母親たった一人よりない。彼は悲しみを斬り落してくれた刃を見るように沁みわたって来る瓦斯の光りを仰ぎつづけた。重なり合った木の葉の細部にわたり、静かに通う一葉一葉の水流の上下も聞きとれるかと思われる瞬間の通過に、どこ一点の狂いもなく秩序は保たれつつ完璧な営みを繰りつづけているこの神秘――しかし、それもこれも皆人間の意志がしたのだった。合理を望んでやまぬ人間の智慧がしたのだ。
「しかし、合理とは何んだろう。」
 もう久慈はそこまで触れると答えることが出来なかった。彼はベンチから立ち上り、マロニエの幹の下の瓦斯灯の光りの集中している一点の方へ歩いた。
「徳修まらず、学講ぜず、不善改む能わざる是れ吾憂なり。」
 ふと孔子のそんな言葉が口から出て来たが彼にはそれも汚い言葉のように思われた。長い石の塀に添い樹木の幹の続いている前方の鋪道が坦坦としているにも拘らず、傾いた坂のように見える。久慈はその光線の斜角を縮めていくうちに一匹の犬が真向いの建物の下から出て来た。今まで自分ひとり美の世界だと信じていた楽しみも急に破られ、彼は近よる犬の姿を黒い毒液のような不潔な濁りに感じて見ていたが、それでも近よって来ると懐しかった。彼は蹲み込んだまま犬の下顎を撫でて、
「おい、こら。何んというんだ。」
 と日本語で云った。犬は黙って首を膝へ擦りよせて舐め上ろうとするのを、彼は顔をひきつつまた同じことをフランス語で云ってみた。筋骨の見える痩せたセッタアは両足を腕にかけ眼を光らせ、日向臭い毛並みを垂れて彼を見詰めていた。前脚の蹠がぷよッと冷たく手の甲に感じるただ一疋の生物である。視界に肉眼と云えばそれよりない眼の光りに久慈も犬の首を強く抱き締めた。腕の中に皮膚をそのままにさせながらも、骨骼だけ彼の方へ延び上ろうとする犬の動きを感じると、久慈もだんだん感動を覚えなかなか放れることが出来なくなった。
「お前、毎晩ここへ来なさい。そうすると俺も来るよ。」
 久慈はそう云って頭を撫でているうちにふと千鶴子のことを思い出した。行く手の鋪道を集めている広場から左に折れた所に千鶴子のホテルがあった。彼は通りから見えるその部屋の窓の下まで行きたくなってその方へ歩いていったが、犬も暫く後からついて来た。
「もう帰れよ。また明日明日。」
 久慈は振り返り振り返りして犬から遠ざかった。しかし、今夜に限りどうして千鶴子の純潔さがこのように美しく見えて来たのか、考えれば不思議だった。灯の消えている千鶴子の部屋の窓が五階の上に見え始めると、胸がそわそわして来て胸を一寸揺ってみた。
「どうも変だ。こんな筈はないんだが。」
 とこう彼は呟きながら下から上を仰ぎつづけた。これや恋愛じゃないか、馬鹿馬鹿しいとまた思うと、引き返そうとしたが、丁度良い具合に手ごろなベンチが広場に見附かったのでそこへ腰を降ろして煙草を吸った。窓を眺めながらも、久慈は、完全に慕い合っている矢代と千鶴子の横からこうして自分の羨望している図を思い描き、ひとり手出しの出来ぬ悔恨に淋しくなって来るのだった。
「どうもあ奴たちの恋愛は立派だ。これを壊してなるものか。」
 とまた祭壇を拝むように高い窓を見詰めつづけ、いまいましい感情の鎮まるまで久慈はそこから動かなかったが、一つは、後へ引き返せば自分のホテルへは戻らず前を通りぬけて、また虎穴の真紀子のホテルへ舞い戻りそうな危険を感じたからだった。事実、深夜のベンチに坐っているこのおかしな姿も、半ばはも早や真紀子から逃れ切れない予感のためでもあり、今や沈もうとしている身にとっての一握の藁が千鶴子の窓だとは、われながら思いもかけなかったこの夜の失策だったと久慈は苦笑するのだった。
 ベンチの鉄が露を噴いて冷たく背に応えて来た。久慈は真紀子の寝台の上で見た夢にもし母が顕れて来なかったら、あのとき限り自分は危なかったに相違ないと思った。
 しかし、駄目だ。明日も明後日もあるのだ。危険はとうてい母の夢だけでは防ぎ切れぬ。それならひと思いに真紀子の傍へ戻ろうかとまた久慈は考えた。彼はベンチから立ち上ると千鶴子のホテルの入口へ行き肩で戸を押してみた。戸は無造作に開いた。すると、中へ這入ろうとも思わぬのにもう玄関へ這入り、階段を昇っていった。今ごろは寝入っている最中にちがいないと思ったが、ふともし今ひと眼でも千鶴子に会えれば、どんなことで身に迫っている危機を脱せぬとも限らないと思うある希望に曳かれ、足は気遅れなく戸の前まで進んだ。暫く彼はドアを叩いてみたが千鶴子の起きて来る様子はなかった。久慈は灯のまったく消えた廊下に立ったまま意想外な大冒険をしている自分に気がつき、それではまだ宵に飲んだ酒気から醒めてはいないのだろうかと怪しむのだった。しかし、ドアをまた叩きつづけているうちに千鶴子の起きて来たらしい声がした。久慈は鍵穴へ口をつけ、「僕、久慈だ。久慈。」と呼んでみた。鍵の廻る音がしてから問もなく千鶴子は眠そうな顔でドアを開けた。
「遅くから失礼、一寸、急用が出来たのでね。」
 と云って久慈は、千鶴子の顔を見ず中に這入り椅子に腰かけた。海老色のガウンを着た千鶴子は寝台の裾の方に坐って、
「もう夜が明けるころよ。よく寝入っていたのに失礼ね。」
 と両頬を撫でながら不平そうな笑顔だった。
「今夜きりでもう起さないから一寸つき合ってもらいたいんだ。どうも弱ったんだよ。」
 久慈は椅子の背へ頭を倚らせるいつもの癖を出し、幾らか馬鹿らしそうな微笑で何から話せば良かろうかと考えた。
「どうしたの。お酒まだ醒めないんじゃない。そんならいやよ。」
「いや、酒は醒めてるから大丈夫だ。矢代にも僕の来たこと黙ってるから、君もそれだけは云っちゃいけないよ。」
 こう云い終ってから、しまったと久慈が思った瞬間、もう千鶴子の顔色は変っていて今までの眠そうな色はなくなった。
「君、心配しなくたっていいよ。僕の来たこと知れたってどこが悪い。そんなことが悪いようなら今ごろ来るものか。」
 久慈は強く畳みかけるように千鶴子を制して一寸黙ると、俄かに腹立たしさが込み上げて来た。二人の仲人役をしたのは自分だのにそれを恐れるからには、そんなら一層恐れさせるぐらいなことは知っているのだと、暫く彼も無言のまま緊張するのだった。しかし、いかにも深夜でなくては思いもよらぬ二人の争いだと気がつくと同時に、久慈はマリアを訪うつもりで戸を叩いた今までの決心も、変りはてた気持ちに転じたものだと苦笑した。
「今夜は真紀子さんと僕、お話にならぬことが起って飛び出て来たんだよ。君たち帰ってから酔っぱらってしまって、そのまま今まであそこに寝てたのさ。ところが、お母さんの夢を見て眼を醒したら、だんだん怖くなって実はこっそり逃げて来たんだ。千鶴子さん君どう思うかね。もし僕がうっかり今日のようなことを明日も続けたら、どうしたって真紀子さんと結婚しなくちゃならんと思うんだが、あの人と結婚して女の人から見た場合どう思えるかね、それが訊きたくてやって来たんだ。僕はどうもそれが面白い結果になろうとは思えないんだがね。」
 足さきを見詰めながらときどき慄えるように肩をつぼめていた千鶴子は、初めて納得のいった様子だった。
「でも、真紀子さんの御主人まだウィーンにいらっしゃるっていうお話よ。そんならやはり遠慮なさる方がいいと思うわ。」
「別れて来たというんだよ。」
「でも、そうかしら、ほんとうに。」
「そこは分らないが、しかし、一人こんな所に細君をほったらかしておくというのは別れた以上だからね。ついそれで柄になく同情したのが始まりさ。だって、あんな危い日本人がパリでひとりふらふらしているのを見てられるものか。どこへ転げ込むか分ったものじゃないよ。それでつい、倒れ込むなら一緒の船で来た縁故もあるから、当分はと思って油断してたんだけれども、お袋の夢まで見ちゃ帰って叱られるに定っているし、さてと考え直したところなんだ。実際、僕の身になってみてくれ給え。むずかしいぞ。譬えばまア失礼な話だが、君のような人なら僕は威張ってお袋の前へつれて帰れるけれども、他人の細君じゃね、だいいちお金もうお母さんくれやしないや。」
 千鶴子の顔さえ見れば良いと思って上って来たためか、何んとなく久慈は嘘ばかり自分が云っているように思えてならなかったが、しかし、まだ嘘はどこ一つも云ってなかった。
「あたし、真紀子さんはウィーンから御主人お迎いにいらっしゃるの、お待ちになってるんじゃないかと思うの。きっとそうよ。」
 さきから羞しそうに顔を染めていた千鶴子は、赧らむ自分の顔に急に元気をつける苦心で背を延ばした。
「とにかく、僕は矢代より君の方がさきから知り合いだから、こんなときになると、どっと君にもたれかかってしまいたくなるんだね。まだ僕らは旅の途中なんだよ。何が起るかしれたもんじゃないのだ。まったく今日はしみじみとそう思った。もう自分がさっぱり分らん。いったい、自分とは何んだこれや。」
 ふとこう呟くように云ってから久慈は壁を見詰めたが、何を云おうともう知れている答えばかりだと気がつくと、云いようもない退屈さを感じてまた俯向いた。膝から延びた千鶴子の透明な足首に泛き出た毛細管の鮮やかさが、鋪道で飛びついた犬の蹠のひやりとした冷たさを思い出させ、あれからこれへと渡って来た自分のこうしているさまに、また久慈は溜らなく不快になって来た。
「ああ、もう眠い。帰ろう。」
 と云って久慈は立ち上った。そうして、二三歩部屋の中を歩き廻ってからまた千鶴子の横へ並んで一寸腰を降ろし、
「ね、どっかへ明日から逃げてってればいいね。スイスへでも暫く行って来ようかな。」
「そうね。その方があたしはいいと思うわ。」
「ひとりじゃしかし淋しいなア。」
「でも、あなた真紀子さんを愛してらっしたんじゃないの。あんなに。」
「君にまでそう見えたかね。」
 と久慈は歎息するように云って後へ長くなった。片手を寝台の上へつき顔だけ久慈を見降ろすようにしている千鶴子の顎が柔く二重にくびれて見える。久慈はもうここから帰りたくないと思えば思うほど、いつの間にか越し難い二人となっている遠慮を感じ、延び出そうとする意志をひき締めひき締め、さも何事でもなさそうに下から千鶴子を仰ぎつづけるのだった。
「まったく考えれば馬鹿馬鹿しいと思うんだが、しかし、君、明日の朝になればきっとまた真紀子さん、僕の部屋へやって来るに定ってるんだからね。そしたらもう逃げられないや。逃げるなら今のうちだ。」
「じゃ、危機一髪ね。」
「そうなんだよ。後数時間の運命だ。」
 こう云って久慈は笑いながらも、危機一髪は実はこちらの方かもしれぬとじろりと千鶴子の眼を見上げた。
「でも、そんなこと、そんなに難しいことなのかしら。あたしなら何んでもないことだと思うけれど。」
「そんなに簡単に思えるかね。別に愛してるわけでもないのに、愛してるのと同じような顔ばかりして見せなくちゃならんというんだからな。」
「そんならあなたがいけないんだわ。そんな顔をどうしてなすったの?」
 もう同情はやめだと云いたげに千鶴子は久慈から眼を放した。
「だって、そうだよ。そんなに嫌いじゃなくちゃ、お前を嫌いだなんて顔は僕には出来んよ。まア少し好きなら、その程度の親切はしたくなるのが男というものなんだからな――僕は君みたいに、そんなにはっきり出来る勇士じゃないんだ。明日の朝真紀子さんに来られれば、何んとか嘘をついてまた一日親切な顔をしてしまう。だから、君に相談に来たのさ。君の顔でも見れば逃げられるかとふと思ってしまったんだ。」
 これだけは云うまいと思っていたことをうっかり口にした久慈は、そんなにすらりと自然な告白が出来ると、急に気持ちの落ちつくのを感じたが、しかし、千鶴子には気附かれていないにちがいないと思うとそれもまた安心になり起き上った。
「むかしのよしみですからね。だって、僕はこんなとき、どこへも行けやしないじゃないか。どこへ行くのだ。」
「どういうことかしら。真紀子さんにあたしからあなたの気持ちお話
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