から迯れきれぬものが残っていた。何か漠然とした、明瞭でない不安が新しい芽をふき彼の中で伸びていた。それも、いよいよ結婚する二人だと思うと、そのため一層強まって来る不安な芽だった。
 矢代はそういう邪魔な感情を剔り捨てたくとも、手もとに用を達する刀のない気持ちがつづいた。強いて需めると、それはただもう結婚するより仕様がなく、今まで二人の目的としていたものを早く使ってしまいたい。そんな朧ろな、流れの末の分らぬそれは不安心だった。
「あたし、何んだかしら怖いわ。何ぜだか分らないの。」
 結納の品定めの日、松濤の木椅子の上でふと洩らしたこのような千鶴子の吐息を思い出し、今も耳近く聞えるように彼が思うのも、千鶴子がどんな意味か分らず洩らした歎息であっただけに、今の自分を考え合せるとはっきりして彼も怖くなった。
「この次は家内をつれて来ますから、そのときはゆっくりとお礼に上りますよ。」
 と、彼は昼間そう老婆に云って、ようやく脱け出て来た自分の別れの挨拶を思っても、この次千鶴子をつれて行き、二人であの山を眺めて立ったとき、車夫に扶けられたきょうの脱出の程度で、果して二人の苦しさは済むことだろうか。あの山を眺めて涙の出て来たときも、もうここから動きたくはないと思った気持ちの中には、たしかに、京都にいる千鶴子のことを、一つは頭に泛べたそのためもあったようだった。
「しかし、過去は問わぬ、それが伝統じゃないか。自分も過去を問われず戻って来られた今じゃないか。」
 とまた彼は溌ね起るように思ってみた。しかし、そう思う後から、彼はまた自分の家の紋章が二つ巴で、顔をよせ合せた睦じそうな形に拘らず、尾だけ撥ね合っているのが、不思議と何事かを予見している風にも見えて寝苦しかった。考えつめて行けば行くほど、も早や考えとは思えぬ妄想の中で呻くような、こんな夜となって来ると、ひたすら彼はもう眠ることだけに意力を使いたくなり、周囲で眠っている人人の顔を見廻した。どの顔もそれぞれ過去を持ち、そして、それを問わず明日を信じて旅をしている顔ばかりだった。
 翌朝、三日も寝不足のつづいた頭で起きたとき、昨夜の不安定は奥へひそみ、代りに、疲れが髄から染み出て来て、走り去る窓の景色もただ眠けを誘うばかりだった。すると、瓦の波の光を噴いた沿線の街の中から、遠霞んだ城の頭が美しい姿を顕して来た。この城は来るとき、夜中の寝台のため矢代の見忘れたもので、田辺侯爵家の城だった。
 いま遠望する白壁の層層と高い天主閣の品位ある姿は、郷里で彼の見て来た狩衣姿の自分の家の荒城とは、およそ違った栄え極めた眺めだった。田辺侯爵夫妻と船を伴にして帰った関係上、千鶴子は自分との結婚に反対する母の意を翻えしめる援助を、侯爵夫妻に頼んだことも思い出されて、矢代には懐しかった。
 混雑した人中に羞しく身を没するようにして、彼は感謝をこめ、窓から美しい天守を眺めている間にも、自然に彼は自分の凭りかかっている窓の悲劇と、眼に映じたこの城の今もなお華麗な活動をつづけている姿とを合せ考え、かげろう立つ空の青みの中に交る興亡二つの運命の描いた線の擦れ違う哀愁を身に感じた。そして、侯爵の家に招待されたこの冬、集った客たちと一緒に一夜を過したそのとき、図らずも彼が好遇された久木男爵との一件を父が知り、翌日、父の急死したことをもまた同時に彼は思い出したりした。
「そうだ、あの次の日だった。父の死んだのは。」
 彼はおどろいてまた振り仰ぎ、その父の骨を納めに来たこのたびの自分の旅も、やはりこの城とは離せぬものだと思った。自分の知らぬ結ばれたもの、それは必ずこの地上にはあると彼は思い、盛衰興亡とは廻された番の勤めのことだと感じて、彼は、栄え実った田辺家の盛んな姿に恵まれた幸運の徳を賞めたたえたくなるのだった。


 午後の三時ごろ矢代は京都ホテルへ着いた。彼はすぐ千鶴子の部屋を尋ねようかと思い、一ぷく煙草を喫い終るまで椅子から動かなかった。まだ耳底から汽車の動の鳴りやまぬ体をそうしてみていて、すぐ千鶴子に会わねばいられぬものかどうか、彼はしばらく自分を沈めていたかった。
 屋根瓦ばかり並んだ窓の外で、本能寺の樹木の方へ乱れ飛ぶ雀の羽が光って見える。乾いた空の色だった。彼はいつ結婚しても良い自分ら二人の身の上になっているこの際、今夜ここで泊ればそれも早や定ることだと思った。結婚を延ばすか否かは、まったく自分の一存で決定出来る今の場合、まだ車中の妄想に動かされているのは、愚かなこと以上実は無責任も甚だしい行為というべきだった。
 矢代はしかし、心のおもむくからには行くまで自然に行かしめよとも思った。今のような不安定な気持ちは、も早や愛情のあるや否やなどといった感傷事ではなかった。自分か千鶴子のどちらか一人死に生きする、その一つを選ばねばならぬときに似た、張りつめた先端にいるようだった。彼は他人の誰にとってもそうではないことが、自分ひとりにとって、なおざりにしがたい傷創になろうとしているこの旅行の行程に、喜ばれぬ無意味ささえ覚えたが、とにかく、いまは何より先ず湯に入ってから夕食まで眠ることにして、隣室の千鶴子たち誰にも到着を報せずに寝た。疲れが烈しく眠れそうにないのも、やはり幾らかは眠っていたと見えて、一時間あまりしてから彼はドアの開く音に眼を醒した。暗くなっている部屋の中にうす白く動く姿を認めたとき、朧ろながらも千鶴子だと彼はすぐ思った。眠けのとれない眼が、寝台の傍に立っている胴のあたりを見たまま、早くもひび割れてゆくように和らぎ通うものを感じて来るのだった。
「もう幾時ごろですか。」と出しぬけに矢代は訊ねた。
「お帰りなさい。」
 びっくりしたらしく、急にスイッチを入れる音がして、つづいて壁際から振り返った千鶴子の笑顔が泛き上った。
「お食事ですの。皆さん下でお待ちでしてよ。いかが。」
 しばらく見なかったのが不思議なように思われる、間近い笑顔で、薄化粧の匂うあたりに沁み崩れてくるふくらぎを感じ、矢代は、眠る前まで考えていたこととはおよそ違う親しさに、忽ち取り抑えられた自分が腹立たしいほどだった。起き上り、千鶴子に背を向けて洗面をする間も、彼はひとり思い屈して来た車中の様子を、不問に揉み消したくなり気づかせたくはなかった。顔を拭う間も鏡の面から千鶴子を見て、二人の破談のときを考えた自分を思い出し、そのような不確実なものもまだ眼を醒して来るこれからかもしれないと、そう思うと、信仰の違いとは、これは人のいのちの違い以上に根ふかく、遠く、見えない彼方の黄泉《よみ》から吹き流れて来る霧の、茫茫たる渦巻かとも思われたりした。
「京都はどうでした。」食堂へ出る仕度をしながら彼は何げなく訊ねた。
「いろんな所、観せていただきましたわ。何んだか頭がもう、ぼうッとして、――あなたはお郷里のほう、いかがでしたの。」
 上衣を背後から着せかけていう千鶴子に、彼は帰途を急ぎすぎた不面目をまだ告げられず、寝台の取れなかった車中の疲れを洩すばかりにした。部屋から出てエレベーターの中でも、彼は千鶴子に触れる身体を慎しみがちになり離れるのだった。この妙に牽きつけるものの中に衝くものの混る気具合も、郷里へ行くまではふかくは覚えないものだったが、それも支え押そうとする気力をなおつづける頑固ささえ覚えて彼は下へ沈んでいった。階下へ降りてまた地下の食堂へ行く間も、矢代は自分の感情を秘めかくす気苦労と一緒に、邪心をなくする道の踏み場を、苦しく石階の一歩ごとに感じ探そうとするのだった。
「やア、顕れたぞ。」
 食堂では、槙三、由吉、佐佐の三人に混ったテーブルの白布の上から、塩野の明るく伸び開いた地蔵眉が快活に、矢代に向って手を上げた。誰もみな疲労の色が顔に出ていたが、彼の留守の間に京都から得た収穫の豊かさを語っている共通の笑顔で、その中に席につく自分の色だけ孤独に沈みかかるのが、まだ彼には重くいびつな感じだった。塩野は目立つ白い歯で矢代の不在をしきりに残念がった。
「いや、君、イタリア・ルネッサンスに劣らない見事な片鱗があるね。ばらばら散ってるんだよ京都は――」と塩野は云った。
「片鱗どころじゃないよ。ずらりと並んだ体系さ。」と佐佐は不平そうに笑った。
「仏閣庭園はさることながら、祇園と島原、僕は、あんなところは世界にないと思ったね。一力、すみ屋なんて、醤油で煮しめたみたいな艶が、底光りにびかびかしてるよ。」
 由吉の洒落れてそういうのに矢代は、自分のこの度びの旅から拾って来た美しさは、山中の農家で見た障子の白さだったと思った。田辺侯爵家の城の美しさも忘れがたいものだと思い、一同に対って、京都旧跡の廻り方は玄人の行き方と素人のとに分れているらしいが、諸君らのはどちらを選んだのかと質ねてみた。みなは即答できず、にやにやしながら顔を見合せていてから、佐佐は半玄だと云い、塩野は、いや、一力まで侵入したのだから純然たる玄人の廻り方だと主張した。しかし、素人玄人に拘らず、京都研究をふかめる量につれて、そのものの文明観の質も変化していくものだという、一般研究家の言を矢代も疑わなかったので、食卓に並んだ今みる一行の変化ある様子や、殊に、伊勢、奈良を廻って来た千鶴子に与えた古都の影響を察するとき、矢代は、ともに自分も豊かさが増し、明るさの加わるのを覚えた。
 嵯峨一帯の寺寺から、修学院、大徳寺境内、西本願寺の飛雲閣、それから醍醐寺までとのびた巡拝の径路に、三日にしては少し多すぎるほどだったが、それらのうち矢代の記憶にある道条を想像しても、郷里への旅で得て来た自分の変化に劣らず、彼らは彼らで、また自ら異った感得興奮を顕わすさまも了解できるのであった。
「何んだか、僕ひとり落第したみたいで、さみしいね。」
 矢代はさきからの自分の身勝手な冷たさをようやく後悔し、頑くなな心の崩れていく咽喉にスープを流した。

 食事がすんでから暫くして、一行は案内役の越尾から招待をうけていて、ある旗亭へ出かけることになっていた。誘われるまま矢代も出席することにした。鴨川の流れの傍で、二階の広間に通されたときには、うつろう川水に胸が冷やされ、連日の疲労がふたたび流れ出てきたようだった。
 真正面に東山の連りが見え、右手の膨らんだ峯の部分が、間もなく昇る月の在りかを示していて、下から射しあがった光のなかに雲の断片が浮いていた。川に向いた縁先の籐椅子に矢代はかけると、父の納骨を尽くすませた気安さに、初めてネクタイを解きほどいたくつろぎを覚え、思うさま山、川、雲を見あげた。両足も欄干の横桟にかけのばし、両手も首の後ろで組んだ反り身になって見上げる山は、たっぷりとした檜舞台にいるような、鷹揚で豊かな眺めだった。欲をいえば、彼はいま暫く誰からも放れてここにこうしてひとりいたかった。近くの人声も遠くから聞えて来るようで、ぼんやりしたひとときの休息だったが、すぐ欄干に手をかけ、傍へ来た千鶴子は、
「東野さんの奥さん、お悪いらしいんですのよ。」
 とさし覗くように低く云った。さきから東野の姿の見えないのもそういう理由かと彼は思った。前から東野夫人の危険な状態を聞き知っていた矢代には、「悪いらしい」も絶望の意でひびき、山の端の明るみが一層冴えせまって眼に映った。
「じゃ、駄目だな。奥さん。」
「何んですか、昨日あわてて須磨へお帰りになりましたの。」
 沢山寺を見て廻った直後のことなのでひとしお東野の感慨が生き、山の姿も、仏像の寝姿のように矢代には見えて来るのだった。
 ぼッと滲みでたほの明るい、月出の空の真下がちょうど西大谷だった。先日、矢代が分骨にして父を納めたのはそこで、自然に彼の眼もそこから動かなかった。今こちらから見ると、空のそのほの明るさが、下に隠れた父の胸から揺れのぼって来るようで、月の出るのが待ちどおしかったが、仲人の東野の周囲で起っている崩れ傾くひびきを思うと、婚姻の夜を迎えようとしている矢代には、それも、ひと鞭あてて駈け去る日ごろの東野の厳しさに似て見えて、しんと胸にあたる痛さだった。
 
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