慈と別れた。久慈はひとり公園へ這入っていった。樹の幹の間で毬を奪い合っている子供の群れの中を通り、編物をしている老婆たちの間をぬけ、左方のベルレーヌの立像のある方へ繁みを廻っていった時、背を見せた真紀子はベンチにかけて手帳に何かを書きつけていた。
「お待ちどお。」
久慈は何んとなく争いの支度をすませた気持ちで、どさりと身体を投げ出すように真紀子の横へ腰かけた。
「俳句よ、こんなのどうかしら。」
真紀子はにっこり笑いながらも久慈を見ず、眼を手帳に落したまま彼の方へ肩をよせて来て俳句を見せた。昨夜のことを一口も訊ねずいきなりこんなにして来る真紀子に、久慈は何ぜともなくたじろぎながら手帳を覗いた。
「とつくにの子ら眠りおり青き踏む――いいね。これは。」
久慈はこう云って後方にある廻転木馬や遊動円木の傍の乳母車の中で眠っている幼児を見たり、前方に拡がった美しい芝生を見たりした。このあたりだけ繁みが枝を空にさし交して下に青い空洞を造り、少し窪み加減のその芝生の中央にベルレーヌの像が立っていた。
「円木の揺れやむを見て青き踏む――」
手帳にはこんな句の他にも一つ、『人待てば鏡冴ゆなり青落葉』というのが消してあった。久慈はこれらの句を見ながらも、そのうち真紀子が昨夜逃げ出していった自分を責めるだろうとひそかに待っていたが、どういうものか真紀子は昨日のことには一切触れる様子は見えなかった。どちらもいうべきことのそれぞれ苦心を持っているときに、何んの前ぶれもなく俳句を持ち出した真紀子の機智には、これを意識して謀んだ彼女の術策かと久慈は暫く疑いもしたが、それにしても出来ている句には心の乱れや汚さがないのを感じ、描かれる明るい句境の気持ちのままほッとべルレーヌの像を仰ぐのだった。三人の裸形の女が下から狂わしげに身を搓じらせて仰いでいる真上に、ぬっと半身を浮かべたベルレーヌの烱烱とした眼光が、何物をかうち貫き、パンテオンの尖塔をはるかに見詰めて立っている。
やはりこの泥酔ばかりしていた詩人も悩んだものは女人のことではなかったのだ。あれが男性の理想を見据えている眼だと久慈は思い、昨夜からの自分もそれに似ている困却の様子を何んと真紀子に報らせたものかと考えた。
「円木の揺れやむを見て青き踏む――その方がいいかな。」
とまた久慈は呟くように云った。
「私もこの方がいいんじゃないかと思うの。」
「いいねその方が。意味が深いし、君の心境もよく出ていてなかなか美しいや。青踏派だな君は。」
久慈は実際に自分たち二人の心中の遊動円木も、揺れやんでいる後の静かな会合のように進んでゆくのを感じ、心に暗示を与えてから徐徐に今日一日の青芝を踏みたいと希う真紀子の努力もよく分るのだった。
「もう一つ二つ作ってあなたから東野さんに見てお貰い出来ない。何んと仰言るかしらこんなの?」
手帳を受け取ってそう云う真紀子の顔を久慈は見返りながら、
「駄目だ、東野さんこんなの俳句じゃない抒情詩だというね、あの人は俳句を踏み込みだというから、見せたってやられるだけだよ。」
「いいわ、その方が。」真紀子は笑った。
「しかし、俳句が踏み込みだなんて、よく分らないね。お負けに僕の足を踏みつけたからな。」
久慈はこう云ったとき東野が足を踏みつけた後で、この痛みどこより来ると云ったその踏み込みの疑問を思い出した。まったくそういえば、ただこのように真紀子と静かにじっと並んでいるだけでは、二人にとって何事でもないのかもしれぬと思った。どちらも互に踏み込み合って乱れた後の静けさからは、まだ遠い自分たちだと気がつくと、ああ、まだこのままには済まぬぞと思い、また女たちを踏み下したまま前方をきっと高い眉毛で見詰めているベルレーヌの心境が、さらに深く内奥で拡がりわたって来るのだった。
その日は真紀子は一日久慈に柔順で優しいばかりではなかった。昨夜とはうって変った淑やかさで化粧も絶えず気をつけ、彼を見上げる眼も細かい心遣いに生き生きと変化し、些細な買物にも久慈のままに随った。食事場も行きつけの店の一二は開店していたので昨日のようには誰も困らず、夕食のときは矢代や千鶴子と一緒に四人はドームで不便なくすますことが出来た。
久慈はもうこの夜は真紀子と別れていることの出来ぬ、最後の夜になるだろうと覚悟を決めていたので、夕食のコーヒーになったとき一同に、
「どうだね、今夜はこれからみなでタバランへ行こうか。」
と誘ってみた。タバランというのはパリでは一頭地を抜いて優秀な踊場を兼ねたレビュー館である。みなの者らはすぐ賛成したが、まだそれまでには時間が少し早かった。
久慈はこの夜はあまりいつものように物を言わなかった。次ぎ次ぎに信じていたものが頭の中で崩れてゆく拠り所のない元気のなさで、食事をしている外人たちの顔もどれもみな鬱陶しく見え、ふと身体を動かすときにも、心の頼りになるのはこの椅子だけかと思ったりするのだった。それでもどうかした拍子に花嫁になろうとしている真紀子の、どこかの一点が突然美しく見えて来ると、行手に光りのさし始めたように心を躍らし、今のはあれは何んだったのだろうと、暫くは頭に残った印象を追ったりした。その度びに、
「まだ俺は美しさが好きなんだ。こんなに美しさが好きなところを見ると、まだ俺は外道なんだ。」とこう思い、そろそろ夜に入ろうとしている自分の変化を感じて来るのだった。
「ね、君。」と久慈は矢代の方を向いて云った。「僕はこのごろときどき思うんだが、近代人の求めている意志というものは美でもなければ真でもない、そうかといって善でもない、あるその他の何ものかだと思うんだが、どうかね君は。」
「じゃ、何んだ、悪か。」
と矢代は事もなげに云ってのけた。久慈は我が意を得たという風に眼を輝かせた。
「そうだ、どうも悪に近いが悪じゃない。例えばこの電気を見たまえ。僕らの求めている電気に似たような、そんな精神は言葉にはまだ無いのだ。だから、たった一つの言葉を誰かが発明すれば助かるのだよ。それがないのだなア。」
と久慈はぼんやりと電灯の光りを仰いで云った。
「愛とか智とかあるじゃないか。あんまり沢山ありすぎて、みんな馬鹿になってるのだよ。こんなにあっちゃまごまごして、何を拾ったらいいのか知らんのさ。遣欧使の堕落だよ。」
「いや、違う、一番肝腎のものがたった一つないのだ。それでみんな屑拾いになったんだ。電気を見てるとどうもそう思う。だいいち、これは物理学でもなければ化学でもないからな。そのも一つ向うの悪の華みたいなものだ。こうなれば、一切の言葉が無になったと同様だよ。」
云い出せばまたきりもなく話し出し、争い出すのを感じて二人は黙った。千鶴子はその隙を見て一同に散歩をしようとすすめて立った。
「言葉が無になったら歩くに限る。」
と矢代も笑いながら千鶴子の後につづいてカフェーから出ていった。前からの様子で久慈は、昨夜から今朝へかけて二度も千鶴子と会った自分を、まだ矢代は知っていないのだと、問わず語らず勘づいていたが、今はそれを云うべき時期でもないと思い、ただ一人それを知って黙っている千鶴子の巧みな装いに応じつつ、こちらも知らぬげにこうして歩いてゆくのは、秘密でもないある正しいものを秘密の色に包み隠し、やがてはそのようにしてしまう奇術に似た運動だと思った。それは忘れようと努力している二人にも拘らず、ときどき視線の合うある瞬間に、まったく二人から独立した生物のようにびりびりと繊細に慄え、振り落すわけにはいかぬ。どんなに遠く放れていようとも、またどんなに二人が嫌い合おうとも、どこまでも延びつづいてやまぬ稲妻のような意識だった。
タバランへ一同の着いたときは九時を少し廻っていた。レビューはもう始まっていた。ここはそんなに広くはなく、舞台で二十人ほどの踊子のようやく踊れるばかりの浅さに、観客席の中央へ能舞台を床の高さに低めてせり出した客の踊場が附いているだけだったが、レビューとバンドの統一された見事さ、またその幕間に踊る客たちの踊りと、舞台のレビューの交錯する瞬時といえども停滞のない俊敏さは、心を巻き込む機械のような格調をもった時間となって流れ迫って来るのである。
一同はシャンパンを舐めながら踊らずにレビューばかりを眺めていた。完全な均整を失わず踊る踊子の並列した裸体と、その一貫した筋肉の美を揃えた総体の開閉、収縮、屈伸が、ことりことりと鳴る単音のような明快さでつづいてゆく。――久慈だけは、ここは二度目だったが他のものは初めてだったから、最初の間は踊りの単調さに何んの感動もなく見ているばかりだった。すると、二幕三幕と淡淡とした確実さで進んでいくうち、間髪の間違いもない同じ調子の運動の持続に矢代は、
「これは素晴らしいところだ。」
と先ず歎声を上げた。
「ほんとにこんなレビュー初めて見たわ。」
真紀子も今までちょうど同じ興奮の伝わっていたことを報らせたい風だった。
舞台から眼を放さない千鶴子も黙ってそれに頷いた。
ところがその舞台の単調な体操に似た二十人の踊りが、弁を開いてゆく甘美な花のように次第に複雑な膨らみを示して来るのだった。
久慈はいまに一同何んともほどこすすべなく陶酔していくだろうと予想していたが、自分ももう興奮を感じ始めた。
「これを見ていると、僕らはやはり東洋人だという気がして来るね。」
と久慈は矢代に囁いた。
踊子たちの胴から腰、腰から脚と眺めていても、緊った乳房の高まりは勿論のこと、腹部に這入った一条の横皺まで同一の人間の分散した姿かと思われるほど酷似した肉体だった。それらの筋肉の律動は、またバンドのリズムに無類に敏感な反応を示しながら、廻し眼鏡に顕れる六華のような端正な開きをし、閉ったかと思うと延び、廻転しながらも捻じれ、細片になっては綜合され、遅滞もなければ早急さもないある一定の、ことりことりという死のような単調さで総てが流れていくのだった。
「凄いなア。」
久慈は見ているうちにそれが人間の踊りとは見えなくなって来て云った。真黒な天鵞絨の緞帳を背景にして、踊る人間の全系列を支配した幾何学模様のその完璧化は、名状しがたい華奢なナイフの踊りのように見えて来るのだった。そうして、幕が降りると、観客を中央へ吸いよせるバンドが急調子に噴き上った。
「踊りましょうか。」
と真紀子はもうこれ以上見てばかりではおれないらしく久慈を見て誘った。久慈は真紀子と組み、千鶴子は矢代と組んで客たちの中へ流れていった。めぐる度びに矢代の背から顕れる千鶴子と久慈はときどき視線を合せた。しかし、千鶴子は、昼間の動揺を悔む手堅さで一層矢代への親しさを泛べ正しく廻った。千鶴子のその微笑に、久慈もまた自分の支えている真紀子をいたわるターンが深まるのだった。
幕が上ると、客席へ戻る客たちの揺れやまぬ間に、もう舞台では空中に吊り下った月の輪を中心に、三つの弁となった人体のゆるやかな踊りが始まった。鳥の毛を頭にさした裸女の群れが、その皮膚を舞台いっぱいによせ合い、下からじっと月を仰いで動かぬ一面のローズ色の雲の形となり、静かに月に随って棚びき流れていく。すると、見るまに舞台いっぱいに拡った静かな雲の一端が、どっと溢れて客席の踊り場の中へ雪崩れ下った。そして、溌剌としたピッチの踊りに急変すると、旋回しつつ左右に分れてはまた一つに収縮し、月の吸引のまま再び舞台に逆流していった。その後を客たちは、潮にひかれる人の群れのように総立ち上って踊り場へ流れ込んだ。久慈は舞台の上と下とのそれらの踊りの合一していく壮観さに、思わず立って今度は千鶴子と組んで流れた。矢代も真紀子と組んだ。翻る度びに肩越しに閃めく真紀子の眼が青く光っては遠ざかりうっとりとした半眼でまた顕れる。舞台の空中の月は招くように銀色の輪から腕を延ばし、脚を廻し、雲と人とを見詰めては光りを放ち変えていくのだった。
「真紀子さん、今日はどんな御容子でして?」
千鶴子は昼間の首尾も気がかりなのか胸を反らし、初めて久慈を仰いだ。
「なかなか平
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