしまうような事があるかもしれぬと怖れはしても、何ものにも代え難いものを失うなら、それならそれは自分の身の錆びであり、自分の受けるべき罰だと思った。
しかし、そんなに突き詰めたような考えだったにも拘らず、矢代は最後の一点で千鶴子を信じて疑わなかった。外国の婦人ならともかくも、千鶴子を信じ切ってしまったのを、今さら何んの形をつけようというのか、矢代が久慈をうるさく思うのは、大切なこちらの心の暖め方を一挙に突き崩そうとする無理をそこに感じたからだった。
「君のいうように、どこの国でも通用するのは、それや論理かもしれないが、論理以外に人間を信用するという心の方が、もっと通用するよ。その方が大切だ。」
とこう矢代は久慈に定めつけてみたいのである。しかし、こんなことも今は無用の返答だと思い止まった。そして、
「君はいつごろ日本へ帰るのだ。」と彼は訊ねた。
「さア、そ奴はまだ考えていないね。しかし、まア、僕ぐらいはここで沈没してみるのも、良かろうと思っているんだ。」
久慈は切り裂いた鮭の中から小骨を抜きとりながら、
「これ日本のかもしれないぜ。今日のは馬鹿に美味いや。千鶴子さん、鮭をフランスへ入れるのに手伝ったって云ってたが、こ奴かな。」
と云って矢代を見て笑った。そう云えば、このあたり一帯のカフェーにあるコーヒー茶碗や食器などは、皆どこのも日本製ばかりだと聞いたことも矢代は思い出され、よくもあの地球の端からここまで満ちて来たものだと、街の拡がりを今さらのように眺めてみるのだった。
真紀子が来てから少し遅れて千鶴子が来た。千鶴子は、ほッと洩れる息を押し込めたような気の張った快活さで、
「明日帰るんだと思うと何んだかそわそわするのよ。そのくせ何もすることないの。」
と云って腰を降ろそうとした。久慈はすぐこれから行進のある通りまで車で行こうと云って、自動車を呼びとめに立った。四人は気忙しい思いのまま車に乗った。
ナシオンの近くの通りまで来かかったとき、早くも見物の群衆で車は動かなくなった。五列ずつほど腕を組み合せて行進して来る隊伍は、所属団体に随ってそれぞれ幟の色を違えていたが、中でも赤や白が一番に多かった。それも労働団体ばかりとは限らず、左翼の政府を支持している文化団体の尽くが混っているといっても良いほどだった。中には自分の子供を肩に乗せて歩いて来るものもあり、少年も少からず混っていた。
「あら、ジイドの写真まで出て来たわ。」
と真紀子は云って笑った。見物の群衆は十重二十重に通りを埋めているので、矢代たちのいる外側からよく行進が見えなかったが、染屋の晒布のような無数の幟の進んで来る中に混った出し物には、工夫をこらしたものも多かった。
特にそれらの隊伍のどこが面白いのか分らなかったが、街路樹という街路樹の枝葉の中から、鈴なりの果物のように群がり繋って下を覗いている見物の顔も街を埋めた群衆も、どういうものか固唾を呑んだように物も云わず、何かの予想に緊張している無気味な空気があたりの街に漂っていた。矢代は、葬列か凱歌かしれぬこんな光景が暫く眼の前を通過しているのを見ている間に、何ぜともなく久慈を突っつきたくなって来たが、それもじっと胸もとで耐えた。
人の肩越しで行進を見られぬ見物の女たちは、ハンドバッグから鏡を出してそれぞれ後ろを向き、鏡面に行進のさまを映し出して眺めていた。
千鶴子や真紀子もそれに倣い鏡を空にかざした。久慈と矢代は爪立ち疲れてふと顔を見合すことがあったが、ぎりぎりとせっぱ詰った云われぬ冷たい表情ですぐ視線を反らせた。その度びに、どちらも、「ふん。」と一瞬相手をせせら笑うような唇の動きを感じ、何か一言いえば生涯の破れになるかと思われる悪寒が、白白しく二人を黙らせつづけるのだった。
そのうち高い建物の上の方から拡声器の革命歌が響きわたって来ると、行進の歩調が揃って来た。しかし、またそれがすぐ国歌に変ってマルセエーズが放じられた。見ている群衆はどちらの歌が空に響きわたっても同じで、誰も声を立てず、すでにこのような訓練が行きとどいた後のように静かだった。
「何か起るのかしら、見ている人、嬉しそうでもないのね。」
と真紀子は不安な顔で久慈に訊ねた。
進行して来る団体の幟が中核をなす赤旗ばかりになって来ると、眼の光りも異様な殺気を帯び、腕組む粒揃いの体の間から勝ち誇った巌乗な睥睨が滲み出て来た。みな誰も紺の背広にネクタイを垂していたから、一見、パリ祭をぶち壊した群れのようには見えなかったが、文化団体とは違い、緊張した弾力が見るから観衆を押し動かして迫った。幟の中にもここのは明らさまにスターリンやレエニン、それからマルクスなどという本家の似顔絵ばかりを押し立てて、もうフランスという国情の匂いなど少しもなかった。
矢代は見ていて、この行列のさまを翻訳して各国へ報らせれば、分り通じるところは、この国情の失われ取り払われた個所ばかりだと思った。こんなに国情のない部分ばかりが他国に通じ、その国の大部分を形づくっている国情という伝統が通じないとすれば、――矢代は、その次ぎに起って来ることは凡そ想像することが出来た。
「これは困る。こうなっちゃ。」と矢代も思わず中田のように云って、ぶらぶら俯向き加減に人垣の後の方をひとりほっつき廻りながら、――もし生きるという生を構成している国情の大部のものが通じ合わぬなら、世の中の秩序を保つための政治は、ただ僅かな外面的な形式の部分ばかりで他国と触れ合うまでにすぎぬと思った。そんなら恐るべき人生の進行だ。――
「まったく困る。何んとかならぬものか、何んとか。」
このように考えているときでも、赤旗の流れはますます続いて来ていた。ぶるんぶるんと精悍な胴ぶるいをしているような、脂の満ち張った足並みで繰り出て来たのは、ひと目でこの日の行事の中心団体と目された一群だと分ったが、内臓を立ち割って日に晒し出したようなこれらの光景は、それはすでにもう伝統ではないものが、政治を掴み動かしているのと同じだった。しかも、先日までこれを制御していた洒脱な警官の群れは、自分の意志を隠し、政府の与えた命令のまま今日はこの行進の無事ならんことを護っている。
ふと矢代は、ここに法を守護するフランスの伝統を見たと思った。もしこの法の守護という精神が失われたら、このフランスから自由も失われたときであろう。――彼はそんなに思うとここまで押し転げて来たフランスの国の歴史と、自分の国の歴史の相違を合せ考えてみるのだった。
「サンゼリゼの方、三時半だって?」
と久慈は写真を一二枚とってから矢代に訊ね時計を見た。
「うむ、もう行こう。」
サンゼリゼでは今ごろは伝統派が待ち構えているころだと矢代は思ったが、久慈には黙って自動車に千鶴子や真紀子を乗せて走らせた。
「何んだかこの間ドームで聞いていたら、社会意識がフランスみたいに変って来たら、音楽意識も変ってしまうんだって、そんなに云ってる人があるのよ。そしたら、べートオベンの曲なんかももうそれや駄目だ、と他の一人が云ってるの。本当かしら。」
と真紀子が久慈の方に身をよせて訊ねた。
「それは外人が云ってるの?」
と久慈は訊ね返した。
「ええ、そう、あれはたしかルーマニア人らしかったわ。」
「日本でも一時そんなことが、問題になったことがあったな。誰だったか、天文学にマルキシズムの天文学だの、ブルジョアの天文学だのって区別、あってたまるかって、あのころは日本も危なかったね。」
矢代はそれとなく真紀子の提出した複雑な問題をこの場合の単純さに納めて笑った。しかし、このような後でもふと明日は千鶴子が日本へ帰るのだと思うと、急に話していることや、眼にした光景の総てが空しく見え、自分だけの世界が重重しく立ち戻って来るのだった。
「僕の知人の天文学者でね、豪いのがいるんだが、その男は星を観測するときに、その前に食った食物が野菜だったか、肉だったかという質の違いで、もう観測に現れた数字の結果が同じでないと云ってたことがあるね。食い物でもう違って来るというんだから、天文学にも区別あるかもしれんぞ。」
と久慈は自分に不利な云い方を我知らずに口走って笑った。矢代は自分ひとりの落ち込んでゆく淋しさから延び上り、今は当面の話題にとり縋っていたかったので、強いて勇気を取り戻そうとして云った。
「そんなら、科学は誤謬を造るのが目的だというようなものじゃないか。あ、そうだ。さっき、東野さんがドームにいたんだが、人民戦線の駆り出しが通ったときに、円周率は三コンマの一四じゃ割り切れんぞ、用心をせいと呶鳴っていたな。」
そう云いつつ矢代は、東野のそのときの言葉の意味を初めて了解するのだった。しかし、こんな会話も争いを起さぬ工夫に捻じれ気味で、辷りの悪さを感じたものか千鶴子は、
「あら、あんな所で踊っているわ。今日は踊りを初めて見てよ。淋しそうな踊りだこと。」
と云って皆の視線をある街角の鋪道に向けた。そのあたりはもう人気のない空虚の街だった。通る人もなければ振り向く者もない一角に、数組の男女が慎重にステップに気をつけた態度で踊っていた。山中の踊りかと見えるその男女の舞いの上に、雨も降りかかっているらしく石の上には斑点が浮んでいた。
ドームの前まで来かかったとき、たった一人のお客がテラスに腰かけたままぼんやりと空模様を眺めていた。それが東野だった。
「あッ、おやじ一人いるわい。」
と久慈は懐しそうに云って窓ガラスを叩いたが、その前を通りすぎた一行の自動車は、凄い速力で早やテラスから遠ざかってしまっていた。ここは雨が降ったと見え鋪道は濡れていて、急に冷えた空気が千鶴子たちの香水の匂いをあおり返して来た。
「東野さん、人民戦線なんか御覧になりたくないのね。」
と真紀子は後ろの方を振り返ってみて云った。
「そうじゃない。きっともう見ているよ。」
こう云う久慈に矢代は、
「それや見てる。ただあの人は心の騒ぐのがうるさいんだよ。今日のような日は、一番難しいのは塩野君かもしれないね。写真を写すときには、写す対象がどんなものでも、レンズと同じように冷たくなる努力を要すると云ってたからな。あの情熱家が冷たくなるのは難しいよ。」
何か久慈は云いたそうに薄笑いを泛べて
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