一台の自動車が開いた屋根に人を満載して通った。その屋根の上から拳を握って振り上げた者たちが、「フロンポピュレール」(人民戦線)と一斉に叫んだ。すると、道の両側を歩いているものらまで握った拳をさし上げてそれに和した。
「いつの間にこんなになったんだ。刻刻変ってるんだなア。」
 と矢代は遠ざかっていく自動車を見て云った。
「もうこれは毎日さ。」
 と久慈は、来るべきものが来ただけだと云いたげな顔だった。
「これもすぐ日本は真似するんだろ。」と矢代は笑った。
「もう出てる。」と東野は云って、「映画や写真機や電気は、どこの国にも伝統がないからすぐ競争が出来るが、思想も伝統のない種類のこんなのは、一種の形式だからね、すぐ流行して次のが出て来る。自動車の形が、毎年変るみたいなものだ。」
「しかし、そう云えば伝統だって、これで一種の伝統的考えという形式になって来たな。お寺はお寺、科学者は科学者という風に。久慈だってそうだな。君は思想の形式だけを思想だと思ってる技術家だよ。」
 そういう矢代に久慈は一歩前から振り返り、
「モンマルトルへ行こう。それから真剣勝負だ。」
 と云って地下鉄の方へ歩いていった。
 地下鉄の前では一人の青年が沢山のパンフレットを胸にかかえ、「これを買え、ここにはパリのブルジョア二百五十家の住所と家族が皆書いてある。いざ事が起ればすぐさまこ奴らを叩き潰せ。」と叫びながら売っていた。
「日本のブルジョアというのが、ここじゃ二百五十もあるんだからな。そこへいくと日本はたった二つだ。たった二つならあんまり日本は貧乏すぎて、資本主義などと云えたものじゃない。」
「そんなら、まだ増やすのか。」と久慈はまた矢代を振り返った。
「そうだ。せめて百ぐらいにしないとここの文化には対抗出来ん。日本政府の一年の予算金額と、パリ市一年の予算額と同じじゃないか。これで資本主義がどうのこうのと云ったところで、ぶち壊す資本主義がどこにあるというのだ。日本は奈良朝時代から円心主義ばかりで来た国だ。その資本主義のない国で、左翼の論理を振り廻したところで、結果は弟が親や兄貴を叩き殺すだけになって来る。そんなことが、日本人に出来るわけのものじゃないよ。」
「日本が円心主義で来たとは、それやどこから出て来た意見かね。」
 と久慈は炭酸ガスのむッと襲うメトロの入口を降りながら矢代に訊ねた。
「そんなことは歴史に出てるじゃないか。天皇がお寺を崇拝されると、お寺が寺領を沢山持つ。そうすると、これを藤原氏に縮小させられる。次ぎにはお寺に代って藤原氏が権力を握って荘園を増すと、後朱雀天皇は関白頼通に相談せられて荘園の解放をはかられる。次ぎには武士だ。これが専断を行うとまた民衆の味方となって、これを圧えられる。質屋と酒屋が武士に代って民衆の血を絞り始めると、またすぐ武士に命じてこれを叩かれる。日本の政治は円心主義の連続だ。論理が表へ立たず道理が表へ立って明治になったところへ、君の好きなヨーロッパの知性という奴が這入って来たのだ。こ奴は分析力だから何もかも分析して、道理も感情も分析し始めたのが、大正昭和というところだ。分析すれば親も主人も有り難くなくなって、有り難いのは自分だけだ。ところが、その自分まで分析し始めて見ると、実につまらん自分だということが分って来たのだ。いったい何が有り難いのかさっぱり分らんというのが、つまり知識階級という人間だろう。僕らはこんな筈ではなかったのに、いつの間にか、こんなになってると気がついて、ふと見上げたところがこの国だ。ここには真の自由の精神があるだろうと思って、胸躍らせて来てみたのに、左翼と右翼の喧嘩以外に、まだ僕には見つからん。ああそれがあれば――」
 と矢代は云って急に地下鉄の階段の真ん中で立ち停ると、
「これや、炭酸ガスばかりじゃないか。」と突然叫ぶように云った。東野は天井を仰いで立ちはだかっている矢代の袖を引きながら、
「まア良かろう。行こう行こう。人間は見るだけは見とくもんだ。」と云いつつメトロに乗った。
「モンマルトルで一つ、軽機関銃で撃ち合いするところを見よう。」
 久慈が二人の先に立って座席を探しているとき車は動き出した。


 メトロを出たモンマルトルの一帯は、薄靄の底でゆるく傾き流れた光りの海に見えた。立ち連んだ遊び場もモンパルナスとは違いここは古風な潤おいを湛えている。三人は街の賑いから放れて頂きの方へ高まる坂路を登っていった。陶器のような割石を詰め並べた道路も凸凹のままによく辷った。青い瓦斯灯の軒から出ている屈曲した坂路には、もう人通りは誰もなかった。ときどき接吻したまま立木のようにいつまでも動かない黒い人影の傍を通る度びに、ぴたりと三人は話をやめた。
「西条八十という詩人があるでしょう。あの人はここを夜一人歩いていたら、後ろから突然首を締められて、三十分ほどしてから気がついたら、自分がここの坂の真ん中で倒れていたとか云ってらしたな。」
 と東野は云ってそのあたりを見廻した。森森とした坂の中で東野の声はよく響いた。古びた血のような色の建物はみな窓を閉めていて、道の割石の弛んだ隙間がタッチの凄い鱗のように黒くうねうねと這い昇っていた。
「今夜はどういうもんか、論争がしたくて仕様がないな。山にいたからかね。」
 と矢代は低く呟いた。
「相手に不足はないぞ。」
 笑いもせず見返る久慈の精悍な額へ青葉を透した瓦斯灯の光りが鋭く流れた。
「もうどこもかしこも政治の話ばかりだが、これで巴里祭の右翼と左翼の衝突が見ものだな。君らの論争も良い加減に結論をつけておかないと、七月十四日には血を流すぞ。」と東野は坂路の息苦しさに立ち停りながらもひとり笑った。
「昨日はもう人民戦線の歌が出来たというからね。国歌はマルセエーズじゃなくて、人民戦線の歌だというのだ。」
 そういう久慈に矢代は、
「右翼のマルセエーズが革命歌じゃないか。それへまた革命歌か。」と面白そうに笑った。
「幾度革命が来たって、お寺だけはいつまでもあるのだ。」
 東野はすぐ頂上に聳えて来たサクレクール寺院の尖塔を眺めて云った。頂上へ近づくに随いぼろぼろに朽ちかけた建物が、海老茶や緑の油で痛めた色に滲んで来る。史跡保存で改築を許されぬ一角であるだけに、パリの冠った古帽子のこの中には何ものが棲んでいるのか分り難い。夜毎に軽機関銃で撃ち合いを始めるというのもこのあたりであろうと、久慈は光りの洩れる窓の見える度びにそっと中を覗いてみた。
 戸口にカフェーとだけ書いてある小さな一軒のドアの、眼の届くあたりに一つ小窓があった。久慈はそこからふと覗くと、中はパリでほとんど見られぬ女給ばかりのカフェーだった。
「ここには女給がいるよ。稀らしいね。一寸這入ろう。咽喉が渇いた。」
 久慈は相談もなく一人肩でドアを押し開けて這入っていった。矢代と東野も身を横にするような狭い入口から後につづくと、ぎしぎし鳴る椅子に凭れた。薄暗い狭い部屋の空気は濁った汗の匂いで鼻を打った。
「これや汚いね。出ようや。」
 矢代がそう云って立ちかけようとしたとき、花売娘のような様子の十人ばかりの女給の中、若い三人がいきなり矢代にしなだれかかって来た。
「あら、もう帰るの。いいわよ。煙草一本頂戴な。」
 身体を不必要なほどに捻じ曲げ、腰を動かしながら擦りよって来て出す手首の骨が高く大きい。ひどい脇臭のうえに、鼻の両側のまだらな白粉の下から脂肪がぶつぶつ浮き上っていた。久慈と東野にもそれぞれ煙草をせがんでいる女たちも、両肩をすぼめ猫撫で声で煙草をくれとせがんだ。久慈ら三人は顔を同様に顰めながら黙って煙草を出してやると、女たちは放れて煙草を吸いつつ、それぞれ鼻声の沈んだ唄を歌い出した。
「これや、男だな。」
 と久慈は小声で矢代に耳打ちした。
「うむ。」
 と矢代も、実は自分もさきから怪しいと思っていたという風に頷いた。見れば見るほどどこからどこまでも女だが、しかし、やはり争われぬ一点の底が男だった。それも、一人ずつ女たちを見廻していくうちに、勘定台にいる女もヴァイオリンを弾いている女もすべてが男だった。久慈は腐った筵を引き剥いだ後からにょろにょろ現れて来る青い蜥蜴を見付け出すように、一度ずつ悪感が胸を走った。男だと見破られた女たちはもう二度とよって来なかったが、また別のが来て、「何んになさいますか。」と女の声で今度は快活に訊ねた。
 三人はビールを註文したが、コップが揃っても誰も義理に一口つけただけで、気味悪さにそれ以上飲もうともせず話もしなかった。久慈らの傍へ初めに来た女らは部屋の隅に固まったきり、嫌われたことをさも羞しそうに悄れて俯向いたまま、青い灯の下でいつまでも黙っていた。これがもし本当の女だったらたしかにそんなに痛手であろうと思うと、久慈は不思議に女らの悲しげな様子がまた本当の女のように見えて来て、
「おや。」
 と一瞬自分を疑った。確実に男だと分っていながら、だんだん気の毒になっていく不安な気持ちの落ち方が、一種新しい未知の世界に踏み込むような錯覚を感じさせる。それが向うの手腕だと思っても、それぞれもうこれで男を越した女以上の理想の女になっているのかもしれない。
「もうたまらん。出よう。」
 と矢代は云った。そして、身を動かしかけたと見るや、今まで悄れていた女たちは、ぱッと飛び立つような早さでまた矢代にしなだれかかって来た。
「もう息が出来んよ。」
「何に? え? え?」
 と女は嫣然と笑いつつ片腕で矢代の首を抱きかかえて覗き込んだが、何も云うことがないと見えまた煙草をくれと彼にせがんだ。
 勘定台の女は遠くから女給たちの成績を探るように、鋭くちらちらと眼を女たちの上に光らせた。ヴァイオリンを弾いている女だけは、曲に合せてゆるく身体を動かしていた。見ているとそれぞれ女たちは隠花植物のように自分の位置から動かぬままにも、どこか湿った楽しみに耽っている眼差しである。あたりに漲っている薄汚なさも工夫に工夫を積んだ結果の巧緻なリアリズムに近い芸があった。
 久慈は自分が舞台に上った生身のお客のような感じがした。東野や矢代をふと見ると、いずれも役者になったことも知らず、苦苦しくふくれている芸無し猿の二本の大根に見えて来た。
「あ、これやもう、現実を抽象してしまっておる。」
 久慈は思わず膝を撫でながらそう思い、あらためて女たちの想念の中まで見たいと、歩くときの手の曲げ方、足の開き具合や鬘のつけ様を見るのだった。
「さア、勘定。」
 と矢代は云うと、一人の女が久慈の傍へよって来た。
「あら、もうお帰り。」
 と女は云いつつ久慈の膝に手をかけた。幅広い男の体温がむっとして吐く息が頬に荒くかかった。それには流石のパリ贔屓の久慈も寒気を感じてもう我慢が出来なかった。
 矢代の後から久慈と東野も外へ出たが、出ると同時に三人は声を合せて笑い出した。入り代りに旅行者らしい三四人の客がまた中へ這入っていくのを振り返り皆は顔を撫でた。
「ああ気持ちが悪い、どっか、せいせいするところがないかね。吐きそうだ。」と矢代は先に立って山の頂上へ登りながら、「あれはいったい何んという思想だ。」
 と久慈に訊ねた。
「いや、実はおれもあれには参った。」
 久慈のそう云う声に、皆の夕刻までの論争の意気込みも一時に吹き飛んでしまった形だった。
「あそこは僕も知らなかった。この次は機関銃だぞ。上のお寺へ参るのも骨が折れる。」
 と東野は云ってひとりくつくつ忍び笑いをした。頂きの寺の横の広場に二十本ほどの房を垂らしたビーチパラソルが開いていて、その下に弁慶縞の敷布のかかった丸テーブルが一面に並んでいた。ここのテラスも他には見られぬ古風な野天の仕立てだった。どのテーブルの上にも矢車草の花影からランプがかすかに油煙を上げていた。客一人ない広いそこのテラスの中央に三人は陣取ってレモネードを命じたが、卓に肱をつきほッとするとまた誰からともなく笑い出した。共通の無気味な洞窟から逃げ出してきたばかりの捕虜という顔である。互に視線を避け合っている笑顔
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