の人にあいにけりって、そんな句お作りやしたの、俳句かしらそれ。」
と槙三に訊ねた。部屋の中が一層陽気に笑い出した。仙鶴の話が無邪気だったばかりでなく、舞妓の質問に当惑した槙三の真面目くさった顔が、皆の注目をひくのだった。老妓が来てから座敷は踊になったが、鶴千代と二人で踊る秀菊の指先は、ませた表情をこめてよく反った。鶴千代の方は努力を下に隠した素直さで、客には紊れぬ習い締った眼もとだった。鼓の音に乗り、鳥の子の襖を背に淀みなく廻っている金扇の流れを見ていても、矢代には、ともすると、それがAとBとの定律の舞いのように見えたりした。表と裏とに重なったり、放れたり、屈伸する二人の運動のすべての美しさが、老妓の唄う一本の呼吸から繰り出されている調和も、この夜の座敷には殊に暗示が深かった。舞がすんで二人の頭がぴたりと下に沈んだとき、矢代は何か得た思いがして拍手を送った。たしかに舞そのものよりも暗示につよく撃たれた喜びを感じ、自分の興奮が気持ちよかった。
「京都はいいなア。」
宿へ帰る自動車の中で、矢代は、九州からの車中の重苦しさも溶け気軽くなって、こう傍の千鶴子に云った。
「これで争いというものも、やはり一つの調和なんだなア。」
傍の槙三には矢代の呟きも響いたらしく、
「うむ。」と頷いた。そして、
「そうですよ。ただ僕らにはそれが分らぬだけらしいですね。」と附加してから、東京へ帰れば友人に数学の天才が一人いるから、一度その人物を連れて訪ねたいということを話した。
宿では矢代は千鶴子の部屋で、共通の知人たちをさがして二人で寄せ書きした。書きながら彼は調子の上ってゆく自分を抑えかねた。非常に嬉しいときに書く文章だと思うと、自然にあてつけがましくなりそうなのも用心した。しかし、二人で何もせずただ卓子に対きあってペンを走らせているだけだのに、寒風の通りすぎた充実した部屋の中にいるように感じられるのは、あながち、二人が結婚の準備をまったく今は終ったからだとも思えなかった。また、旗亭で京都の舞いを見た興奮からでもなく、一つは、頭の芯にこびりついていた長い間の疑問の解けた気分によること多大だとも思った。実際それらの幾つもの理由が一時により集り、彼はいつとはなく愉快になっている自分を感じた。
「とにかく、まアいいから、早くお前はお帰りなさい。」
昨日、九州の村道で故郷の山が、彼に京都の方を顎でさし、そう云ったように思われたあのときの感動など、彼はふと思い出したが、別に愚なことだとは思えなかった。なるほど、あの山の表情はこのようなときのためだったのかと、むしろ逆に感じをふかめるばかりだった。
千鶴子の久慈へあてて書いた短い文章にも喜びが出ていて矢代は嬉しかった。
「四五日前から、奈良、京都を兄たちと廻りました。私のまだ知らなかったいろいろなこと初めて勉強しましたが、私のためにたいへん遅すぎなかったことをたいへん有り難いことと思いました。兄は間もなく出発します。多分来月あたりは、あなたとそちらでお会いすることと存じます。」
こう書いた終りへ、自分の名をいつものようにせず、矢代千鶴子としてあるのに彼は気付いた。突然異様なものを見たように矢代はそこを見詰め、黙ってまたその後から自分もペンを使おうとしたが、相手が久慈だと思うと、矢代千鶴子という署名は大胆にすぎる面映ゆさで文章も詰るのだった。
「昨日ね、僕は田舎でお嫁さんはまだかと訊かれて弱った。君のことを云うには早すぎるし、否定するには遅すぎるし、というところでしてね。」
「それも早すぎるんじゃありません。」
彼の結婚の躊躇を突くような千鶴子の視線に、矢代は返答を鈍らせながらも、無造作に今までの姓を書き代える婦人の諦めの良さに感服して、暫く忽然と生じた新しいその名の感じをまた眺めた。
「今ごろこんな名にして、君いいの。」
「でも、式を待ったりしていては、きりがないと思いましたの。いつのことだか分らないんですもの。それに、あなたお郷里へお帰りになって、もしかしたら、また急に妙なこと仰言るんじゃないかと思ったりして、――そうじゃありません。」
疑う様子を露わには出さずとも、積極的に押し出て来た千鶴子の強さには、何ごとか自分自身の内部の変化や覚悟をも彼に知らせたいようだった。矢代は千鶴子のその変化を感じたくて正面から瞳の中を見た。千鶴子は一寸視線を伏せたがすぐまた臆する風もなく彼を見返した。
「君の困っていることも分るんだが、――しかし、これはたしかに僕にはありがたいですよ。これで無事だ。」
こう云っているとき、急に矢代は喜びよりもむしろ、ある不思議な悲しさを瞬間感じてペンをそこに投げ出した。何が悲しいのかそれは自分にもよく分らぬものだったが、千鶴子が自分の過去を自分の手で断ち切った切なさがうつり、それをそのようにせしめたものが、自分の方にあるのを感じた悲しさにちがいなかった。また、これでもし自分が千鶴子の場合だったらどうしただろうかと、そう思うと、どんなに相手を愛している場合でも、もし自分だったら、――矢代はそこをもう考えることが出来なかった。それは恐しいことを予想せしめてきりのないことだった。そしで、おそらくそのときには、自分ならむしろ死を選ぶかもしれない信仰上の破滅だった。たしかに根を切りとられた切っ羽つまった苦しさが、突如胸のどこかに撃ち返って来て彼は涙がこぼれた。
「自分はこの女性をとうとう責め殺した。」
矢代はまたそう思うと、一層涙がとまらなそうになり、ついバスルームの中へ這入っていって、そこで手を水で冷やして出て来てから窓際へ立った。本能寺の上に出ている星が一つ強い光を放っていた。彼はその星を見ているうち気持が透明に冷え落ちていくのを感じた。力が急に無くなっていくようだった。何か寥しい、あきらめに似た、今までまだ感じたこともないさめ果てた空しい気持だった。
「あそこの家のすぐ裏に、本能寺があるんですよ。」
窓へ片肩をよせ、無意味に矢代は斜め左方を指差しつつも、どこかへ一人でたち去って行くような、もの寥しさをますます感じた。それはまったく予期しない寂寥だった。
「どこ。」
窓際へよって来ても、理解しかねた千鶴子はきょとんとして、別に寺を見たい様子もなく、会館からはね出てくる人の流れを眺め、今夜は東京から来た音楽家の演奏会があったその崩れだと告げた。矢代は結婚のことはもう考えたくはなかった。それにしても自分の心が自分の手でも掴まれぬ怨めしさは、今に限らぬことだったが、二人の間から擦りぬけては流れ出ていくこの仕業は、何ものの誘いであろうかと矢代は星から眼が離れなかった。
「明日はもう帰らなきゃいけないでしょう。」
「ええ。でも、私はいつでもいいんですの。」
「見残した庭も沢山あるんだが、――」
今の自分は寺の庭も見たくはないと思った。一本の笛の音が澄み透って来るような空の眺めだった。千鶴子は上唇に細かい汗を浮かし、何か云いながら、ときどき身体を廻し、落ちつかなげに下の通りを見降ろしたり、腕の時計を覗いて見たりした。その様子は窓際で戯れている蝶に似た身軽さで、どこか断ち切られたもののひらひら舞う姿に見え、矢代には悲しかった。
しかし、考えれば、何んという喜びだろうか、とまた彼は思い直すのだった。希ってもないときが来たのに、それにどう仕様もないあわれなものの打ちよせて来た感じに受けとっている自分を思うと、実際、あの夜席のときの舞妓のごとく、今は金扇をひろげてひとさし彼も舞いたくなってくるのだった。
「人間五十年、化転の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり――」
桶狭間の決戦にのぞみ信長の舞った敦盛の謡いが、本能寺を見ている矢代の口にも自然にのぼって来て、躊躇するものの轡すべてを彼は切り落そうとし、馬鞍を叩く手つきで窓枠の縁を打った。
京都から帰って来ても、矢代はまだそのまま旅先の姿勢を変えなかった。どこからか号令の下ってくるのを待っているような気持ちの姿勢で、そうして父の遺品の中に坐ってみているのも、家が父から自分に移り代ってくる、生涯に二度とない大切な時だからだと思った。このような時は周囲からとやかく自分に触られるのが彼には辛かった。青葉がおもい重なりを見せた中から、朴の葉だけ水中の羽根のように端正な姿を保っているのが、朝起きた矢代を何より慰めてくれたりした。こんな日のある朝である。前から矢代の家の茶の間と風呂場の角に柱があって、そこに一分ばかりの小さな穴があいていた。その穴から白蟻が噴きでて来た。ぶよぶよした半透明の翅のある蟻で、初めは数十疋のものがしだいに数を増し数千疋の大群となったかと思うと見るまに一面煙のように溢れ、あたりの壁や柱に附着した。
今まで彼はこのような事は一度も見たことがなかった。うす靄の軽くかかった好天の日で、日に透けると白蟻の翅は美しく薄緑に光った。まだ生れて以来使ってみたことのない翅と見え、蟻はそのままねばりついたような翅のよじれを解きほごす準備にかかっているらしかった。
動き廻るわけでもなく、じっと附着して自分の位置を守り、整えた翅をただかすかにふるわせてみているだけである。
別に大事件というわけではないが、家という建物自体に起った出来事としては、この蟻の大群は近来稀な現象といってよかった。
「これはどうだろう。この部屋全部壊して、一度建てかえなくちゃ、――いつの間にやら土台に巣があったんだなア。」と矢代は洗面に降りるとき立って母に云った。
「もう、はたいても、はたいても、幾らでも出てくるんですよ。」
あまりの見事さにしばらくは珍らしく、眺めていたい気持ちで母もそのまま蟻を捨てて置いた。すると、半時間もしたころ、蟻の大群の一角が舐めたように縮小していた。そして、全体が光線の射す廂の方へじりじり移動しつつ、直接日光をうけた柱の角までくると、そこからそれぞれ、空へむかって飛びたった。小粒で数万の大勢ながらも、初めから秩序整然としていて、誰か号令するもののあるような風韻ある動きで間もなく、あたりには一疋の姿も見えなくなった。
白蟻のこんな活動については矢代は前にも、幾度か本でも読んだことがある。しかし、この虫類のしなやかな本能の世界が整然と群団をつらぬき、統一を紊さず地中から空色で生れでて来て、そして、またたく間に空の青さの中にかき消えた姿は、眼のあたり、ぽとりと一滴の神水を落されたまぼろしに似ていた。ここでも何ごとか旅立ちがなされていたのだった。
彼は蟻の立った柱を叩いてみた。中に空洞のあるらしい乾いた音を聞きながら、彼は自分と千鶴子との結婚も、こうして巣だってゆこうとしている旅立ちに似ているとも思った。
「この家の土台を変えなくちゃ――」
と、また矢代は柱の下の黝ずんだ台木に指を触れて云った。
家を改造するにあたり、大工をとよの主人の清三郎に彼は依頼することにした。風呂場や茶の間を建て直す清三郎の姿が、毎日蒲田の方から顕れて来るようになったのは、梅雨も半ば過ぎていて、熟した梅の実が朴の葉を擦り落ちるころだった。清三郎は長めの顔で丈も高く、腹掛けの背の十字の紺も洗濯が利いていた。物数少く実直で、選択する木材も見積りを厭わず丹念なのもとよに似ていた。とよがまだ矢代の家の女中をしているとき、愛人に出す手紙の代筆を幸子に頼んで、熱しふるえながら、
「夢のかけ橋かすみに千鳥、想いかなわぬ身なれども――」
と、こう云い出したとよの様子を思い、そのときの相手がこの清三郎の姿かと考えると、雨に濡れた彼の背の十文字が、矢代にはおかしい封印の手紙に見えた。
家の改造が進捗している間、矢代の友人たちの間にも変化があった。須磨で療養中の東野夫人が亡くなった。由吉が再度の渡欧に旅立っていったのにひきかえて、久慈からはジュネーブにいる書記官の大石と一緒に日本へ帰るという手紙が届いたりした。また、塩野の縁談が急にまとまったことや、槙三が航空会社へ勤めることに定ったことなどもその一つであろう。矢代も久木男爵の会社へ一週に二日通い、小父の会社
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