のもその仕事の一つで高有明も共同出資者の一人だということなど誌してあった。そして、終りにあたり、千鶴子となお結婚を渋っている矢代の態度を、どういうものだか、蹴散らすように攻めていて、了解に苦しむというよりは、むしろ手探りようもない青春の消えさった手紙だった。
「君と千鶴子さんとのことなど塩野からもきいたが、もう僕には君の愁毒は分らない。君たち二人には、僕のなすべき範囲以上のことを僕はしたので、君の平行線も考えている暇がない。冗談ではない、目下僕は忙しく、少しの暇を見て僕は僕で孝行もっぱら結婚を急いでいる。それにしても、僕は千鶴子さんを君に紹介した責任もこのごろ感じ、柄になくその責めを負うつもりも出て来ている。君のは愛ではない。大愛でもない拷問だ。やはり、君より僕の方がどことなく適任者だったのだ。前にものべた通り、今は僕は勤労派だ。何より実行第一、仕事第一、他の事は僕には退屈で、こんなことを云う始末以外にはない殺風景な僕になっているが、とにかく、僕は一ヵ月より日本にはいられない。その間僕の馳け足一切に関しては、むかしの縁で不問に願いたい。いろいろ失礼することと思うが、そんな次第不悪お願いまで早々。」
言葉をそのままには受けとりがたいとはいえ、ぴしゃぴしゃ平手で叩き落してくる、久慈の文面を見ても、同情されるより矢代は気持ちよかった。しかし、読み返しているうち少からず腹も立って来る手紙だった。どんな仕事か分らぬながら、自分の多忙さを楯に姿を匿そうとする態度には、新帰朝者に見受ける見栄すらも感じられた。殊に千鶴子との間を難じるあたりの書き方には想像に絶したものもあって、自他の間をひき歪めて悔いない強さもちらりと顔を出していた。けれども、一つは結婚の話であり、結婚となれば他人の事ではなく、このように他人を叩いて廻る作法も出がちなものだと矢代は思った。また今はのっぴきならぬ戦争の際でもあった。未婚者の考えはどこでどのように変るか外からは分るものではなく、矢代自身にしても、戦争が始ってからは、覚悟のこととはいえ、いつ応召するか分らぬ身であれば、残るものの身の上も考慮に入れて物いう風になって来ていた。それも矢代のように、結婚を他の理由で延ばしていることが明瞭な場合でさえ、立つもの、残るものと考えると、延ばしている理由が戦争と一つにならざるを得なかった。久慈も何かこの間必ず原因のあるに相違なかったが、それにつけても思い出すのは、いつか塩野が横浜の埠頭で、小父から持ち出された縁談の処置に苦しんださまを矢代に話したときの事である。塩野のは、やがて起りそうな戦争を前にしては、結婚の意志あるなしに拘らず、一応ためらう良心の置きどころの苦しみであったが、今は予想ではなかった。現に戦争の起っているときであれば、誰しもこの事から超然とはしがたい悩みふかまる内心の問題であり、おそらく久慈も立ち騒ぐ周囲のものらの言動にことよせつつ、蔽いきれぬ彼の悩みも、文面多忙な匂いに変りむら立っているのかとも矢代は想像した。
それにしても、矢代は自分と千鶴子との間に関することには他から触れられたくなかった。このような際の結婚の問題は、平和な日の結婚の内容に傘かむって来る自分の気持ちがうるさいばかりでなく、さらに相手にも同様に増して来るその傘を、払い除ける手間ひまの煩わしさに加えて、要らざるこちらの腹さえさぐられる不愉快さも量を増し、ために日ごろの良質のものまで姿をかき消す惧れもあった。千鶴子の場合にしても、矢代は、今まで結婚を延ばしている身でありながら、戦争となるや突然急ぎ出す挙に出れば、自分の身勝手ひややかにすぎ、それでなくとも延びている二人の間を、一層ひき延ばそうとする美しからざる不自由さも生じて来るのだった。これは思いがけないことだった。今さらにたじろぐ要なくとも、この微妙な一点で足踏みすべらせば、万事を瓦解に導く悲喜劇そちこちに見られるように、千鶴子の母にも、戦争が与えている動揺のきざしなしとは思えぬあたりの空気を、塩野は久慈に何んと洩したものか、そこにも矢代には計りかねるところがあった。
「君より僕の方がどことなく適任者は、うまいなア。」
と矢代は久慈の手紙を前にしてひそかに苦笑した。ラスパイユの祭の夜、檻の中の電気自動車の遊び場で、千鶴子の胴に狙いを定め、得意な薄笑いで突撃して来た久慈の剽悍な眉もちらりと泛んだ。ピラミッドの穴の中を昇る暗中、喘ぎ喘ぎ鉄桟を切なく攀る千鶴子の手を、しっかり支え引き上げていた久慈の姿も泛んだりした。久慈の責任というのも、当時のその姿を彼も思い泛べての意であろうかと、矢代は遽に虚を衝かれたように手紙を畳み、マッチを擦った。
久慈の手紙を見てから三日後、東野の講演会が日比谷であるので、同夜久慈や大石の歓迎を兼ねて集りたいと、塩野から矢代に云って来た。矢代は千鶴子と会う打合せもすませ、その日の夕食前に公園へ行ってみると、聴衆の列は乾いた広場にもう長くつづいていた。東野の新アジヤという演題は外交関係の講演者の名の多い、終りの方に見られた。日ごろの東野には似合わしからぬ演題であるだけに、彼を知るものにとっては、何か期待を持たせる題でもあった。
「奥さんを亡くして、新アジヤというのは、何か意味があるのだろうな。」
矢代は千鶴子に会ったとき、尾を曲げた聴衆の列を眺めてふと悲しい気持ちに誘われた。西日のまだ高く雲を灼いている残光に染って、薄水色の服色に包まれた千鶴子の頬は明るく輝くようだった。篠懸の幹の下を池の方へ廻っていく半面の影は、いつもになく沈みがちだった。日ぐらしの声の鋭くひびきわたる樹の枝ぶりを仰ぐ眼もとにも、気分を引き立てようと努めるときの固い表情もあって、苦労のある一夜になりそうだなと矢代は思った。
「久慈から手紙を貰ったきりで、まだ僕は会わないんだが、あなたもでしょう。」
「昨日塩野さんといらして下さいましたの。」
ためらいもあって、その返事を避けたいらしい弾みのない詰った千鶴子の声が、矢代には気がかりだった。
あるいは、――とつい疑いも出て来る彼女のその返事に、矢代はそこから入り込めない遠慮を感じ、路の岐れて行くのもこういうときには意味が出て、自然な方法を取り失う窮窟さも彼は覚えるのだった。久慈のことである。こちらが結納をすましてある間ということに、却って彼の申込みを早めたかもしれない疑惑が胸を掠め、その予感の純不純を暫く彼はたしかめながら歩いた。
「変りましたか、久慈は?」
「そうね、あたしは別に、そんな御様子感じなかったんだけど、でも、塩野さんは君も変ったなアて、そう云ってらしたわ。」
自分の不在の場所で千鶴子に久慈がどう云おうと、も早や危惧の念を抱く間でないに拘らず、やはりそれを知ろうとする質問に矢代は馳られ、久しぶりに感じる悩ましさが、雲を映した池の水面に黒黒と映るようだった。
蝋色の子蜂の群が柔い脚を紫陽花の乱れた弁にかけ、溶け崩れそうに蠢めいているのも、花底に流れた秋立つ気配で、彼は自分の結婚日を早く定めねばならぬとも考えたりした。
「久慈は細君を貰いに帰って来たんだそうだが、そんなことはあなたに云いませんでしたか。」
「そのことなの。昨夜もそれで塩野さんといろんなお話の末に久慈さんね、真紀子さんと会わせるようなら明日は出ないって。でも、塩野さんはああいう方でしょう。ですから、もう一度真紀子さんと君結婚し直せって、仰言るし、――これで、今夜もし真紀子さんいらっしゃれば、どうなることかしら。」
「真紀子さんなら来るかもしれないなア。それや来るね。」
しかし、矢代は自分たちのことより他人の身の上を心配する、そのようなもどかしさも、今なお単刀直入に切り出したくはなく、当分はこうしている以外に月日はたたぬのだと思った。そして、それはどういう理由からでもない。これで良いのだった。一番適当な方法を講じて進んでいる以上、現在の成り行きを変えるのも愚かな考えで、その決断も不用だった。次第に押しよせて来る外界の波を避けようとすることが、下らぬ躊躇に見え、自分の目差す針路だけは他人のものではないと思われた。
剪裁されたばかりの青枝を跨ぎ、寛ぎの出て来る小丘を降りてからもう病葉の散る橡の樹の下へ出ると「新アジヤ」という東野の演題がまた矢代に泛んで来た。夫人を亡くした東野の針路も、定めしその題の示すところに苦心の光鋩を集めたものだろうと察せられたが、東野のみならず、今は人人の念じるところ、それぞれ違った角度からとはいえ、新アジヤに対い沸沸と湧くもののようやく底から逆巻き返して来ている物音が、公園の長蛇の列からも感じられた。
しかし、矢代は、自分ならむしろ新世界としたがった。東野と大きさを較べるわけではなく、一分の小さな柱の穴から、空の光を望み噴き立ちのぼった、白蟻の群のように秩序ある、繊細柔軟な想いにも似ており、またそれは、いま見た蝋色の子蜂の透明な脚先が、弁にかかったひとときの花底に流れる、いのちのような真新しさであり、新秋のみのりにも通じる敬虔な祈りのようなもの。
――彼の希っているのは、そんな新世界の芳情ある題であった。
日も落ちてから矢代らは、あまり日比谷とへだたらぬ懐石店へ集った。世話係の塩野はもう見えていて、東野の講演の番までそこで夕食を摂り、その後、田辺侯爵の別邸まで皆で行くことになっていた。青い実を垂らした藤棚をくぐって、矢代たちと前後して来た大石につぎ、佐佐や遊部、それから平尾男爵、速水、などの顔まで揃った。皆より少し遅れて来た久慈は、肩幅のある薄羅紗の夏服に、ブルターニュの農民用の紺木綿のワイシャツへ、毛糸の編タイをし、矢代の知っている久慈とはまるで変った服装で、やや長めの髪を撫で上げた、一見未来派の彫刻家か建築家に見える様子だった。太巻の蘆の素簾の巻き上った廊下から矢代を見つけた久慈はすぐ寄って来て、
「どうだ。」
と一言、膝長く、日に灼けた顔立ちを近づけた。はるかにへだたった遠い海をおし縮めて、よりかかって来たような水色の、漠漠とした空気が一瞬飛び散り、しんと二人で静まり込んだ形だった。
「また行くとは、どういうものだ。」
「うむ。」
久慈はただ無意味に呟いただけで、ゴールドフレークの蓋をあけ矢代にさし出した。呼吸も聞きとれそうな一本の煙草を抜きとるのも、指さきに、血の滴りつく思いで、矢代は懐しかった。
「海は暴れたか。」
「いや。」
「病気はすんだの。」
「まだだね。」
夕闇の降りた胸の間で、久慈はダンヒルの点火器の頭をぼっと燃やし、また矢代にさし向けた。そして、庭前の緑の葉を潜り流れている水の涼しさを眺めたとき、さもうるさげに視線を反らし、始末に困った佗びしげな薄笑いで一寸あたりを見ると、こちらを見てる千鶴子と眼が合った。
矢代は戦友の匂いをひと嗅ぎしてみるように、煙草の煙を咽喉へ落そうとして、何ぜともなく、ふともうこの男は死んで帰って来たのかもしれないと思った。何を云おうと無駄かもしれないと思った。
「スペインへは行かなかったんだなア。」
「傍まで行ったんだが、折れてカンヌからグラスへ出てみた。あそこはコティの薔薇畠があってね、紹介状を出したら、社長の細君が案内してくれたよ。」
云いたいことのおしむらがって来る庭前の涼しさだったのに、叩けど響かぬ空廻りの感じで、矢代は心労と懐しさの手捌きに疲れを覚えた。
「細君は見つかりそうかね。」
他意あってのためではなく、コティの社長の細君という連想の弾みで、矢代はふとそう訊ねてみたものの、同時に意味もこもり、我ながら羞恥も顔にのぼった。
「いや、まだだ。」
と、久慈は急に明るく眉を開いて笑った。固い殻がぱっちり音立てて裂けたような笑顔だった。この久慈の美しい笑顔にあうと、いつも矢代は無造作に倒される自分を感じたものだったが、今も変らず、彼はまた、千鶴子とのいきさつなど忽ち遠のいて見えなくなる、恐るべき男の笑顔を感じて気持ち良かった。しかし、こうなると、互いに溶けあう親しさの募りにまかせ、人には云えぬ毒舌も熾ん
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