すよ。僕らにも問題ですから、僕ももっと考えておきます。」
 と高は云うと矢代の方を見て、
「矢代さんは雄弁家ですね。僕はあなたの非合理のお説もよく分りましたが、中国の一般の人間は自分に必要のないことは一切考えませんから、愛国心というものがないのですよ。それに長い間中国では軍閥というものが民心を荒しつづけましたから、これから逃げ廻ることばかり考えるのに急がしくって、愛国心からも一緒に逃げる練習も出来たのですね。日本の方では封建制度が完全に行われていたから、大名が変っても民衆は逃げる要がなかったでしょう。それが愛国心の強い原因で、また兵も強いのじゃないかと思いますね。中国はやはり、愛国心の満ちて来るまで抗日はやめられないんだと思います。」
 特に深い云い方ではなかったが、しかし、高の答えは誰から聞かれていても安全な答えだと久慈は思った。それに皮肉も考えればうっすらと混じっている。
「愛国心が満ちたらなお抗日が激しくなりはしませんか。」と矢代は訊ねた。
「ところが、中国は自分から他国へ手を出すよりも、他国に自分の国を譲ることの方がむかしから上手な国ですから、やはりいつでも譲っておくだろうと思います。その方が政府は安全ですからね。」
 高の言葉に第一番に声を上げて笑い出したのは真紀子だった。皆な同時に真紀子を見た。眼の縁をぽッと桜色に染めた真紀子はうるんだ瞼を眠むそうに開け、何がおかしいのかひとり倒れんばかりにげらげらと笑った。久慈は急に腹立しくなって真紀子を睨んだ。見るともなく久慈の視線を感じたらしい真紀子は彼から眼を反らし、
「だって、そんな面白いお話はないわ。おお面白い。中国は面白い国だこと。」
 危くくねらせた斜めの体を、椅子の肱で支えようとしたその拍子に、片手の指に挟んだ煙草の火が、テーブルの縁に擦れぼろぼろと崩れ落ちた。
「何んです。そのざま。」
 久慈は足で絨氈の上の煙草の火を踏み消して云った。
「どうして悪いの。高さんがいらしたって、いいじゃありませんか。」
「失礼じゃないか。」
「だって、ゆうべもお世話になったんだわ。ね、高さん、もっとゆうべはお世話になりましたわね。」
 光って来た眼を高の方に上げた真紀子の鼻孔が大きく膨らみ、赤く濡れた唇が嘲笑を泛べて久慈に反抗するのだった。
「あなたはもう寝なさいよ。疲れが出たんだよ。」
 久慈は真紀子の脇に手を入れ寝台の方へ立たせようとすると、ぐたぐたになった真紀子の身体が、突然強く緊って底から久慈を突き除けた。
「あちらへ行ってよ。あたし、高さんと議論をするのよ。あなたのなんか聞いてられない。合理だの非合理だのって、何んなのそれ。」
 起き上ると、皆の眼をさもうるさげに視線を反らし、真紀子は半眼のままコップを手にとった。
「駄目だよ。馬鹿ッ。」と久慈は呶鳴りつけた。
「煙草。」
 真紀子は久慈の方へ手を延ばした。真紀子のどこにこんな放埒なものが潜んでいたのかと、久慈の驚きあきれて見ている間に、高はもう煙草を真紀子の方へ出していた。
「有りがとう。」
 真紀子はちょっと高に笑顔を向け、ライターを点けた彼の火の方へ跼んでから、また久慈に、
「あなたはもうお帰りになって。面白くない。煙草といえば煙草下さればいいわ。何を観察してるの。」
 久慈は下顎を強く蹴りつげられたようだった。煮えたぎってくるような怒りを圧えているうちにも、ますます喰み出して来る真紀子の美しさに呼吸も荒くなり、くるりと窓の方へ向き変った。
「不合理極まるぞ。」
 久慈の呟いた苦笑にどッと笑いが立ったが、すぐまたぴたりと静かになった。
「何を云ったの。何んだか云ったわね。」
 真紀子は向うを向いた久慈の背を自分の方へ廻そうとして、にたりとした笑みを泛べ、彼の腕の付根を引っぱりながら、
「こっちを向きなさいよ。何も羞しい人いないわ。皆さん船の中の人たちばかりよ。ね、千鶴子さん。あのころは面白うござんしたわね。香港のロマンス・ロードで、春雨の降って来た中で、海を見てあたしたち蜜柑を食べたでしょう。あんな美味しい蜜柑って生れて初めてよ。ああ蜜柑を食べたい。――アデンも良かったわ。塩の山があって、駱駝に乗った隊商が風に吹かれていて。――ほら、あの塩の山のあるところで高さんたちの自動車と会ったじゃありませんか、あなたはヘルメットを冠って、赧い顔をして手を上げたわ。」
「くッ。」と久慈だけ低い声で笑ったが、皆の者は共通に匂う潮の香を浴びた思いで柔いだ眼になった。
 久慈も千鶴子と仲良くなったのは香港あたりからだった。そのころはまだ真紀子は久慈や千鶴子とグループが違っていたので、むしろ真紀子の組と近づきだった矢代の方が、彼女の様子をよく知っているというべきだった。多分真紀子の今話した航海の思い出も、矢代にそのころの何事かを思い泛ばせようがためかもしれぬと久慈は思った。
「良い御機嫌だね。」
 久慈は暫くしてからまた一座に加わった。しかし、そのとき、今までぴちぴち跳ね上るように饒舌っていた真紀子は、急にがくりと千鶴子の膝の上へ折れ崩れて泣き出した。
「あんなことはもう無いのだわ。あんなこと、みんな夢だったんだわ。」
 あまり激しい真紀子の変化に誰もびっくりしている様子だったが、主人と離別して来ている淋しさの噴きこぼれた乱れであろうと、手をつかねた視線のまま蠢めく真紀子の際立った背の白さを眺めるばかりだった。
「もう眠みなさいよ。今夜はこの人疲れてるんだ。」
 久慈は真紀子をひき起そうとして寄ってゆくと、気を利かした高は立ち上って帰る挨拶をみなにした。
「いいんですよ。あたし、泣いたりして御免なさい。何んでもないの。」
 謝る真紀子を千鶴子と矢代は慰めながら立って帰ろうとした。真紀子はそれも引きとめたが、もう十一時を過ぎたからというので、皆はそれぞれ部屋の外へ出ていった。潮鳴りの退いたような静かな廊下に立った久慈と真紀子は、顔も見合さずまた部屋へ戻って来た。真紀子はもう久慈に物を云おうともせず寝台の上へ倒れてまた泣きつづけた。
 久慈は自分のいた椅子に凭れひとりコップを舐めていたが、だんだん嗚咽の声が鎮まるにつれ、真紀子に突き刺さろうとしていた棘も朧ろに凋んでいくのを感じた。
「もう良いだろう。ここへ来なさいよ。」
 と久慈は云った。真紀子は素直に起きて来ると、小娘のような初初しさで少し膨れ、久慈と並んで椅子に腰を降ろした。久慈はコップを真紀子の前に置き軽く溜息をつきながら、
「もう少し飲みなさいよ。」と云って顔を見た。
「駄目。」
 久慈は残っているウィスキーをコップに二はい続けて上げると、今度は妙に調子のとれぬ頓狂な速度で急に彼に廻って来た。しかし、彼はまだ飲みつづけた。肱がテーブルから脱け落ちるのを支え直しているうちに、叫び出したいような腹立しさが昂じて来たが、それでもまだ彼は飲んだ。すると、もう何か脱れたような勢いになり、注ぐのに壜もうまくコップに当らずただかちかちと鳴るだけになって来た。
「あなたもうおよしなさいよ。駄目だわ。そんなに飲んじゃ。」
 真紀子ももう真剣になってとめた。が、真紀子にとめられればとめられるほど久慈は一層やめられなかった。何んとなく腹立たしさが真紀子の物いう度びに高まって来て、もう抑えることが出来なくなった。
「みんな不合理な奴ばかりだ。何んて不合理だ。」
 と久慈は云うと、くらくら廻るように見える部屋の一点を見据えて立ち上ったが、もう足がきかなかった。あたりの椅子の背を伝い寝台の傍まで行って真紀子の投げた薔薇を掴み自分の胸へ差そうとした。しかし、それもうまく差さらなかった。
「あたしが差してあげますから、じっとしてらっしゃいよ。じっと。」
 真紀子が久慈の胸に薔薇を差そうとしている間、久慈は真紀子の肩を掴んで揺り動かした。
「合理がないなんて、そんな馬鹿なことがあるか。ちゃんとあるよ。ここにだってあるさ。」
「そんなものありませんよ。」
 真紀子は薔薇を差す真似をしてから久慈の上着を脱がし、毛布の下へ彼を寝せようとしたが、また久慈はむっくりと起きて来た。
「あるじゃないか。見えるぞ。はっきり見えて咲いてるぞ。」
「何んで馬鹿なこという人でしょう。みんな咲いてますわ。」
「ふん、不合理が咲くか。」
 真紀子は別れた前の良人を扱い馴れた手つきで器用に久慈の靴を脱がし、ズボンを脱がしネクタイも手早く引き脱してから彼を寝かした。仰向きになって眼を瞑っている久慈の眼から涙がしきりに流れて来た。
 真紀子は窓をあけあたりの乱れを片附けてから部屋の灯を一つずつ消した。そして、最後に枕もとのを一つ残したその傍で、前跼みに小さくなって煙草をひとり吸っていた。ときどき彼女は頭をかかえたまま身動きもしなかったが、そのうちに声を忍ばせて静かに泣き始めた。声に混じり煙草の火で頭髪の焦げ縮れる音がじじッとした。


 ――仕立てたばかりの格子模様の洋装で久慈の母が立っていた。久慈は母の紺色の襟飾が長く下まで垂れているのを見上げ、海軍の将校服に似ているねとひやかした。真紀子は傍から張りのある声で、
「これはあたしがお見立てしたのよ。そんなに云わないでちょうだい。」
 と云いながら、またぴんぴんと母の服の裾を下へ引っぱった。
 これはおかしいと久慈は思った。自分が眠っているのか眼が醒めているのかよく分らなかったが、起きているのだと思うとそのようにも思われた。すると、下にいた筈の母親が今度は二階から降りて来て、自分を呼んでいるような気持ちもするのだった。どうもそれが夢らしいようにも思われて来ると、
「馬鹿な。お母さんパリにいる筈ないや。」
 とこう呟いた。それでも母は洋服の似合ったことを真紀子に賞められ、絶えず嬉しそうにそわそわとしていた。
 どれほどたったか分らなかったが久慈はそのうちに眼が醒めた。咽喉がひどく渇いていたので起きて枕もとの電気をつけ、浴室へ水を飲みに立っていった。冷たい水が食道を流れ下る明瞭な重みに急に彼の眠気も醒めて来た。毛布が眠っている真紀子の曲げた膝のままに高まり、小さな黒子のある上唇がかすかに赤く跳ねて灯を受けている。彼はそれを見ていてももう一度その横に眠る気持ちは起らなかった。椅子に腰かけたまま暫くさきほどの母の夢を考えていると、今度は夢とは違い、自分の眼だけ異様にはっきり部屋の中を見ていることが、寒む寒むとした快感に似た安らかな含みに感じられて来るのだった。
 久慈は真紀子を起さぬように足音を忍ばせて靴を履き、それから服を着てそっと部屋を脱け出した。ホテルの外の通りはもう一人の人影もない、全く深夜だった。狭まった高い建物の彫刻の間で早く雲が動いている。石壁に沿って宿の方へ帰ってゆく靴音も久しぶりに自分の音らしく聞えて来た。
 彼は両手を振り振り危くこの自由を無くしてしまうところだったと思うと、真紀子から逃げて来た歩調が充実したものに感じ、石壁に閃めく影も主人の自分に秋波を送っているように見えて、
「よしよし。」とひとり頷いた。
 ホテルの前まで来たとき、視界に誰一人もいない美しさに久慈はすぐ中へ這入る気にならず、通りのベンチに腰を降ろして煙草に火を点けた。冷えきった真直ぐな通りの両側に並んだマロニエの幹が、森森とした静けさで一点に集中していくその直線の見事さ、結晶物の光りのような瓦斯灯が夜の放射の鋭さとなって輝くその設計の巧緻さ。未来の夢が眼のあたりにつづいて青青とした呼吸をし、寒冷な人工の極地の一典型を展いて見せているような世界である。久慈はますます眼が冴えわたって来るばかりだった。
「もう俺は恋愛は出来ぬ。これは恋愛以上だ。あの恋愛のどこが面白いのだ。」
 と久慈は思わず呟いた。
 時計の針が真直ぐに自分の額を射し貫いて来るように、ある恐怖に似た整然たる理智の尊厳優美な冷やかさが、このようにも人間に美しく見えるとは――これは何んという奇怪さだろう。
 久慈はもし自分がこの世で望むならば、これ以上の美しい恋愛の対象を望むばかりだと思った。しかし、そんなものがどこにあるだろう。あれば
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