「どっちも生還おぼつかないかな。」
 笑うところも考えればもう二人は笑えなかった。
 久慈は西日の照りつける中へ動かす矢代の足を見ながら、彼も同様に無数の手傷だなと思われ自然に労わりの心が起って来るのだった。


 その夜千鶴子のホテル附近の広場に祭があるというので、夕食後四人はそれを見物に出ていった。広場に繁り揃ったマロニエの幹の間で、いつもとは違った篝火のような明るい電灯が輝き、色めいた屋台の夜店が沢山出ていた。機械の中から吹き出る綿菓子を雪のように積らせた店や、彩色入りの長い飴棒を束ねた店や、玩具店などと並んだところは、日本の縁日に似た町祭だったが、その間を歩く人人はあまり嬉しそうな様子もなかった。四人は夜店の天蓋の下を散歩してから見世物の前に立った。大きな本物の馬ほどもある背の高い廻転木馬が眼を怒らし人も乗せず街路樹の青葉を擦りつつ廻転している様は、空を馳けぬける駻馬のように勇しかった。その横に円形の音楽堂のようなものがあって、コンクリートの狭い床の上を、二人乗りの豆自動車が十数台も動いていた。
 四人はそれを一番面白がって長く見ていた。天井の全面に張られた鋼鉄の網には電流が通じていると見え、豆自動車の頭から天井へそれぞれポールが延びていた。運転する客たちはみな愛人らしい婦人を自分の横に乗せ、わざと他人の自動車へ自分のを衝突させ瞬間のスリルを楽しむ風な遊びだった。乗っている人種がさまざまなところへ衝突御免の遊びであるから、見ていてこれほど秩序のない乱暴なものもなく、露骨に好意や敵意のまま突進して相手の悲鳴や笑いを楽しむのである。一人乗っているものは自由にひらりひらり衝突を避け、ここぞと思うと首を廻して矢庭に敵の胴腹へ突撃した。衝突の度びに車体の間から火華が噴いた。お人好しは突き衝られてばかりで、左を除けると右から来、右を除けると左から攻められ、うろうろしている間に前後左右から突き衝てられて立往生をしたりした。
 久慈は朝チュイレリイの噴水を見て来たためか、これも何んとなくフランス革命を象徴している遊びのように思われて面白かった。
「やってみようじゃないか。国際法のない戦争だ。こんな勉強はないぜ。やろう。」
 しかし、まだ矢代は、「うむ。」と云ったままやり出しそうにもなかった。美人の愛人を横に乗せている自動車ほど衝てられる気味があり、またあまり衝てられないのも流行らぬ店のようで、手持無沙汰な愛人たちの顔つきだった。
「おい、やってみようよ。手さえ横へ出していなきゃ絶対安全だよ。皆でやろうやろう。」
 久慈はそう云いながら矢代を曳いて無理に自分がさきに立ち段を上った。おじけるかと思った真紀子や千鶴子も素直に後からついて来た。空いた自動車の一つに乗った久慈は横へ真紀子を乗せ、他の車に矢代と千鶴子が乗って無造作に運転し始めた。二人がきっちりと腰を並べられるほどな狭さの低い自動車だったが、さて走らせるとなると、あんまり自由にどちらへでも辷りすぎる不安定さで、なかなか思うようには動かなかった。
「ははア、これや、いよいよ真人間だ。」
 と久慈は矢代の方を面白そうに見て笑った。少し辷り出してまだ笑いの停らぬ間に、もう残酷に一台の車が突進して来だ。そして、「あッ。」と云う途端に横腹へひと突き衝っていった。大きな音の割りに痛さを身に感じない具合は急に久慈を大胆にさせた。彼は電流の不安定さに任せて群がる自動車の中へ辷り込んだ。みな誰も手もとの狂いのままに相手の狂いも赦している寛容な顔がひどく久慈に気に入った。初めは人に突き衝ることよりどうして避けようかと気を張ったが、無秩序を理性としている他の車の進行に注意していては、この混雑した闘争のさ中をきり脱けることが出来なかった。あ奴が衝って来そうだぞと勘づくと必ず衝って来る予想に緊張して、衝突の前に早や真紀子は、「あッ。」と悲鳴をあげ久慈の胴に獅噛みつくのだった。二つ三つも衝りをくってぐらついたころ、矢代の車の中でも千鶴子の叫びが上っていた。
「よし、ひとつ矢代に衝ててやろう。」
 と彼は真紀子に云った。そして、ハンドルを廻し矢代の車の胴を直角に狙って勢いをつけてみた。矢代より千鶴子の方が眼ざとく久慈を見つけると、恐れおののく風に上体を横に反らせて矢代の胴を抱き、追って来る車を見詰めつつ、
「いや、いや。」
 と眉を顰めた。そこを久慈はにんまりと笑って突撃した。物凄い音響と同時に火華が散った。どちらの車も停ったまま睨み合っていたが、すぐ矢代の方から辷り出すと今度は彼が、久慈の方へ突っかかって来るのだった。
 久慈は失敬しながら矢代の首を避け、遠廻りに廻ろうとしかけたそのとき、さきから意志を少しも見せず衝るを幸い薙ぎ倒していた青年の車が、「がッ。」と久慈の後尾を突き動かした。ハンドルを取りそこね、久慈の車は半廻転ほど横になった。すると、そこをすかさずまた矢代の車が一撃した。二度の衝撃で久慈はS字形に曲ったまま、思わぬ車の横腹へ突き衝ってしまった。そこへまた他のが蹌踉けて来て首を突っ込む。三つが捻じれているところへ意地悪いのが故意に首を入れたので、たちまち楔に裂かれた三つが意外な開きで散っていった。
 幾らか自由になったとき久慈は矢代の方を見てみると、彼も反対の隅へ押し籠められていて、出ようとする度びに、後から後から来るのに突き衝てられて困っていた。
 ところが、気をつけるともなく久慈は気附いたことだったが、千鶴子に突進してゆく車の多くの婦人は、運転している自分の男のそのときの心を忖度する気色でむっと衝る時ごとに怒った表情に変った。そして、誰かから自分が突撃を受けると遽に笑顔の悲鳴となるのだった。しかし、そう思えば、たしかに久慈も矢代へ突きかかってゆくときには、千鶴子に点数を入れたい気持ちが強いのを思い出した。殊に千鶴子への態勢を構えるとき、ぴたりと矢代に身体をよせかける千鶴子のなまめかしさが、妙に敵意の残酷さを久慈に抱かせ、彼は廻すハンドルに手心も加えず突き放すのだった。
 場内は絶えず微妙に変転するので、叫声と笑い以外に物を云うものは一人もなかった。同乗者は身体がくっついているためにその動きで忽ち意志が分った。久慈は真紀子の希望する男の車が近づくと、自然に延びる真紀子の体を感じ、突然その方へハンドルをひねり変えて突き衝った。が、また真紀子をつけ狙う男の車に向かっても容赦なく突撃した。
 運転が馴れるのに随って車はかなり自由に操縦することが出来た。そうなると争う気持ちを技術の拙劣さに隠す便利も出来て、一層この勝負は時間を忘れ、同乗の婦人も看板娘のようにますます役目を自覚して来る。そして、衝突の度びに発する火華が口づけの変形とも成り深まって来るのだった。
 特に自分の好きな男と衝突したとき、女のあげる悲鳴は大げさだった。一人の女は絶えずこれ見よとばかりに好んで悲鳴を上げた。久慈はその女が小憎らしくて突きかかったが、その度びにも女は喜びの悲鳴を上げるのだった。一番操縦の上手い顔の緊った美しい青年は、悠悠とひとり遠方を廻って来ては、急ピッチでいつも真紀子の横腹へ突入して来た。真紀子もその青年が近よる度びにそわそわとして、自分以外の誰に衝るものかと注意を怠らない風情だった。
 久慈は度び度び美青年の自動車を狙って衝った。青年の猛烈な攻撃が頻発して来ると、久慈は真紀子への嫉妬も嵩じ、突然首を廻して千鶴子の車へ突撃したりした。こんなにして戯れも時とともに次第に意識を変えて来たときである。久慈はまたも千鶴子を狙って突きかかろうとした瞬間、
「あッ。」
 と叫びを上げて真紀子が傾きよったと思う間に、青年は久慈のハンドルを突き飛ばした。
「こ奴ッ。」
 と久慈は思い、捻じれた首を立て直して青年に狙いをつけた。すると、また青年は隼のように久慈に向って飛びかかって来た。久慈と青年との間で火華の発する度数が増すにつれ、真紀子はもう叫びも上げなくなってしまった。二人の争いがだんだん人目に立って来ると、矢代も見るに見かねたものか、今度は彼がその青年に突撃を開始した。しかし、何んといっても青年の操縦は見事だった。これに敵うものはなく誰も後を追っ馳けるものもいなかった。青年は巧みに群がる車の狭い隙間をひらりひらりと体を翻し、遠くへ存在をくらませては、機を見て不意に殺到して来て引き上げるばかりだった。
 久慈はいら立たしくなると悲鳴を上げる女へぶっつけたり、千鶴子の体へ捻じ込んだり、衝るを幸いに衝り散らして運転をつづけてみた。しかし、いら立てばいら立つほど人からもぶっつけられ追い込められ、やがて冷汗をかきかきハンドルの自由が少しも利かなくなるのだった。そうして、久慈は、とどのつまり、まったく意志の乱用は自由を失うという教訓を身をもって証明させられる結果となっただけで、この電気遊びは終ったのである。
「ああ面白かった。でも、がちゃんとぶつかるときは恐いわね。」
 円形のホールを降りてからそういう真紀子と並び、久慈は、マロニエの間を矢代たちと歩いた。彼は生活の縮図から解き放されたほッとした安らかな気持ちだったが、見せつけられた人生の見本から立ち去って歩んでいる今のこの延びやかさは、つまりは際限のない死のようなものかもしれぬと思った。
 円形のホールを振り返ると、檻の中ではまた新しい客たちの火華を散らしているのが樹の間から眺められた。久慈はより添って来る真紀子に何ぜともなく情愛を強く感じ、腕を支えてホテルの方へ歩いていった。今はもう彼は千鶴子や矢代のことには介意ってはいられなかった。


 当分の間は久慈は真紀子の部屋で泊ったり真紀子が久慈の部屋で泊ったりした。ときにはまた二人でどこかのホテルで一泊したりしたが、久慈は外見一点の非のうちどころもないほど完全に真紀子を愛するように努めてみた。街を歩くときにも外人のように腕まで支え、あれを食べたいと真紀子が云えばそれを食べさせ、またこれが見たいと云えばそこへも行った。閑のきくときに一人の婦人にも満足も与えられないような男なら、日本へ帰って何をしてもしれていると思われたからだった。またそんなにすることにかけては、ここは日本にいるときよりもはるかに手易いことであり、そうしていても誰からも邪魔されないように、ここの日日の生活様式が出来ていた。二人に争うことがあるといえば、夜眠るときどちらかの一方が早く眠りすぎたとか、デパートで少し買物の時間をかけすぎたとか、いくらか会う時間が遅すぎたとかいうほどのことよりなかった。しかし、そうとはいえ久慈の心底には絶えず何か物足らぬものがあった。いずれ二人が別れるものなら、いつ別れても良いと準備している心がいつも二人の中にひそんでいたからだったが、それも一つは、そのような予想が互いにあればこそ争いのない旅の日といえばいえるのかもしれなかった。もしどちらかそれを明瞭に切り出して云ったなら、二人のどちらかが困りはてる結果になるということも定っているのだった。
 こんなにつき詰めた感情をどっか最後の一点に置き残している久慈と真紀子とのある日、いよいよパリ祭が明日だという日になった。街角には踊りに準えるバンドの杭の打ち込まれる音が聞える一方に、フランスの各県から集って来た労働者の団体が三十万四十万と、檻のようなパリの中へ続続くり込んで来ていた。夜になると、明日の朝まで大行進をつづけるのだという細民の太鼓の音が、街街から聞えて来た。この左翼の勢揃いの固まるにつれ、右翼の陣形もますます練り固まって来たという噂が久慈たちの耳にももれ伝った。バスティユの牢獄を打ち破ったフランス革命のときのように、明日も第一番にバスティユの門が砕かれるであろうという話も、一般の予想の一つだった。
 銃剣をつけた警官隊が街街の辻に群がり立って暴徒の警戒にあたった。自動車がどこかへ徴発されたと見えて数少くなっている街の中を、この夜久慈は矢代と一緒に歩き廻ってみた。街の通りを行列をつくって進む群衆を見るときどき、彼は祭の夜の電気自動車を運転した檻の中を見る思いで、明日はいよいよ火華が
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