の間で、ランプのホヤがじいじい静かに蝉のように音を立てた。
「このあたりはびっくり箱だね。」
レモネードを飲みつつ薄暗いあたりを見廻してそういう久慈に、矢代は、
「機関銃で撃ち合うというのは、それやどこだ。それもびっくり箱の口か。」と訊ねた。
「夜中にこのあたりのアパッシュ連中、縄張り争いでやり合うらしいんだよ。しかし、東野さん、それや本当にやるんじゃなくって、旅客優待の御馳走でやってるんじゃないですか。どうもこのあたりは少少怪しい。」
「それや、自分で識らずに優待していてくれるんだよ。」
と東野は澄した顔で答えた。初めは何の意味か一寸分りかねる風の二人だったが、急にまた笑い出した。
「いや、案外これで市役所から月給でも貰っていて、さっきのカフェーじゃないが、実演の芸をやってるのかもしれないね。」
と久慈は今度は生真面目に考え込んだ。
「しかし、芸にしたって死ぬ芸だから芸にはならん。生きてこそ芸だからな。さっきのあんなのはあれは、あんまり生きすぎて間違ったんだ。芸はどこか一点だけ殺さなきア嘘だ。」と東野は云った。
「とにかく、今夜はその機関銃を一つ見届けようか。それとも、本物の女を見にいくか。どうも今夜は少し自然に還りたいね。」
と久慈は矢代を見てにやりと笑った。
「とうとう甲を脱いだな。しかし、あそこのカフェーが本物の女だったら、僕らは今ごろこんなお寺の前なんかにいられるもんか。」
と矢代は云って眼の前に聳えた白いサクレクールの塔を仰いでみた。
「じゃ、今夜は極楽往生としとくかね。どうもしかし、論争のない世界という奴は面白くないものだな。仕事がなくなったみたいで。いやに仲ばかり良くなるのは、これや、神さま何か間違ってるぞ。」
と久慈は云ってお寺の塔を振り仰いだ。
「このお寺を山の上へ建てるだけで、どんなにパリの人間馬鹿な苦労をしたか知れぬのだからね。毎晩機関銃ぐらいは鳴ろうというものだ。むかしの人の苦労を忘れちゃ罰があたるぞと、お説教しているようなものだ。」
東野はお参りに山へ来たのを思い出したらしく、軽くサクレクールに向ってお辞儀をした。矢代の眼はそのとき一寸光りを帯びた。
「東野さん、あなたもやっぱり、人間の苦労が馬鹿に見えることがありますかね。ときどき僕にもあるんだが。」
「いや、それや、僕が第一、せっせと馬鹿な苦労をしたからだが、しかし、誰か一人が馬鹿なことをすれば、良いことをしているものでも人間は同罪になるらしい。そこが人間の面白さじゃないかな。とにかく、下へもう降りよう。それから今夜は一つ、君らのその自然に還るところを見せてもらいたいものだな。」
「ようし、人間は同罪だ。行こう。」
と久慈は云って勘定を命じてから立ち上った。
「そこで真剣勝負だぞ。」
と矢代も云った。間もなく、三人はそれぞれ自分の影を後ろに倒しつつ山から下の遊び場の方へ降りていった。
パリではモンマルトルの麓に一番高級な踊場が沢山ある。その中の一二を争う家を選んで三人は中へ這入った。メイゾン・ルージュは中が全部紅いだった。あまり広くはない正面の楽師たちに絡りついている真鍮の楽器の管から、しっかりと音締めの利いた音がもう久慈の胸中に吹き襲って来た。ふと彼はそのとき真紀子と逢う用事のあったことを思い出したが、椅子へ腰を降ろすと忽ちそれも忘れてしまった。踊子たちが三人の傍へよって来た後から、すぐシャンパンが氷につかった桶のまま運ばれた。部屋の中央で踊るものは踊り、休むものは椅子に休む。
「ははア、これは千九百二十六年のだな。」
と東野はシャンパンのレッテルを読んで感心した。東野の説明ではその年はここ五十年間のうち一番良質の葡萄のとれた年で、味もその年のが断然良いとのことである。西印度生れの歯の白い混血の踊子は締った良く動く体で、休んでいる暇にも音楽に合せて笑い、振り向き、話しつつ膝で拍子をとっていた。間断なく鳴りつづけるバンドの調子を客の心も脱すわけにはいかない。絶えず上へ上へと浮き上っていくリズムは、船が船客をつれ歩くように室内の空気を果しなく揺っていく。カルメンのように顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]のカールを渦巻き形にしたイタリアの女は、シャンパンの世話をするにも絶えず笑っていた。何がそんなに面白いのかと思わせるような笑顔は、踊子だけではなくどの客も同様だった。それもバンドがそんなに鳴りつづけていると、もう部屋には特に音楽が満ちているとは感じない。ただ心は何ものかある中心に向って前進していくばかりだった。
「ここの女は本物だぞ。まさかこれまで嘘じゃなかろう。」
と久慈は云ってイタリア人の肩を撫でてみた。
「しかし、これも自然じゃなさそうだよ。」
と矢代はコップを上げ理由もなくまた笑った。
「そうだ、もうこれや、どこへ行っても僕たちは自然に還れそうもなくなったよ。乗せられてばかりだ。どうです、東野さん、まだあなたは俳句を考えているんですか。」
と久慈は浮き浮きしながら東野の顔を覗き込んだ。東野はイタリア人の腕を握ってみて、
「この婦人はね、僕にどうしてそんなに淋しそうな顔をしてるのかと訊ねるんだが、そんなにまだ僕は淋しそうかな。」と訊ね返した。
「うまい、このシャンパン。」と矢代はひとりコップを上げていた。
「しかし、こんな婦人から淋しそうだと云われると、どうも妙な気がするね。千年も前からつづいている電話の線が尻っぽにくっついていて、そこから話が出て来る電話を聞いてるようなものだ。」と東野は云った。
「おい、君は電話だそうだよ。はははは、電話と一つ踊ろう。」
と久慈はもうよほど酔の廻った体でイタリア人の腕を吊り上げた。矢代も西インドをつれて踊った。そこへ花売が薔薇を持って来ると、傍にいたフランス人の踊子がそれを買っても良いかと東野に訊ねた。薔薇を見もせず東野は首を一つ動かした。すると、日本でなら二十銭の小さな薔薇の値段が三十円だった。三十円が五十円であろうとバンドはすでに東野の頭をもいつの間にか浮き上げているのだった。部屋の隅から、客のシャンパンばかりをじっと見詰めているユダヤ人らしいマネージャーが、時間を計って氷に万遍なくシャンパンの触れるようにと壜を廻しに現われた。コップに注がれるシャンパンに随ってテーブルの上に皿が重ねられ、その皿の数が遊興費となる踊場では、頭が朦朧となるにつれて皿の柱も延び上っていく仕掛けだった。久慈が踊って椅子へ戻って来る度びにイタリアの女は東野に踊ろうと迫ってきかなかった。
「いや、電話とじゃ踊れないや。」
と東野は日本語で云った。分りもしない日本語の癖に女は相槌を打って笑った。もう三人とも誰の話も聞こうともしない。踊子らにシャンパンをすすめながらそれぞれ勝手なことを話しているうちに、
「ほう、これはどうじゃ。」
と矢代が高く柱となって延び上っている皿を見て笑った。
「ははア、元気がいいな。生きとるぞ、こ奴。」
と久慈も面白そうにテーブルの上の皿を見ながら笑った。初めは一本だった皿の柱が二本になって延びていた。いつの間にか客たちは部屋いっぱいになって来ていたが、三人はもう他の客の顔など見えなかった。イタリアの女は一番女たちから敬遠される東野を気の毒がって彼ばかりに話した。東野は日本流の手相を見てやろうと云ってそのカルメンの手を開かせたり、イタリアへそのうち行きたいのだがいつが良いかと訊いたりしている間にも、久慈と矢代は元気よく踊りつづけていた。そのうちに二本だった皿の柱が三本になり始め、雨後の筍のような美しい節を揃えてそれぞれテーブルの上で競い立った。
「これは面白い、真剣勝負をやっとるな。」
と久慈は云うと、まるで育て上げた子供の背の高さを見る風な楽しげな眼つきで皿の柱を眺めていた。
「とうとう自然に還ったか。」
と東野は云ったが、客の消費量を隠そうともせず眼の前に見せつけつつ時間を奪う、これでもかという遣り口に矢代はもう反抗心を起して来たらしい。
「よしッ、もっとやれ。」
と云うと彼はシャンパンを自分で注いで踊子たちにも振り撒いた。一歩斬り込んで来たようなこの矢代に、久慈も負けてはいなかった。口に上げるコップのシャンパンが半ばは手の甲にこぼれてしまうほどだったが、それでも立って踊りにいってはまたシャンパンを胸までこぼした。この間にもほとんど休んだことのないバンドは、目的物に肥料を与えるように皿の柱を延ばすのだった。
ひと踊りすませて戻って来た久慈は、椅子にどかりと凭れたとき、ふとまたその皿の柱が眼についた。すると、突然その柱の形態から、ノートル・ダムの内陣の四隅の屋根を支えている、脊椎のような細かい節を無数に積み重ねたあの柱を思い出した。
「あ、ここはこれやお寺だ。」
と思わず久慈は声を上げた。
「お寺だ? そうかもしれんぞ、どうもお経を誦まれているような声がするよ。よし、もっとやろう。」
と矢代は云ってイタリア人とまた踊った。いつ誰がどうして飲むのか分らなかったが、妙に皿だけが不思議な速度でひとり勝手に延び上った。
「こ奴、まるで知性みたいな奴だな。」
と久慈は皿が眼につく度びに、「ふふ。」とひとり笑ってシャンパンを飲んだ。マネージャーは一同の笑いさざめいているときでも、一片の笑顔も見せず、黙黙と現れ、細心の注意をもって氷の中のシャンパンの面を廻しては皿を積んでまた姿を消した。東野は久慈と矢代の張り合いがいつ果てるとも分らぬのを感じたのであろう、軍配を上げるように、
「さア、もう帰ろう。」
と二人に云うとイタリア人に勘定を云い附けた。すぐ来たビルを見ると二千フランあまりになっていた。三人は財布を合せて外へ出てから、東野のホテルで夜を明そうということにしてまたモンマルトルの坂を登った。
時計はもう夜中の三時を廻ろうとしていた。人通りはまったくなかった。黒黒とした高い建物の間で冴え返った瓦斯灯が月光のような青い光りを倒していた。真紅の色と音との世界から急に変った深夜の底の静けさなので、三人は暫く黙ってそれぞれ一人ずつ放れたまま歩いた。すると久慈は突然矢代の傍へよって来て首をかかえた。
「おい、チロルはどうだった。」
今ごろ初めて旅のことを訊く久慈に矢代も返事のしようもないらしく、「うむ。」と云っただけで後は黙った。
「うむか。まア、そう云ったところか。」
「氷河はいいよ。」
「氷河のことじゃないよ。」
「じゃ、何んだ。」
「お前は馬鹿な奴だ。あれほど忠告したじゃないか。結婚をしなさい結婚を。君の日本主義は幼稚だけれども、君は僕にとっちゃかけ替えのない人だ。千鶴子さんと結婚してしまいなさいよ。じゃなくちゃ、日本へ帰ったら、きっと君とあの人とはもう会うことはないにちがいない。」
「僕の日本主義が何ぜ幼稚だ。日本人が日本主義になるのあたり前の話だろ。」
と矢代は久慈の廻している腕を掴んで顔を見た。
「幼稚だよ君のは、そんなものなんか、ここで威張ってみたって、いったいこのパリで誰が真似してる。」
「真似の出来る奴が、誰がいるのだ。」
「こ奴。」と云うと、久慈は矢代の首を揺り動かした。
「真似の出来ん品物を売り出して、成功したためしがあったか、真似さしてこそ豪いんじゃないか。」
「じゃ、君は何んの真似してるんだ。」矢代はまた詰めよって云った。
「僕は世界の真似をしてみせてやってるだけだ。真似一つ出来ずに威張ったところで、それや、真似が出来んということだよ。」
「いつまでの猿真似だ。」
と矢代は云うと久慈から身体を放そうとした。
「真似出来んものなら出来るまで一度してみろ。それが修業というものだ。僕らがここのこの坂をせっせとこうして登っているのは、何んのためだ。君は真似も一つして見ずに、この急な坂が登れると思うのか。ふん、ここは胸突き坂だぞ。それも世界の胸突き坂だ。もっと胸を突かれて修業しろ、しろ。チロルでいったい何を君はしてたのだ。」
と久慈は云うと今度は矢代の身体をぐんと突いた。矢代は石壁によろけかかった身体を片手で跳ね返しながら、
「君
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