飛び散るであろうと更けゆく夜を待つのだった。二人はサンミシェルを振り出しに河を越え、グランブルヴァールからサンマルタンの方へと坂を登っていったとき、久慈は突然矢代に訊ねた。
「それはそうと、千鶴子さんいつ帰ることになったのかね。」
「十五日の朝だ。」
「じゃ、明後日だな。汽車か飛行機か。」
「飛行機にした。もう切符も手に入れたんだ。」
二人の黙ってしまった遠くから絶えずバスティユの方へ行進してゆく群衆の響きが、ちょうど法華宗の進行のような太鼓のリズムの連音をなみなみとつづかせて聞えて来ていた。
「明日がすんだらもう僕もベルリンの方へ行くつもりだよ。」と矢代は云った。
サンマルタンからクニヤンの方へ廻って行くに随い、薄霧の中に赤旗を靡びかせた行列がだんだん増して夜の深むにつれ熱気が街に溢れて来るのだった。
人の心がパリ祭だといって騒ぐのに、その日の朝は、矢代は眼がさめても一向に浮き立つ気持ちも起らなかった。彼はゆっくり起きてから千鶴子に電話をかけ、明朝のあなたの帰る支度は今夜自分がするからそのままにしとかれるようにと云って、すぐ食事場のドームで待っていることを告げると、身支度にかかった。
ネクタイもある店で久慈と取り合いでとうとう買い占めた柄のを締めた。そして矢代はホテルを出たが、出るとき鍵さしに差さった日本からの手紙を見た。それは長らく海岸で寝ている妹からのものだった。手紙にはいろいろのことが病人らしく書いてある中に、次ぎのようなことがあった。
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――いつかお報せしたかと思いますが、お父さまも気がこのごろお弱くなりましたのか、お金貸しもあまりひどいことをなさらなくなりました。お伊勢参りをお母さんとなさったとき、偶然に郷里の消防団と一緒になって驚かれたことがありましたが、それ以来急にお年をとられたように思います。郷里へも先日初めて帰られ、御先祖のお墓参りをされました。わたくしは東京で生れたせいか、自分の故郷がどこだか分りません。お兄さんはパリに行かれ、東京を故郷と思われましたよし、まことに自分のことのように嬉しく思いました。これでわたくしの家では、ただ一人わたくしだけが、ふらふらしている人間かと思いますと、悲しゅうございます。それでも、もうお帰りになるのかと思いますと、それまでに病気もよくなっていたいと、朝夕心こめてお待ちしております。波の音が午後になると、いつもここの海岸は高くなります。この海の向うにいらっしゃるのね。――
[#ここで字下げ終わり]
箱根の山の見える海ぎわに、夕日のさしている風景が矢代の頭に浮んだ。そして、そこの下でまだ療養している妹の寝姿を思い急に心は曇ったが、手紙をポケットにしまい込むと、毎朝の日課のルクサンブールの公園の中へ這入っていった。樹の幹の間に落ちている日光の斑点の中で聖書を読みつつ歩いて来る若い牧師の華奢な両手――その指の間から閃く金色の聖書の頁が矢代の眼を強く刺して来た。
日ごとに蕾を開いてふくれて来る大輪の黄薔薇の傍を通り、芝生の中の細い砂を踏んで歩くうちに、矢代は不意に千鶴子と今日でもうお別れだと思った。どっと波の襲うような音波が一瞬公園の緑の色を無くした。それでもじっとベンチに腰を落し樹の幹を見ている間に、また断ち切られた緑の色がもとのように静まって来るのだった。
ドームのテラスにはもう塩野を初め、東野やその他知人三四人の日本人の顔も見えていた。一人はある新聞社の特派員で、今日は一日馳けずり廻らねばならぬのだと云って、どこへ行けば一番右翼と左翼の衝突が見られるだろうかと、よりより協議の最中らしく興奮した面だったが、矢代はそんなのもあまり見たいと思わなかった。
「しかし、とにかく、パリ祭も変れば変るものだなア。毎年このあたりの通りは踊り狂う群衆で、もう電車なんか通れたもんじゃなかったんだが、どうだ、このさびれ様は。」
とこう云ったのは塩野だった。パリ祭の賑やかさは前から矢代も話に聞き、映画などでも見知っていた。しかし、実地に見たのはこの日が初めてだったから、見たところ常の日とそんなに変らぬ街の様子も、塩野の驚くほどには感じなかった。
「僕らは旅人だからそう云われても、どうも分らない。これじゃ、フランスも表面を素通りしているだけで、何も知らないのだな。」
と矢代は塩野に云って笑った。フランスのことをどんなによく知っているものでも、長くここにいるものには頭の上らぬ先輩意識が起り、自然と日本人は圧えられ謙遜になるのだったが、矢代は、その先輩を気取っているものさえ、どこまでフランスを知っているものか、怪しいものだと思った。日本人が他国を見るのに自分の中から日本人という素質を放して見るということは、どんなことをするものかよく分らず、またそのようなことは人間に出来得られることでないと、今もなお思い通していることに変りはなかった。
「この中田さんは明日ドイツへ行かれるんだが、あなたはいつです。」
と塩野はまた矢代に訊ねた。中田はある大学の政治学の教授で、特にこのパリ祭を見たくてロンドンから渡って来たのである。この人は闊達明朗な笑顔のうちにも、学生時代からまだ曲って来たこともない素朴剛健な風貌があったので、定めし今日の左翼のこの旺盛さと、右翼の民族意識との対立は、学問として好個の見学材料である以上に、悩ましい問題も解き難く頭を襲っているに相違ないと矢代には感じられた。しかし、見渡したところ、それは中田ばかりとは限らなかった。ここにいるもののすべては云うに及ばず、恐らく世界の知識階級のものたちにとって、この日ほど、注目すべき日は近来になかっただろう。それも、どんなことが起ったところで、ニュースは言葉を濁し、明白な報知をしないに定っているのである。
「僕ももうじきベルリンへ行こうと思ってます。また向うでお会いしましよう。」
と矢代は云って中田のどことなく困惑している笑顔を眺めた。皆が一番衝突の激しいのはバスティユであろうとか、サンゼリゼであろうかと云っている時でも、中田はひとり腕を組み、ときどき黙ってはしきりに考え込んだ。
「ここがこんな風になっちゃ、これから学生に教える人は困りましょうね。」
と矢代は茶飲み話にふと口を辷らせた。
「そうです。われわれはもう教えようがなくなりましたよ。この間からここを見ていて、日本がこんなになられちゃ、こりゃ困ると思ってるんです。」
大学の教授がこんなことを素人に云うのは、一応考うべき重大なことにちがいなかったが、それをふと思わず洩した中田に矢代は好感を持った。世界通念を理由として論理的に中田の呟きを引き延ばし論争をし出すとすれば、日本の大学は破滅すること勿論だった。しかし、中田の呟きには美しい感覚の愁いが籠っていた。破滅させるより続かせる方が良いと万人の希う限りは、念い希う根柢の民族の心を知るより法はない。矢代は久慈と続けて来た論争の焦点がいつもそこだったと思い、今日こそ久慈に誤りを徹底的に感じさせ、一応は日本人の立場に引き戻さねばならぬと決心したが、頭に泛んで来た久慈の顔には、まだ頑な勝気だけが眼に見えて来るのだった。
「ああ、あれには敵わん。あ奴は幽霊に憑かれてる。」
彼は思わずこう胸中で呟きながらも、やはり久慈の出て来るのを誰よりも待つのだった。彼には久慈の勝気が知性というような合理性には見えず、ただ単に勝気という日本人の肉感な癖により見えぬのである。
「失礼なことお訊きするようですが、あなたはこんな今日のようなここの問題、どんな風に考えてらっしゃいますか。青年の問題としてですね。」
と突然、中田は矢代に向って興味あるらしい微笑で訊ねた。
「僕はどうも、公式主義というのは嫌いでしてね。そういうせいか、ここの問題はどうにもぴったり僕の感覚に訴えて来ないんですよ。」
「じゃ、論理的にもですか。」
「そうです。」
と矢代は答えた。自分はここで生活して来てみたわけではないから、無論ここの人間の感情さえ分らないという意味だった。彼はそんなに答える傍ら、感情も分らぬのにどうしてここの論理が分るのかと、内心久慈へいつもあたる抗議を繰り返してみるばかりだった。
「しかし、何んと云っても論理ですからね。」
と中田は呟くように云って俯向き込み、そろそろ頭の中を締め縛っている通念の論理に気を落ちつけた様子で黙った。矢代も黙ったが、しかし、出て来る新人の誰も彼も、論理論理と考え込んでいる無数の頭の進行が、眼だけぱちぱちさせて風景を見ている怪奇極まる図を思い描くと、ふと光線の強く射している対岸の鋪道の石を眺め、早く千鶴子でも来てくれぬものかと待つのだった。すると、後ろの方で立ち上った東野は、
「円周率は三コンマの何んとかじゃ割り切れんわい。そんならみんな用心してくれ頼むぞ。」
と誰にともつかず云って猫背のまま電車通りを横切っていった。その後から駆り出しに廻って来た罷業委員らの無蓋自動車が数台列なり、それぞれ逞しく盛り繁った態勢のまま拳を振り上げて、
「フロン・ポピュレール。」(人民戦線)
と叫んだ。そして、鋪道のよく光った鋲の上を貫き流れていくのに和し、テラスの外人たちも、いつもとは違って熱して来た。塩野の顔は急に赤くなったと思うと、突然、
「馬鹿野郎ッ。」
と自動車に向ってひとり叫んだ。早口の日本語だったから誰にも分らなかったが、塩野は胸にぶら下ったカメラを手で受けつつ、
「さア、行こうや。あ、そうだ、君に上げるの忘れてた。」
と云って、ポケットの中から大使館で貰って来た金属で出来た小さなカルトを二つ出し矢代に渡した。記者の標のそのカルトを持っていると、その日一日は、どこへでも這入って行ける便利があり、前から久慈や矢代の頼んであったものだった。駆り出しの委員らの自動車はまた次ぎ次ぎに叫びながら馳けて来た。特派員たちは種材を集めに散っていったが、矢代は久慈の来るまで動けなかったので、塩野らに先にバスティユへ行ってもらうことにして、落ち合う所をサンゼリゼのトリオンフに定めた。
テラスが急に空虚になってから矢代はひとりコーヒーを飲んでいた。外から戻って来た外人の話では、グランブルヴァールからナシオンの広場の方へ行進しつつある群衆の数は、およそ五十万ほどだとのことだった。
あたりの街の人人は、行進を見に行っているのかどこにも人影がなかった。通りの街角に造られた踊り場も、櫓の脚の木材だけ新しく石の間に目立たせたまま、一人の人も寄りついていなかった。石の古い空虚な街がかすかな傾きを明瞭に泛べている真上に、日のあかあかと輝いているのは、落ちている蝉の脱殻を手にしたときのような、軽い頓馬な愁いをふと矢代に感じさせた。間もなく、久慈は枕を脱したらしい膨れぼったい眼でその剽軽な通りを歩いて来た。
「いやに閑静だね。」
矢代の傍へ腰かけそういう久慈の籐椅子の背が、もうすでにぎしぎしとよく静かな中で響いた。
「婦人連は遅いね。塩野君さっきまでここに待っていてくれたんだが、もう皆いったよ。誰も彼も今日は血眼だ。」
「そうだろう。」
と久慈は云っただけでコーヒーと鮭を※[#「口+云」、第3水準1−14−87]咐けた。いつもなら何んとか矢代に突っかかって来る彼だったが、今日は何も云わず、黙って額を揉みほごすと軽く横に振ってみていた。
「衝突はあったのかね。」
「さア、どうだか。」
矢代はふと椅子の下を走り廻っている一疋の鼠を見つけた。隙間のない石ばかり続いて出来たこんな所へ出て来ては、逃げるとすると、鼠も放射線を伝って郊外まで一里あまり走らねばなるまいと思った。そこへコーヒーと鮭とパンが出た。
「いやに静かだね。気味が悪いや。」
とまた久慈はあたりを見廻して云った。波頭のような二百ばかりの空虚の椅子の犇めき詰っている中にぼつりと浸っている二人だった。コーヒーだけが湯気を静かに立てていた。
「千鶴子さん明日帰るとすると、今夜一つ送別会をしなきやならないが、どこでしょう。ボアの湖へ行くか。それともモンマルトルの山の上が
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