待ちになってて下さるといけないわ。」
 千鶴子はこう云って洋服箪笥を覗いたり鏡に姿を映してみたりした。矢代はスーツケースを二つ両手に下げて廊下まで出ると、女中が馳けて来てそれを受けとり、馴れた早さで階段を降りていった。下まで二人が降りたとき、ホテルの主人が千鶴子に、それでは身体に気をつけて良い旅をせられるようと挨拶した。自動車をグランブルヴァールの方へ走らせ出してから矢代は、
「どうです。もう一度見たいところはないですか、車をそちらへ向けさせますよ。」
 と云ってみた。千鶴子はルクサンブール以外どこももう見たくはないと答えた。車が公園の外郭に沿って廻り始めたとき、矢代は突然、もう二度とは見られぬ死にゆく病人と別れるような淋しさを感じて胸が詰って来るのだった。千鶴子もその間黙っていたがすぐ車はもうサン・ミシェルの坂へ出てしまった。
「ほんとに良い天気だこと。あたしいつも運がいいのよ。来るときもこんな日だったし、今日もこんなでしょう。」
 と千鶴子は笑ってまた晴晴しそうに薄靄のかかった街を眺めた。
「パリの人間は見送りというものをしないそうだが、日本人は好きだなア。送ったり迎えたり。――」
「そうね。」
 二人は強いてこんな意味のない言葉ばかりを探さねば、何か持ち切れぬ感情の重さに潰れそうな不安を感じ、自然とどちらも暗黙の警戒をするのだった。車がセーヌ河をぬけるともう飛行館へ近づいて来た。飛行館には真紀子と久慈と東野との三人が先から来て待っていた。
「ゆうべは電話をかけようかと思ったんだが、あれから映画を観に行った。元気はいいのか。」
 と久慈は降りて来た矢代に訊ねた。無表情ながら何んとなく、負惜しみを云ったってやはり恰好はつけただろうと冠せる気組みも見え、矢代は答えに窮して黙った。それぞれもう飛行館に着いた安心さで皆が立話をしているとき、ひとり放れていた東野が、
「荷物。荷物。」
 と矢代に注意した。矢代はスーツケースを検査場へ運びながら、この方が痛いなと思い、目方を計って貰っているところへ塩野が来た。彼は東野を見るとまだ皆に挨拶をせぬうちから、
「昨日はひどい目にあった。サンゼリゼで右翼と左翼の衝突があってね、僕はその間へ挟まれちゃって、殴られた殴られた、まだ頭痛いや。」
 と顔を青年らしくぼっと充血させて始終を話した。話しながらも塩野はもう何か新しい風景を見つけたものか、写真機を停っているバスや千鶴子の方へ向けていた。荷物も飛行場行のバスの底に入れられてしまったとき、久慈は千鶴子に云った。
「もうパリはこれで見おさめだから、よく見ときなさいよ。ここを発つときは誰だって泣くんだそうだが、君もう泣いちゃったの?」
「あたし? あたしは泣かないわ。カソリックなんですもの。」
 千鶴子は暗に昨夜の潔白さを示したい反抗の語調で軽く笑い、そう云ってからふと傍の真紀子に気がねの様子で振り返ると、
「マルセーユへ皆さんと着いたの昨日のようですのに、早いものですことね。でも、ほんとうに、あたしもうこれでここ見られないのかしら。」
 とあたりの街街を見廻した。
「それや、君の心がけ次第さ。」
 と久慈はまた赦さずひと刺し千鶴子を刺すのだった。
「じゃ、あたし、もう一度来るわ。一度来てしまうと、何んでもなく来れるように思えるのね。神戸で船の梯子を登れば、もうそれでいいんですもの。」
 それはそうだというように真紀子も久慈も笑ったが、真紀子だけは帰りたそうに空を眺めていてから、今日は帰りにスペイン行のコースを験べて来ましょうと久慈にせがんだ。三人の傍へ塩野が来ると千鶴子に、飛行場行のバスは一ぱいで見送人は乗れないそうだから、今日はもうここで失礼すると云い、ロンドンへ行ったら君の兄さんに宜敷くと告げた。
「それじゃ、困ったな、そんなら矢代一人をやろう、一人なら空いてるだろう。」
 と久慈は云ってバスの運転手のいる方へ行った。戻って来ると彼は矢代に、君一人なら何んとかなるそうだからブールジェまで僕らの代表で行ってくれと頼んだ。矢代は黙って時計を見ると間もなくバスの出るころだった。どこにいたのか今まで見えなかった乗客もいつの間にか集って来ていて、だんだんバスに乗り込むのが増して来た。
「中田さん、もうベルリンへお発ちになったかしら?」
 と千鶴子は塩野に訊ねた。
「今朝早く発った筈ですよ。あんまり早いんで僕は見送れなかったが、あの人ゆうべもあれから弱っていましたよ。真面目な学者だからなアあの人は。」
 何んの気もなくそう洩した塩野の言葉に、一瞬矢代と久慈も、集りかかった玉がぱっと爆けるように衝き放された気持ちで黙った。東野は後ろの方で塩野の話を聞いていたものらしく、笑いながら久慈に近づいて来て、
「君、昨日殴られたんだって?」
 と訊ねた。久慈は不愉快そうな顔で東野を見たが、例の負けず嫌いな精悍な眉を上げ、「何に、一寸ですよ。」
 と云い渋った。
「でも、鼻血が出ましたのよ。ひどく出ましたの。」
 と真紀子は傍から久慈の嫌がることに気がつかずうっかりと話した。矢代にだけ分るこんな久慈の苦苦しげな突然の緊張に立話が意外に白らみを見せかけたとき、
「じゃ、もう乗りましようか。」
 と矢代は千鶴子を急がせた。
「それでは皆さん、どうも有り難うございました。」
 と千鶴子は皆にお辞儀をした。さようならと声を揃えてバスの入口へ集って来た皆のものに、また千鶴子は挨拶をしてバスに這入った。後から矢代も乗り込んだ。彼は窓口から放れた方に椅子をとると、顔を反対の方へ反らせていたが、久慈と真紀子の些細な喰い違いが眼に残り、あの調子では二人とも遠からず別れるときがあるなと、ぼんやりと思うのだった。そのうちバスはすぐ動き出して一行から放れて行った。二人はしばらく黙って揺られていてから、
「真紀子さんたちスペインへいらっしゃるの、いいわね。」
 と千鶴子は急に傍に矢代のいることに気づいたらしく彼の方へ身を向け替えて云った。
 矢代はスペインへは自分も行ってみたいと思い頷きながら、
「あれで久慈はどういうものだか、まだパリを放れたことがないのだからな。パリを放れると損をすると思い込んでいるんだから、あの男にはスペイン行もいいでしょう。」
 矢代はこう云ってから真紀子と久慈との、一見無事な情事もなかなか容易ではないと云おうとして、ふと自分たち二人も実はどうだかまだ分ったものではないのだと思った。街が郊外となり空が行手に拡って来ると、薄靄も次第に晴れて来た。矢代には空がいつもと違って恐ろしく支えのない空漠としたものに感じられた。遠く旅して来た彼の眼にいつも変らず随いて来た懐しい空だったが、今日のはいつ突き落されるか計り知れぬ、鳴りを静めた深深とした色合いに見えるのだった。
「これでもう、マロニエなんか落葉しているのがあるが、僕ら日本へ帰るころは、もう稲の穂が垂れていますよ。」
「そうね、でも、あなたあまり永くベルリンにいらっしゃらないでね。」
「もう外国にはそんなにいたくないな。よほど良い所でも、僕はやはり考えますね。」
 飛行場のバスはどこのでも、客たちの間に一種鈍重な沈黙が圧しているものだが、これから空を飛ぶのだという、人間の習性をかなぐり捨てた心細さも手伝うのであろう、千鶴子も一言いっては黙り、またぽつりと思い出したように云っては黙った。矢代は今日は自分ひとり引き返して来る唯一の人間だったから、これで皆の客とはよほど気軽に自分も浮いているのだろうと思ったが、それにしても、千鶴子は来るときロンドンから飛行機で来ており、帰途も自分からこれにすると云い出したところを見ると、カソリックはやはり天に憧れがあるためかもしれぬと、矢代はまた自分に不可解な日ごろの千鶴子の潔癖さを考えたりするのだった。
 ブールジェへ著いたときは、出発の時間にまだ三十分も間があった。この前千鶴子を迎えに矢代の来たときよりも、芝生の緑が濃くなっているためかハウスの玉子色が一層鮮やかな感じだった。矢代はサンドウィッチとチョコレートを買い、千鶴子に持たせてから壁の航路図の前に立ってみた。
「あなたを迎えに来たとき、これを見て急に日本へ僕は帰りたくなったんですよ。安南まで一週間で飛ぶんだからな。」
 こう云って矢代は自分もベルリンへは飛行機にしてみようと思ったり、不意に千鶴子より先に日本へ帰っているところを想像したりしているうちに、もうロンドンから来たらしい飛行機が芝生の上へ降りて来た。
「あ、そうそう、忘れてたわ。チロルでカメラお買いになったでしょう。あれお別れのときいただくお約束でしたから、荷物の中へ仕舞っちゃいましたの。下さいねあれ。」
 と千鶴子は顔を赧らめねだるように首を一寸傾けた。
「ああ、そんなこともありましたな。」
 と矢代は笑った。チロルの氷河を渡った夜、山小舎の深い乾草の中で眠ったとき、眠れぬままに千鶴子が身動きをすると、ずっと放れて寝ているこちらにも動きがそのまま伝わって、ゆさゆさと揺れて眼を醒した一夜の寝苦しさを矢代は思い出した。もうあんなことも二度とないのだ。とそう思うと、自分の青春も今このときを最後に飛び去って行くのかもしれぬと思われ、ふと彼はあわただしげにそのあたりを往ったり来たりする人人の姿を眺めながら、時のすぎゆく早さを身に沁み覚えて来るのだった。
「もう時間でしょう。」
 矢代が時計を見上げて云うと、びっくりしたように千鶴子も、
「そうかしら。」
 と壁を仰いだ。乗客らは芝生へ降りて行くものも見えた。見送人は待合室から出られないので二人はまだ向き合って立っていた。客の荷物も飛行機に積まれている最中らしかった。立ち際の気の散る様を抑えながら千鶴子は、
「あたし兄さんから、フロウレンスへ行って来いと云われたんだけど、とうとう行けなかったわ。でも、短い時間じゃ無理ね、どこへも行きたくなくなるんですものね。」
 こんなことを云っているうちに、エア・フランスのマークをつけた銀色の機の扉が開かれ、もう客たちが中に這入るのを見ると、千鶴子は急に顔色を変えてハンドバッグを脇にかかえ込んだ。そして、矢代の眼を見詰め、
「じゃ、行ってきますわ。御機嫌よう。」
 と云った。
「さようなら。」
 思いがけなく早い別れに矢代は、「さようなら。」を返すのも軽い声より出なかった。握手をしてから千鶴子は芝生の方へ歩いていったが、また一度こちらを向き返るといつもの笑顔に戻り軽快な歩調だった。三つのプロペラが一つずつ廻り出したとき、千鶴子は機の踏段に足をかけてまた矢代の方へ手を上げた。
 矢代は瞬間扉の口へ絞りよせられるような眩惑を感じ、千鶴子が中へ消えると、初めて機体が芝生の中に形を整えたはっきりとした一箇の鳥の姿に見えるのだった。千鶴子は羽根の真上のあたりの窓からこちらを覗きながら手袋のようなものを振っていたが、その窓も顔もほんの小さくより見えなかった。矢代は緊張がゆるんで手応えのない感じで手を上げた。
 機体は俄に乳色の煙を草に噴きつけた。そして、大きな爆音が聞えドアが閉ると、矢代は血がどっと頭にかけ昇る思いでまた手を大きく振りつづけた。
 それからもうすぐだった。機体は地の上を辷って舞い上っていった。千鶴子は窓から黄色な手袋だけいつまでも振っていた。しかし、それも見る間に方向を変えて空高く上り、一点となるやもう矢代には何もない空だけ静かに青く見えているばかりだった。
「ほんとにあの空にはたったあれだけか。」
 と矢代は暫くぼんやりとしていてからそんなに思ったほど、空はフランス色の鮮やかな空しさで静静としていた。彼は取りとめのない泡の消えるような音を聞きつづけている思いで、待合室の隅のカフェーの椅子にひとり坐り出て来るコーヒーを待った。


 パリ祭がすむと急に避暑に散ってしまう慣しらしいパリには、なるほど人が眼に見えて少くなった。そこへ千鶴子が帰ってから二日目に、久慈と真紀子たちもマルセーユ廻りでスペインへ旅立った。ひとりになった矢代は朝から閑を持ち扱いかねて、ブロウニュの森の中を終日あちこちと
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