は歴史という人間の苦しみを知らんのだ。日本人が日本人の苦しさから逃げられるか。逃げるなら逃げてみろ。」
 抜刀するような勢いで放れて行こうとする久慈の身体に矢代が再びぶつかって行こうとしたとき、後から登って来た東野は二人を引いた。
「おい、一寸、やってるよ。」
 久慈と矢代は振り返って東野の顔を見た。その間にも、大掃除のときの畳を叩くような機関銃らしい連音が少し籠り気味に、遠くの方から鮮やかに聞えて来た。まさかと思っていたこととて暫くぼんやりしながら耳を立てていた久慈は、その音からふと東京の郊外の書斎で深夜よく聞き馴れた練兵の機関銃の音を思い起した。すると、一瞬奇妙な生ま生ましさで自分の部屋や机が眼に浮んだ。
「やっとるなア。」と矢代は瓦斯灯の光りの中を貫いて来る音の方を見詰めて云った。
 三人はまた並んで坂を登っていったが、もう誰も物いうものはなかった。空気を弾く明快な単音は暫くつづいてからぴたりと停った。森閑となった坂を入り交った三人の影が長く打ち合いつつ、前後に剣のような鋭さで折れ変っていった。石畳の上を水の流れ下って来ているあの小路を曲った瓦斯灯の下まで来たとき、真黒な服装の女が誰かを待つ様子で一人じっと立っていた。その傍を通り抜けてから間もなく久慈は後ろを振り返って見た。鳥打の黒いジャケツを着た男が膝で女の腰を一蹴り蹴って上りの額を受けとると、また疲れたように黙黙と二人並んで坂を下っていった。


 剃刀をあて終え眠りたりた気持ちで久慈はカラアを取り替えた。通りをへだてた前の、建築学校の石の屋根の上に一面生えている草の中で、垂直に立ち連った菖蒲の花が真盛りである。久慈は沼の岸べを見る思いで菖蒲の上の水色の空を眺めていると、教師の眼を逃がれて来た生徒たちらしい、散兵のように一人ずつその雑草の中を這い登って来て、日当りの良い位置をそれぞれ選んでひっくり返った。遊ぶ閑の少しもない厳格さで有名な学校であるだけに、屋根の上で生徒たちの忍ぶ散兵も見ていると滑稽な景色だった。あるものは早朝から夜中の二時三時まで学校から帰らず、机に獅噛みついて製図や計算に勉めている姿を久慈は毎夜眺めていた。
 そのとき、ノックがしたので久慈は戸を開けると珍しく千鶴子が憂いげな顔で立っていた。久慈はネクタイを締めつつ千鶴子に椅子をすすめた。
「お珍らしいな。旅行は案外早かったようですね。」
 自分が早く帰れと矢代に手紙を出したのを久慈は思い出したが、まさか手紙のままそんなに早くなろうとは思わなかっただけに、久慈とて千鶴子と矢代の早い帰りが先日からの疑問だった。
「でも面白かったわ。チロルはあたし忘れられない。ほんとにいい所よ。」
 千鶴子は前の建築学校の屋根をうっとりとした眼で見ているうちに、
「あら、あんなとこで日向ぼっこしてるわ。」
 と急に面白そうに笑った。
「フランスは田舎のどこへ行っても雑草というのがないからな。屋根の上へ雑草を植えてそこを野原にしょうという趣向なんだ。これだけ日本と違うんだから、どうも僕らは追っつけたものじゃない。」
 久慈は洋服を着替えてしまうと寝台に腰かけ、さて今日はこれからどこへ行こうかと考えた。
「へんな国ね、フランスって。」
「へんなことはないさ。終いにはどこだってこうなるんだから、まア登り詰めた超現実主義はこういうものだと思えば、何もかも面白い。矢代はあれは、面白さを理解しようとしないんだからな。あれもまたどうしてあんなに、殺風景な男になっちまったものだろう。」
「そうかしら。」
 千鶴子は不平げに低く云ってまたぼんやりと屋根の上の花菖蒲を見つづけた。
「そうかしらでもなかろう。悪ければまアお赦しを願うが、――どうしてまた君は矢代を動かさないんです。チロルまで後を追っていって、結婚の準備一つもして来なかったなんて、何んだ、他愛もない。」
 ずけずけと久慈の云うのに千鶴子はもう心を動かされることもなく眼を細めたきり黙っていた。
「僕は君さえ介意《かま》わないならいくらだって骨折るけれども、どっちも何も云わないのだから、押してみようがない。一人でああかな、こうかなと思ってみているだけで、一番馬鹿を見るのはどうも僕のような気がするんですよ。え、どうなんです、いったい?」
「あたしも分んないわ。そんなこと。」
 と千鶴子は張りのない小さな声で云うとかすかに笑った。心の底に低迷している愛情のほッと洩れこぼれたようなその千鶴子の微笑を、久慈はなかなか美しい表情だと思った。
「しかし君、どっちも好意をそんなに持ち合っているくせに、どっちも隠しているというのは無意味だと思うね。それともまだそんな風に物静かにしている方が楽しみが多いというのならこれや別だが、そういう風流なお二人とも見えないや。」
 千鶴子は椅子の背に腕を廻し振り返ると、
「何んだかお一人で騒いでいらっしゃるのね、面白い方だわ、あなた。」と久慈を薄眼で見上げて笑った。
「とにかく君たちは、僕とは恐ろしく趣味の反対な人たちだよ、古典派というのかね。お行儀はいいよ。」
 窓の外へ乗り出すように欄干の鉄の蔓を掴んで久慈は下の通りを覗いた。太い足の爪の附け根に毛の生えた白い馬が車を曳いて通る。竿のような長いパンを数本小脇にかかえた女が、片側に二列ずつ並んだ街路樹の青葉の間を縫って歩いてゆく。からりと晴れている空にも街にも微風さえないのどかさだった。
「あたしね、ロンドンへ一寸帰ろうかと思うのよ。またすぐ来てもいいんだけれど、それとも、もうそのまま日本へ帰ろうかとも考えてるの。」
「もう少しいなさいよ。巴里祭までいなきゃつまらないな。また出て来るにしたってなかなか億劫だし、それに君こんないい所はもうないよ。実際ここは素敵だ。僕は自分がパリにいるんだと思うと、もうそのことだけで幸福だ。石の屋根の上にこんな菖蒲の花が咲いてるんだからな。楽しんで見なさいよ。罰があたるぞ。」
 久慈は微笑しながら菖蒲を眺め建物の上に流れている浮雲を見ているうちに、ふと紅海を渡って来る船中での千鶴子との親しかった日日を思い出した。それは恋愛というべきものではない、心やすさのままな自由な交際であったが、そのころはまだ千鶴子は矢代ともあまり言葉も云わない間だった。それがいつの間にかうかうかとパリに夢中になっている隙に、久慈は二人の結婚の斡旋を喜ぶ位置に変っているのである。一つは矢代が千鶴子との接近をある一定のところがら動かそうとしないのも、船中での自分と千鶴子との親しさを見知っている遠慮も、まだとりきれないのであろうと久慈は思った。
「真紀子さんはまだずっとこちらにいらっしゃるのかしら。」
 千鶴子は久慈の傍へよって来て同じように欄干から下を覗きながら訊ねた。ドイツを廻っていた矢代の留守中、ウィーンから突然出て来た真紀子の部屋を、矢代のホテルの部屋にしておいたまま彼が帰って来ても移さずじまいで、ただ矢代を真紀子の下の部屋へ移したきりであったから、千鶴子には同じホテルにいる二人の動静も気がかりの種になっているのかもしれぬと久慈は想像した。
「真紀子さんも日本へ帰るような口振りでしたよ。ホテルを変えたっていいんだけれど、すぐ矢代が帰って来たから変えるというのも、無作法だからな。しかし、そう心配したもんでもないでしょう。」
「まア、いやな方。」
 千鶴子の顔の染まるのをいくらか嫉妬めく心で久慈は見ていた。彼には誰が誰とどんなになろうと、そうなればなっただけパリ生活の深まりを見る思いに染まっていたときとて、千鶴子のとやこうと気遣う気持ちも、渦中に吸い込まれる花弁を見るようにまたそれも楽しみの一つだと思った。しかし、今日は千鶴子はどういうものかいつもより久慈には美しく見えてならなかった。
「久慈さんはほんとにお変りになったのね。何んだかあなたは、いけない変り方をなすったように思うわ。」
「矢代だってそうだよ。あんなに変えたのは君の責任も大いにあるね。このパリに来ていながらわざわざファッショになるというのは、だんだん日本人の君ばかりが眼について来たからだよ。世界が千鶴子さんばかりに見えて来てるんだね。早くもう矢代をつれて、あなた帰ってしまいなさいよ。あの男は堕落した。」
 千鶴子の喜びそうな一点を見つけてそこへ捻じ込むような無理な久慈の攻撃も、千鶴子にはもう戯れのように見えるらしかった。
「ファッショだなんて、そんな――立派な方が真面目に考えてらっしゃることを、そんな不真面目な言葉で片附けておしまいになるもんじゃないわ。もし間違いにしたって、それや苦しんでらっしゃるにちがいないんですもの。あなたの方があたし、よほどファッショに見えてよ。」
「何んだ。君はもうそんなに溺れてるのか。」
 と久慈は云うと突然空を仰いで笑った。
「何んでもあなたはそういう風儀に、物を解釈なさるのね。ほんとに意地悪よ。」
 しかし、久慈は千鶴子が矢代をファッショと云うことに同意せず、却って自分の方をファッショに見たということには、無下に彼女を無知として排斥するわけにはいかなかった。たとい自分が冗談に云ったとしても、千鶴子にたしなめられたことは、考えれば久慈も痛さを感じるのだった。
「僕の方がファッショか。まア、それは一応よく僕も考えよう。」
 久慈は窓から引っ込み寝台の上へ仰向きに手枕のまま天井を眺めた。
「だってそうじゃありませんか。矢代さんのような知識のある方が、ファッショになんかなれば、日本へ帰れば誰も相手にしなくなること定ってるんですもの。そんな損なことだとはっきり分っていることでも、どうしてもその方が正しいと思われたのなら、あたしそれで美しいと思うわ。誰だって真似の出来ることじゃないと思うわ。」
 久慈は寝ながら窓の方を見ると、まだ矢代を弁護したそうな緊張した千鶴子の額に光線が流れ、髪が青空の中に明るく透いてますます美しく見えるのだった。一昨夜矢代や東野からさかんに痛めつけられた久慈だったが、今の千鶴子の柔い言葉が一番胸に強く応えているのは、ただ婦人だからだとばかり言いきれぬものがあった。
「もう少し云いなさいよ。千鶴子さんはなかなか云い方が上手いや。聞くよ今日は。」
 こう久慈の云っているとき、刺繍学校へ通っている隣室のルーマニアの娘が小声で歌う唄が聞えて来た。いつも階段で擦れ違うだけで話をしたことがなかったが、近ごろ愛人の出来たらしい様子は日曜日のいそいそとした明るい素振りなどでもよく分った。久慈は隣室の娘の晴やかな歌を暫く黙って聞いていてから云った。
「いい気持ちだな。映画のパリの屋根の下じゃ、こういうときにどっかから手風琴が聞えて来たが、今日のはファッショのお説教か。」
「じゃ、外へ出ましょうよ。あたし、今夜は塩野さんのお約束があるんですのよ。また夜会なの。いっかも日本の鮭の缶詰をこちらへ輸入する下工作の夜会があったのよ。その鮭まだなんですって。ほんとに夜会は疲れていやだわ。」
「鮭のお使いだな。竜宮みたいでいい話だな。」
 と久慈は云って起き上って来ると鎧戸を閉め、千鶴子の後から部屋を出た。階段を降りて行った下の手紙箱に日本の妹からと、旅行に出た会話の教師のアンリエットからと、二通手紙が久慈に来ていた。アンリエットは千鶴子がロンドンへ廻っている間に久慈と親密になった間だったから、特に理窟をつけて云えば、久慈と千鶴子との船中での親しさを裂く役目に効果のあった人物だった。しかし、久慈にしてみれば、パリでの婦人との恋愛に似た感情の動きのごときは一種の装飾のごときものであったので、彼こそどちらかと云えばパリに恋愛を感じているものと云える。随ってまったくこういう久慈とは反対に、故国の日本にいとおしさを感じている矢代と千鶴子との日に増す親密の度も、彼には自然に見えて淋しさも感じなかった。浮き流れる心――こういうものは故郷にいるときとは別して旅は早く移り変って抵抗し難いものがある。


 久慈はホテルを出るとカフェー・リラのある方へ歩いた。行き違う人の靴がひどくきらきらと眩く光った。道路も日光の反射でときどき面を打つ
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