間もなく久慈が帰ってくるだろう。また真紀子の先夫の早坂も帰るだろう。そうすれば真紀子と久慈と早坂との交渉に、さらに東野の加わってくることも想像にかたくはない折から、東野夫人の容態の悪化であった。
「真紀子さん、苦労だなア。」
今にも出そうで出ない月を見ながら、矢代のこう呟いているとき、部屋の中では、由吉や塩野たちが、見て来た寺の疑問の点について、それぞれ案内役の越尾に対い質問に熱心であった。やはり誰も問題にする龍安寺の石庭に関することが多く、越尾は、近代庭園の専門家がひそかにその庭の石の間隔を計ってみたこと、そして、縦横寸分の狂いなく近代庭園法の数学に合致していたと告白したことや、初のころ石庭に糸桜が一本植っていたのに、庭に一本の樹は滅亡の家相だという理由で切られたことなど、矢代に初耳のこと多く、低声に語るのが廊下にまで聞えた。
「しかし、とにかく、日本の庭園としては、あの庭は絶頂を極めたもので、あれ以後の庭はみな下り坂ですからね。絶頂というものの観念は、やはり僕らには分りませんよ。何しろ、京都文明の頂上が、あの石だといってもいいんですから。」
案内役はこう云って、謙遜に自分の見方にもピリオッドを打つことを忘れなかった。矢代には月よりその石の話が面白くなった。
「石が絶頂なら造作はない。ひとつ極めようじゃないか。」
と、由吉は云って皆をまた笑わせたりした。
白砂を敷きつめた六十坪ほどの長方形の中に、十五ばかりの石を浮かせただけの龍安寺の庭を、矢代も二度ほど見たことがあった。寺の方丈の縁先ともいっていい曲り角の一隅のその庭には、一本の樹木もなく薄茶の塀をめぐらせてあるだけだったが、庭の外部に茂った鉾杉の見事な葉が重くたぶさのように垂れ下り、庭内の砂の白さがくっきりと際立って鮮やかだった。黄色い蝶が一ぴき砂の上を飛びたわむれていて、閑寂な姿の奔放自在に翻る春の日の一刻を、彼は手にとるように感じたことがあった。今も矢代はその光景を思い出し、絶頂は厳しく意味の滲みを拭きとった単調な姿をしているものだと思った。庭の作者は吉野朝時代の夢窓国師だといわれていることや、仏教もこの国師を頂点として堕落期に入ったことなどを思い合せ、龍安寺の石庭は、極めて暗示に富んだ文明の表情だと考えたりした。
「あの庭を島の浮んだ海だと云ったり、親子の虎が通る様子だと云ったり、いろいろ聞くが、僕はただ石の数だと思ってシャッタを切ったね。」
塩野の無造作にそういうのを矢代は面白いと思って笑った。
「それでいいんでしょう。とにかく、夢を無くした数学が、逆に一番夢を人間に与えるようなものじゃないでしょうか。」
と、越尾は、浅黒い顔にも美術史に捉われぬ、含蓄のある微笑を洩して塩野を見た。
「これで日本人にも、ああいう石から出て来た数学の伝統といった風なものは、あるんだろうね。それでなければ、これだけの都が、千年も仏教に苦しんだ意味がないよ。ただの石じゃね。」由吉は真顔を大きく上げて一寸矢代の方を見ると、急に、「あ、そうそう、この話はこの先生に聞いたんだが。」と云って槙三の方を照れた顎でさし、「何んとかいう数学者だったなあれは、クロネッカァといったっけ、この人の数学に、青春の夢という名高い定理があるんだそうだ。何んでもそれは、眠っているとき夢の中で考えついた定理で、起きてから、も一度その定理を証明しようと思ったところが、どうしても出来ないんだそうだ。夢の中で完全に出来たものが、起きて出来ないなんて口惜しいもんだから、今度は弟子の優秀なのを皆集めてやらしてみても、誰にも出来ないんだね。そうすると、それを日本の高木貞治、――あの数学の博士がわけもなく証明してのけたというんだよ。」
日本人の能力のなかにも、そういう数学的に卓越した遺伝が蓄積されているということを、龍安寺の石庭からの暗示として、由吉は云いたかったものだろうが、それとは別に、矢代は、自分が去年千鶴子と結婚した夢を見た日のことをふと思い出すのだった。そしてその夢の事実になろうとしている時が刻刻にせまっていることも身に感じ、ふと山を仰ぐと、月が東山のふくれた腰の部分に頭を出した。顔を揃えた河原の石がそれぞれまるく静に水中に浸っていて、月の光に綾目を乱した川水が、ひたひた部屋の中までさし拡って来るようだった。
「外人の青春の夢を、日本人が解いたというのは、なかなか暗示的でいいね。」
と佐佐は嬉しそうに河原の方を見た。矢代は月を仰ぎながら、京都文明の永い歴史の中に顕れた多くの月も、今みるこの山のそこから、こうして出たものだろうと思い、庭に石を置くときも、夢窓国師は自分の名の含む想いとして、一度は月を考慮に描いたことだろうと推察した。
「数学の専門家はどうですか、龍安寺の庭について、別の意見があるでしょう。」
矢代は今まで黙って隅で笑っていた槙三に訊ねてみた。実は、さきから矢代はその機会をひそかに待っていたのだった。槙三は彼から訊ねられると、いつもの明瞭な口調で躊躇の風もなくすぐ答えた。
「僕はああいう、はっきりした簡素な庭を見せられますと、自分は日ごろ迷っていた問題に、直面した感じになるのですよ。それはですね、人間の考えというものは、煎じ詰めると、AでなければBで、その二つのどちらかの中へ入りましょう、それはどんな人間の、どんな考えでもですが、――御存じでしょうが、数学ではこれを、排中律と呼んでこの定律を認めておりますけれども、あの石の庭を作った人の頭も、そんな排中律と同様な形而上の世界と、形而下の世界との境界に、石の碑を記念としてうち樹てたかったんじゃないかと、ふとそんなことを考えてみたのですよ。」
そこまで槙三が云ったとき、廊下の方から舞妓が三人入って来て、揃って畳に両手をつき正しい挨拶をした。髪に挿した簪のびらびらが、月を映して揺れなびき烈しい眩ゆさで光りつづけた。一同の者らは一寸その方を向いたが、槙三の話はもう皆の頭の深部へ突き刺さっていたらしく、誰の表情も崩れようとしなかった。
「そのお説は、世の中で一番難しい問題じゃないですか。まさか、あの庭の石にそんなものまであるとは思えないけれども、新説としては、たしかに今までにないものですね。」
と越尾は、今まで一度も存在さえ考えなかった彼の方へ向きかかって、若い槙三の顔を注意し始めたようだった。
「僕のはただ数学上のこととして云ったのですが、数学では、どうしてもAはBとは違うので、同じではあり得ないのです。しかし、あの庭の石が、京都文明の絶頂を示すものなら、勿論、この排中律という認識上の頂きの苦悶が何らかの形で、石の根に埋められていなければならぬものだと、僕は思うのです。もしそうでなかったら、そこに含まれた文明というものは、頂上でも何んでもない、ただの南洋土人の玩弄する、石と変りないと思いますね。」
和いだ云い方ながらも、槙三の言は鋭く越尾の史観を刺していた。
「どうも困ったね、話がAとBとに分れて来たぞ。」
と由吉は後ろへ反って、ひとり、舞妓の並んだ顔を無遠慮にじろじろ見較べた。
「しかし、龍安寺が禅寺だといったところで、そのころ、近代数学がそんな発達をしていたとは思えないんだから、やはり、も少し違う石でしょう。あのころは、石を生きものと見たのですからね。」こう云ってから越尾は、「これは僕のは、Bかな。」と由吉を見て笑い返した。
「俺はAでもなけりゃ、Bでもないね。そんなの、一つぐらいあったって、良かりそうなもんじゃないか。ないのかい。」と由吉は槙三に対って訊ねた。
「それは同じ問題で、Aの公理も正しければ、Bの公理も正しいということは、たしかにあるのですよ。例えば、御存じの二つの平行線は相交らぬという公理も、無限の彼方ではその平行線は相交るという公理だとか、または、平面上の三角形の内角の和は二直角なりという公理も、球面上ではそうではない、といった風な公理になるとか、とにかく、どっちも正しくて、間違いだとは誰も云い得ないことですよ。しかし、AとBとは違うという、この排中律の定律に従いますと、数学とは限らず、僕らや皆さんのどんな考えにしてもですね、正しいと考えられていることが、厳密に考えれば、どちらか一方が不正になるという定律にまでなるのですから、――ともかく、数学で一番難しいのはそれなんです。つまり。論理的にはどっちも正しいに拘らず、一方が必ず間違いだという論法になると、世の中の一切のことも同様二つに別れて相争うにちがいないのです。これはどう仕様もありませんね。」
一同黙って言葉を発しなかった。屏風の金色を映した舞妓の管だけ、ひとり、さざめく水のようにひらひら黒髪の中で揺れていた。
それは絶えまなく繊細にゆらめきつづけ、囁き交している部屋のひそやかな呼吸にも似て見えた。
「夢窓国師は吉野方と高氏と、両方から来いと引っ張り廻されたんだから、龍安寺の石も、そんな定律の苦しみをひそめているかもしれないなア。」
と矢代は部屋の中へ這入って来つつ云った。そう云いながらも、彼は自分と千鶴子の間に横たわっている宗教の相違や、パリ以来、久慈と衝突しつづけた文明観の解釈の相違についてなど、いびつな心の違いとなってまた泥んで来たりした。
「しかし、槙三君のようなことが、実際上の数学で正しいとなると、一寸こ奴、困ったことになるね。」と塩野は頭を自棄に掻きあげた。「Aから見ればBが不正で、Bから見ればAが不正なら、世の中で正しいことって何一つも無くなるわけじゃないか。ね。」
「ですから、僕は排中律の定律というものは、必ずどこかに間違いがあると思うのです。もっとも、この定律を認めない数学者もおりますが、理論的にこれを認めないとするには、これは非常に厄介なことで、今のところ殆ど不可能といっていいのですよ。けれども、今までの人智というものが、ここで停頓しているからには、何か人間は、大混乱に落ち入る準備をしているようなものじゃないか、といった風な危惧を感じるのです。それは、そうならざるを得ないんですからね。」
槙三のそういう後ろの隅の方で、舞妓たちはより固ったまま指を折り、ひそひそ何か話していた。暖かった部屋の空気が川水に冷えた風に変り、三味線の低い音を流して来る。その対岸の柳の葉の間を灯をつけた電車が辷っていった。
「おい、ひとつ踊を見せてくれ。」
と、由吉は、弟の槙三が一同を場に似合わぬ理窟ばった苦しみに、引き摺りこんだ責任を感じたらしく、突然そう云って舞妓たちの首を覗きこんだ。彼の一言でぱッと座敷の頭は皆あがり、舞妓たちはそれぞれ別れて席についた。浮き立ち上った、大幅の紅い襟の間に挟まった槙三は、とり残された形で、珍らしそうに舞妓の頭を眺めていた。中央から裂けた長い帯を揺り揺り、千鶴子の傍へ立って来た舞妓が、月を仰いでまた指を折った。
「あら、秀菊さん、そんなええ所で作らはる、狡やなア。」
新しく縁へ出て来た妓が、同様にまた並ぶと、「東山、東山、」と呟きながら、これも指を折り始めた。何をするのかと矢代が、その鶴千代という妓に訊ねると、このごろは誰も俳句の勉強を命じられているのだとのことだった。
「みんな俳句作るのか、そいつは油断がならぬぞ。」
由吉も背を延ばして山を仰いだ。正面に月をうけて立った舞妓たちの簪のびらびらが、せせらぐ川波の中で揺れていてまだ宵らしくつづいた川向うの灯が、橋を渡る夥しい人の足を浮きあがらせて賑かだった。
「向う見て寝たる月夜の東山。」と秀菊が云って笑った。
「けったいな俳句やなア。蒲団きてやわ。」と傍の鶴千代が肩をつついた。
「そうかて、顔隠してやすやないの。」
欄干にふれてだらりと垂れた二本の帯の長い裾が、しなやかに打ち合ったり戯れたりした。川水が胴の間を満たし、洗い清める流れで遠くまで月に踊っていた。白牡丹と藤の花のおもい簪に、菊模様の襟を高く立てた、仙鶴という舞妓が槙三の傍にひとり残っていて、舞扇を襟から抜きとり、
「こないだ先生がね、夜桜の句お作りなさいとお云いやしたの、そしたら秀菊さんね、夜桜や隣り
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