になる癖が出て、捻じあい、絡まり、啀みあい、果てしもなく争った外国での二人であった。つまり、矢代と久慈との二人の方が、千鶴子と矢代や、真紀子や久慈より、はるかに深い夫婦だったといって良い。その片割れの一人も先ず無事ここに帰って来て、笑顔を初めて矢代の前に見せたのが、今だった。
打水で湿した平目の石に夕闇が降りていた。上衣を脱いだ客たちの集りから洩れた灯明りに、紫陽花の一株がぼっと白くにじみ出ている。初秋の夜もこの料亭の庭ではまだ暑かったが、藤棚に下った実の青さが、それぞれの客に何か物を想わせる涼しさを誘った。それは人の忘れていたもので、沈黙の間、久慈もふと立ってその実に触れたくなった青さだった。
最後の客の東野が真紀子をつれて顕れたのはそのころである。彼は廊下の端から、久慈の方を一寸見てから、大跨につかつかっと近よって来ると、
「どうだ。」
と、一言どさりと真向いに坐った。二人はどちらも眼を脱さず、じっとしたまま、笑いもしなければ口も動かそうとしなかった。何かの仕合いのように東野の幽かに微笑を含んだ眼もとが、暫くは、脱そうとする久慈の視線をぴたぴたと抑えて追っていく。視ているものらは息詰る瞬間の切迫さで皆黙った。
「うむ?」
と東野は、誘いの水を向ける無意味な声を出した。
「何んですか。」と久慈も同じく無意味な微笑で訊ねた。
「御機嫌はどうかね。」
「いいですよ。」
「それにしてもだね。君に返す荷物があるんだから、一言、帰った挨拶があって、然るべきだろう。重かった荷物だぞ。」
真紀子が出席するようなら、今夜の会へは欠席すると断ってまで出て来た久慈である。それも久慈と大石の帰朝歓迎会のこの席へ、東野につれられて来た真紀子であった。東野の重い荷物というのも真紀子を意味することなど、久慈のみならず他の客の誰にも通じることだった。
婦人席には千鶴子を初め、田辺侯爵夫人、藤尾みち子など四五人の見える中に混って、真紀子は千鶴子とさきから話していたが、ときどき久慈の方へ視線を向ける面差しには、悪びれた風もなかった。むしろ懐しげな、追想に光りを上げた断面のような、照り映えた鮮やかさで久慈を見た。東野は振り返ってその真紀子を手招きした。どうなるものかと見ていた一同の疑惑ある視線の中を、手招きに応じ真紀子は気遅れもせず立って来た。
「挨拶、挨拶。」
東野に云われた真紀子は、ちょっと詰った表情で肩を竦めてから、嬌態を整え直すと意外に緊った生真面目な顔で、
「お帰りなさい。」と久慈に云った。
「やア、しばらく。」
久慈も別に不愉快そうでもなかった。開いた眉の間で二人が何か一言ものいいかけたそのとき、突然拍手が部屋の一隅から起った。すると、つづいて起った拍手に部屋はどよめき立った。突き崩された二人は見合せた顔の遣り場もなく、真紀子はすぐ自分の席へ逃げ戻った。料理が出て来た。銚子を配るもの、皿を並べるもの、大鉢を擁えたもの、それらのごたごたと立ち動く気分に巻き込められた一端から、世話役の塩野は久慈と大石の無事帰朝を慶ぶ歓迎の挨拶をのべた。祝杯があがると寛いだ歓談が始まった。
渋色に塗った低めの長い食卓には、鉢から移された前菜の、生海胆、琵琶湖産の源五郎鮒の卵巣、日向産の生椎茸の油煮、熊の掌の煮付に添えたひじき、鴨のロース、仙台産の味噌で包んだ京の人蔘、など、これらが織部の小皿に並んでいる。手釣りの黒鯛を沖で叩いて締めた刺身、つづいて丸い伊豆石を敷いた大鉢の中には鮎が見えた。しかし、一同の客たちには、これらの懐石料理は一向に興味をそそらないようだった。談は千鶴子の兄の由吉の噂を中心にして拡がった。今ごろはロンドンへ着いたばかりであろうとか、枕木嬢とその許婚の伯爵との間に挟まれた由吉の軽妙な態度とか、それらの談を笑わせながらするのは、肥満した体に似合う薄めの縞のワイシャツを着た平尾男爵であった。若手の外交官の間でもっともフランス語に熟達している噂の高い速水は、クレギイ会談の通訳の労もとったりしたにも拘らず、スイスへ転任して以来の大石の書記官ぶりを聞くよりも、彼から山登りの談を聞きたがった。大石はパリで久慈や矢代が見たとき、誰より眼光鋭く神経質に痩せていたのも、今は見違えるように肥っていて、絶えずにこにこ笑っていた。パリの上流のサロンを落す名人だったこの大石ほど風貌の急変した人はなく、またこの人物ほどどこの婦人からも好かれたものも少なかったが、彼はいつもあまり喋らなかった。
「いったい、この懐石料理というのは、どういう意味だい。名前だよ。」
と突然、音楽家の遊部が云った。誰も一寸談をやめたが、彼に答えたものは一人もなかった。
「それや、河原の石を集めて、漁ったばかりの魚を焼いて、そこで食うのが一番だということさ。」
と東野は云った。
「じゃ、野蛮人の名残りだな。」
「しかし、盆栽みたいに陶器で包んで丸薬にしたんだからね。ここまで来るのも、相当永い旅をしているよ。」
「こういうものを食っちゃ、これや、戦争には負けだ。」と、遊部は源五郎鮒の卵巣を箸で突っついて、一口舐めた。
「誰もしかし、良い潮どきに帰って来たよ。これからはどこの国の歴史も、見知らぬところを旅するんだからね。僕らはまアやっと間にあって、先ず何よりそれが良かった。君もだ。」と東野は隣席の久慈の盃に酒を瀝いだ。そして、また、
「僕はパリじゃ、君にぽんぽん当り散らして失礼したが、もうあんなことはやらないよ。当時は実際失礼した。随分僕らは苦しかったり、愉しかったり、しかし、考えてみると、何んだかよく分らないね。君もだろ。」
「うむ。」と久慈も頷いて東野に盃を返した。
「それで良いのだよ。分ったら嘘だ。事物の自然化だとか、科学化だとか、そんなことを云ってる暇に僕らの生命力は、誰やらじゃないが、榴散弾みたいに進んでゆく。二度と同じことを繰り返さないよ。新しくなるばかしだ。西洋が良いの、東洋が良いのといったところで。おい、君、僕は近ごろ女房を亡くしてね、このごろじゃ、空というものの美しさが初めて分って来たのだよ。人生五十年、空の美しさだけがやっと分った、後は空空漠漠、――」
「今夜の日比谷の講演は、それをやりなさいよ。」と久慈は途中で東野に云った。
「いや、まだ考えちゃいない。それより、僕は君に賞めてもらいたいことがあるんだよ。僕は君から預って来たものを、破損もせずちゃんと日本まで持って帰って来たんだからね。君はそんなもの、もう忘れたというかもしれないが、それは僕の知ったことじゃないさ。しかし、君との約束を重んじたことだけは、忘れないでくれたまえ、それでいいだろう。人生で必要なものはそれだけだ。」
ここに集っているものの中で、夫婦別れをしたものは、久慈と真紀子とだけではなかった。遊部と藤尾みち子も前には夫婦だった。千鶴子と矢代もこれから式を上げようとしている間であり、塩野や佐佐も同様に進んでいたが、妻を亡くしたものは東野一人だったので、このときの東野の感想は、一同の頭に冷水を浴びせたような刺戟があった。
「待てよ。僕も女房に死なれた後のことは、まだ考えてみたことはなかったなア。」
と平尾男爵はしばらく遅れて云ってから、箸を持ったまま天井を仰いだ。東野は講演の時間が迫って来たからと云って、料理の途中ひとり先に席を立って出ていった。
久慈は真紀子とパリで別れるとき、特に別れ話を二人でしたわけではなく、また二人は争ったわけでもなかった。東野の帰るという報せで偶然の便船を得た思いが、どちらにもしたというだけだった。二人の共同生活は、外国にいるかぎりのこととしたいと云った真紀子の言を、承認し合っていた結着が、まだそのままの折のこの会合なだけである。しかし、実際の生活はもうはるか以前のパリ当時に破れていた。それ以後二人は文通もなく、帰国してからも久慈は二たび真紀子と会おうとも思わなかった。が、いま会ってみると、後悔もしなければ、真紀子を惧れる要もなく、千鶴子と並んでいる彼女の姿を眺めていても、かつての共同の生活が、自分とは関係のない、別個の異国に於ける誰かの生活の絵を見るように、泛き上って来る愉しさが強かった。おそらく真紀子にしても、同様に前の二人の生活を撫でさすって眺めているに相違あるまい。その互いに思い泛べた絵の方へ二人は近より、懐しく何かを云おうとしても、も早や、二人で作った絵の原型は、手も届かぬ遠景となって流れているのである。
会がすんで小憩後、一同は招待を受けている田辺侯爵の別邸で、東野の講演放送を聴くこととして、それぞれ自動車道まで出た。車を道で探すときも、久慈と真紀子、矢代と千鶴子の四人は、一塊りとなって流れて来るタクシを待った。旅先でいつもそうしていた四人の習慣が、並んだ篠懸の街路樹にこもった闇の中で、つい今も、そのときのように自然に出るのだった。車に乗りこんでからも、灯火の色に浮き漂った日の追憶が、四人の身体を寄り合せて黙らせた。掠めすぎる樹の幹や、石垣の根が、胸を刺しとおる記号のように色めき立って走った。
「お変りありませんでした。」
と真紀子は、今ごろ不意に久慈に訊ねた。
「ありがとう。」
傍に真紀子のいることに気づいた久慈は、押し詰まって来ている彼女の肩の匂いをふと嗅いで云った。
間もなく、田辺侯爵邸の大きな門柱が顕れ、分乗して来た塩野たちの自動車も門に着いた。太い松の幹の傍に大桶を置いた玄関を這入り、飛び立つ鵜図を画いた衝立を廻って、次の室へ持物を置いた皆の後から、久慈はまた冷えた長い廊下を幾つも渡った。花が実に変ったばかりの南天の林に、灯籠の灯のさした庭が見えた。細い赤松の幹を揃えたその対うが街の谷らしかった。遠く灯の散ったその谷間に霧がかかり、あたりは薄明りの下に沈んだ港のような和かな色を見せていた。
離れの洋館に這入ると、皆はそこですぐ椅子に掛けようともせず、浅黄の絨氈の上をぶらぶらしながら、廊下からの談をそれぞれ続けた。
壁額にはマチスの近作がかかっていた。それと対応された黒塗の棚の陶器も、潤んだ光沢の宋窯の黒柿の壺だった。卵色の地に、とろりと溶け流れるような濡羽色の壺肌の前で、真紀子は久慈に、平尾男爵と帰って来た航海の日の様子を話したりした。マチスの裸女の背を取り包んだ、棕櫚の葉に似たタロカイヤの強い緑青色を見上げている平尾男爵は、その絵を田辺侯爵に買わせたときの思出を遊部に語りながらも、ときどき自分の名を発音する真紀子の方を振り返った。そして、ともに当時の海上の旅を想う風だった。
「そうそう、相当にこの人の俳句も上手いのがあった。クイン・メリーで君にあてつけた句も、僕はちらちら散見させて貰ったがね。」と男爵は久慈に云ったりした。
「東野さんの先生なら、それや伸びるだろう。」
皮肉のつもりはさらになく、そう久慈が云ったのに、真紀子の唇の黒子がぴりりと動いたようだった。
「それはお厳しいの、先生は――それに帰ってからもね。君のようなものは、硯でごしごし磨かなくちゃ、って仰言って、お習字までさせられるんですのよ。」
東野とのその後の潔癖な事情を、暗に久慈に匂わせるような真紀子の云いぶりも、も早やそのようなことをする必要のない場合だったが、久慈はそれを、東野に愛情を瀝いでいる真紀子の安らかさの結果だと感じた。またもしもそれを良いことに、うっかりと、パリでの二人の生活の縒りを戻そうと、一歩を踏み出そうものなら、忽ち体をかわして跳び退く用意さえ真紀子の方にある、滑らかな、辷り廻ってゆく心も感じられ、彼は彼で、なおつづく空しかった旅ごころにすべて身を任そうとするのだった。
「早坂さんからその後、何か便りがありましたか。一度パリの僕の宿へ訪ねて来られたことがあったが、――別に、君に関する話には触れなかったようだったなア。」
突然真紀子の前夫のことをそんなに云い出した久慈に、一寸真紀子はなまめいた眼差で笑った。
「便りなんか出来る人じゃないんだけど、――でも、どうしたんでしょうね。あの人、あなたの所へお伺いするなんて、分らないわ。」
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