すればいいの。そんなら明日でもお話してみてよ、真紀子さん何んと仰言るか分んないけど。あんな人だから、あなたのようにそんなに、心配なんかしてらっしゃらないんじゃないかしら。」
強いて聞えないふりをしているかと思える千鶴子の伏せた瞼毛の隈が、久慈と視線を合せることを避け静かにじっと沈んでいた。
「そんなことを話して貰っても困るね。事は大げさになるからな。こんな隠微なことは何んとかすらりと暗黙のうちに解決をつけなくちゃ、お互の恥だよ。譬えばもし真紀子さんと僕が結婚するような羽目になって、どっちも倖せになるような日が来たら、君に云われたことがまたどんな不幸な記憶にならんとも限らないさ。だから、今夜のことだって、君ひとりの胸の中に仕舞っといてくれ給え。濫りに口外されちゃわざわざお話した甲斐がないや。」
千鶴子は初めて明るく笑顔を久慈に向け、出かかろうとする欠伸を手で停めた。
「難しいのね、あなたたちのこと。」
「難しいんだよ。しかし、まア、あなたに会ってどうやら少し落ちついて来た。これで明日一日ぐらいは保つだろうな。」
久慈は今は何んの気もなくそう云ったのだが、見ると、千鶴子の様子が突然前とは変って身を引くように肩を縮め、かすかな胴慄いをガウンの襞に伝えていた。真紀子の方へ片寄りすぎた舟底を、これではならぬと千鶴子の方へ傾け変えた自分だったのに、それも思わずまた傾けすぎている中心の取れぬ不安さに、このようなときこそ母が傍にいてくれたら支柱もぴんと真直ぐに立つことだろうと、久慈は母に代る何物かを想い描こうとするのだった。
「何んだかどうも僕の云い方がへんなんだね。そんなんじゃないのだよ。君の邪魔なんかしてやしないんだ。僕だってあなたのような清潔な人を、こんなときでも頭に泛べなければ困るんだからな。そうでしょう。こういうときこそ君のような人が藁になってくれるんですよ。ただいててさえくれればいいんだもの。矢代だって何も有り難がってくれりゃ良いのだ。そんなことぐらいしてくれなくちゃ何んの友達だ。僕は矢代にそのうち云うつもりですよ。」
復縁を迫られた妻のように、千鶴子は何か云いかけてはまた黙って両手を寝台の上へついたままだった。
「何も僕がこんなことを云ったからって、そう君を苦しめることじゃないでしょう。何んでもないことだもの。どうして僕の云うこと無理があるかな。そんなら取り消しだが、ただ困ったときには困った工夫が僕にあったって、そんなことまで悪い筈があるものか。じゃ帰ろう。また会いますよ。」
久慈は立ち上って千鶴子に手をさし出した。千鶴子は軽く久慈の手に触れ快活な声で、
「明日お昼ごろお邪魔しましてよ。」
と云うと彼の後からドアを閉めた。早く明けるパリの夜がそろそろ白みかかって来た。久慈は自分のホテルの方へ歩きながら、さっぱり洗われたように気持ちが穏やかになって来るのを感じた。
「何んだか俺は云って来たが、しかし、俺の悩んでいるのは女のことじゃない。お袋に代るものがほしいのだ。ただそれだけだ。俺の云ったことはみなどうだって、あれはもういい。」
久慈はそう思うと真紀子も千鶴子も暫くは想いの中から飛び去って、頭の振動を算えるように響く靴の音だけ耳に聞えて来た。
久慈は正午近く眼を醒した。顔を洗いながら昨夜の出来事を思い出してみても、昨日と今日とは日が違うごとく何んの怖れの実感も感じなかった。歯磨楊子を啣え窓から通りを見降ろす眼に日光が強く射した。こんな天気の良い日にもし悩んでいるものがあるならそれは全く気の毒だと思い、昨夜はそれが自分だったのかと思うと、数時間の睡眠で人生はこんなに変るものかと驚くのだった。隣室のルーマニアの娘が小声で唄を歌っているのも恐らく何か歓びがあるからにちがいない。
「われ三十路半ばにして道に踏み迷う。」
久慈はときどきダンテの悩んだそんな言葉も口にのぼって来た。しかし、自分にもし今日の悩みがあるとすると、真紀子にほんの少し事実を狂わせて嘘をつけば良いことだけだと思った。それも名医のように嘘を上手くつけばつくほどどちらも幸福になるのである。もし千鶴子に話したように本当のことをうち明ければ、真紀子に打撃を与えることは、あるいは計り知れぬかもしれない。それなら何ぜ嘘が悪いのだ。――
久慈はそう思いながらも、しかし、自分は今日は本当ばかりを一つ真紀子に云ってみよう、そして、嘘を云うのと同じ程度に二人が前より一層気楽になってみようと思うと、それがまた今日一日の楽しみになって来るのだった。
服を着替えコーヒーを※[#「口+云」、第3水準1−14−87]咐けたときドアの下に一枚差してある紙片を彼は見つけた。取り上げて読むとそれは真紀子でもう眠っているときに来たらしく、正午すぎ一時間ばかりルクサンブールのベルレーヌの前のベンチにいるから来てほしいと書いてあった。
朝昼を兼ねたコーヒーを飲んでいると千鶴子が約束の通りに来た。いつもより瞼の脹れぼったく見えるのが新鮮な感じだった。長い廻り階段を昇って来たばかりで呼吸を大きく肩に波打たせながら、黙ってずっと窓の欄干の傍へよって来ると、何ぜかやはり黙って千鶴子は久慈を見なかった。
「昨夜は飛んだ眼に会せて失礼、君、お昼は?」
千鶴子はもうすませて来たと云って前の建築学校の屋根の上を眺めていた。昼間だと男の部屋へ来るのも何んの怖れもないくせに、夜中だと一室に男といるのがあんなに不安になるものかと久慈は思い、昨日のような出来事の総てもあれは夜のせいだったからだと、何かそんなことが今さら結論めいて来るのだった。
「真紀子さんいらしって?」
「来たらしいんだが、眠ってたもんだから紙きれ置いて帰っていった。ベルレーヌの前のベンチにお昼からいるって書いてあるから、これから行って来なくちゃ。」
「そして、あなたどうなさるおつもりなの?」
浮唐草の水色の欄干を背に千鶴子は唇の跳ねた皮肉な笑顔だった。
「しようがない。不善を改むこと能わざるは、是れわが憂いなりだ。論語をこれから講義しに行こうてんだ。」
「でも、あなた嬉しそうね何んだか。」
「今日起きてみたら、心境に少し変化が起ったんだね。昨夜は君を見なくちゃどうにもやりきれなくなったんだが――たしかに昨夜は君に僕は恋愛をしたんだ。君んとこの階段を上る前に、広場のベンチに腰かけて窓を暫く眺めてただけなんだよ。ところが、そのうちに胸がそわそわして来てね、これはいかんと思っているうちに、もう階段を上っていったんだ。ところが今朝になってみると、何アに、そうでもないんだよ。けろりとしてこの通りだ。危機だなアこれや。」
パンをち切りながら暢気そうに云う久慈を、千鶴子は心細そうな眼で眺めていてから、
「じゃ、あたしも危機だったのね。」
と云ってくるりとまた欄干に肱をつき窓から下を覗き変えた。
「いや、いろいろ理解に苦しむことが多いよ。これをいちいち説明して歩かなくちゃならんというのは、たしかに健全じゃない。君だって今日は僕を慰めに来てくれたんでしょう。」
「そうよ。だって夜中にひとりでいらっしゃるなんて、理解に苦しむわ。ドアなんか開けちゃいけないと思ったんだけど、何んか急用でも出来たんだと思ったのよ。ほんとにびっくりさせる方ね。もういやよあんなこと。」
「いや、事実急用だったんだよ。ゆうべ君の所へ行ってなかったら僕は今日は、こんなに暢気にしてられなかったかもしれないんだ。あのときはあのときでたしかに君が有り難かったんだが、どうも一つはあれも夜のせいらしい。」
夜と昼とで人の心がこんなに違うならいつも違わぬものとはそんなら何んだ。と、彼はパンの上皮が唇を刺すのをへし折りながら、ふとまたいつもの念いに触れかかろうとしたとき、千鶴子は欄干から降りて来た。
「あなたみたいな人どうなるんかしら。あたしそれが心配だわ。」
特に心配そうな様子でもなく訝しげな眼で千鶴子は久慈を見てから、洗面器の前の鏡に自分の顔を映してみた。ネビイブリュウの服色のよく似合うのもいつもと変らぬ千鶴子だったが、久慈は後ろから鏡に映った彼女の顔を眺めながら、今はこの人も突き放してしまった人だと思うと、何んとなく淋しい影を見る思いで冷えて来たコーヒーを飲み下した。
「君、今日はこれから矢代と会うの。」
「ええ、お約束よ。」
「そんな約束があるのに何ぜ僕のところへ来てくれたんです? 何も僕から頼んだわけじゃないんだもの。」
「あら、だって、久慈さんあんなに淋しそうなこと仰言ったじゃないの。よしみだなんて――。」
頬を染めて少し早口で云う千鶴子の振り返った眼に、久慈はまだ揺らぐ心の閃めきを覗きとった歓びを感じたが、それも過ぎゆく人の視線の美しさかもしれぬと、また追いゆく心を沈めるのだった。
「千鶴子さんは、僕をこんなにしたのは自分の責任だと思ってるんじゃないかな。しかし、それならそれは間違いだよ。それや、君と僕とがマルセーユで別れてから君にとった僕の態度は、船の中とはお話にならぬ不親切さで、一度お詫びをしなくちゃならんと思っているんだけれども、僕のような青年が田舎の日本からぽッとパリへ出て来ちゃ、当分は頭がいやにくるくるするんだよ。実際、僕はしばらく日本のことなんか考える暇がなかったのさ。そこへ君がまた顕れたのだから、逆さになってる僕の足ばかりが君の顔に衝ったんだ。何も僕は弁解の要を感じるわけではないが、しかし、あれほど君と親密だったのにこんなになっちゃ、たしかに僕の方が君をそんなにしたんだからな。君が僕をこんなにしたんじゃないんだよ。」
「ほんとにあのころは、あなた親切にして下すったわ。」
頼りのない声で千鶴子はそう云うとテーブルの上の新しいネクタイを手にとって眺め、
「いいわね。これ。」と久慈を見て笑った。
過ぎた日のことを思い出す愁いは旅にはつき物とはいえ、特に二人の場合は息苦しい思いを増すばかりだったが、しかし、久慈は一度は話しておかねばならぬ機会が今よりないと気づいて来るのだった。
「もう少し聞いといて下さいよ。口説きにならんじゃないか。」
「お聞きしているのよ。」
逆流して来る久慈の気持ちの泡立ちが突然胸を刺す眼新しい世界に感じたらしく、千鶴子ははッと立ち停ったように大きな眼で彼を見た。瞬間久慈も眼を見張った。
「何もそう改ったことじゃないよ。勿論、何んでもないことだけれども、とにかく僕にも云わなくちゃならぬ理由が一つはあるのだ。一度はあんなに心をひかれた人なんだから、云うことが何もないとは云えないからね。正直なところがそうですよ。君だってそうでしょう。」
日ごろの親しさの雑談がいつともなしに捻じ固まり、真面目な相を帯びて来ると、思いもよらぬ火花の散り砕けた後の静けさを見る思いで二人の言葉は詰るのだった。久慈は静かに置いたつもりのコーヒー茶碗が銀盆の上で意外に大きな音を立てるのを聞くと、また置き直したくなるほど云うことが何もなかった。
「真紀子さん、待ってらっしゃるでしょうから、行きましょうか。」
どんなことがあろうとも久慈にはそれ以上の何事も出来ぬと知り尽したような、落ちついた表情で軽く千鶴子は彼を誘った。それでは、事実は二人の間でどんなことでもなかったのだと久慈は知って、味気ない安堵の佗びしさのまま笑い出した。
「じゃ、真紀子さんのところへ行こうかな。」
久慈は上着を着て部屋の暖まらぬように鎧戸を閉め降ろした。あたりが薄暗くなったとき、ふと急に千鶴子の身体が新しく膨れたように思われ、互に気づかなかった近接した羞しさにぎょッとしたまま、視線をどちらも脱すのだった。今まで話していたときよりもはるかに危い一瞬が、まったく意志とは関係なく不意にうろうろと身の周囲に澱むのを感じると、久慈は、昨夜はこれに一晩やられていたのだなと、また感慨が新たに蘇って来るのだった。
「さア、早く出なさいよ。」
と久慈は千鶴子を部屋から追い立てるように云って、彼女の後からドアへ鍵を降ろした。
矢代のホテルへ行く千鶴子は後からルクサンブールへ行くからと云い残して久
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