と経の三字が共通に使用されているのも、これも彼の初めて知ったことの一つだった。
 栗の木の多いのに松の花粉が流れて来た。谷間の窪みに満ち溜った花粉の一端が、黄色な霧のように墓地の上を越し、山の斜面に沿いなだれたまま動かなかった。
 老人の群がら燻り出した線香の煙が栗の幹のまわりで輪を解いていた。矢代は父の骨を箱ごと掘られた穴の底に入れた。白木の上へ振りかける初めの土の冷たさは、父の額へ落す宝のような重みで、暫く湿った斑点を彼は貴く見ていたが、傍から老人たちの手伝ってくれる迅さに、見る間に沈んでゆく箱に対いただ彼は土のままの手を合せた。それから順次に視線を墓地の各碑面の上に巡らせてゆくのにも、宜敷く新参の父を依頼する意をこめ礼拝していくのだった。
 やがて戒名の白木も建ったその前で誦経も終ると、一同は墓地を下った。
「あんたさん、お嫁さんはまだおもらいでないのですか。」
 浄瑠璃の老婆は突然後から矢代に訊ねた。
「まだ、独りですが――」
 彼はそう答えるにも、結納をすませて京都に待たせてある千鶴子のことをいま嫁と呼ぶべきかどうかあやふやな感じがした。それにしても、故郷に戻った刺戟のためか今まで千鶴子のことを忘れていた自分を思い出し、久しぶりに純粋な感動にひたれた一日を有りがたいと思った。一番人間臭の強いところだのに、それが却って人の姿を消し、こうして自然の風物が生き物に見えて来るのも、彼には不思議な故郷の気持ちだった。樹の芽草の葉も人の骨片から総立ち上った無数の指先のように見えるのだった。
「わたしはまたあんたさんが、もう繁子さんと結婚なされて、お子供衆もあることと思うとりましたが。」
 と老婆は意外なことを云い出した。繁子というのは彼の親戚の娘で、両家の親の間にそんな話も交えられたことなど、幼少のころのかすかな記憶の泡となって泛んで来たりした。しかし、この老人たちは矢代一家に関して、彼自身のまだ知らぬ数数のことを嗅ぎ知っている人人ばかりであろうと思われると、彼の帰郷は、見渡すこの谷間に絡りついた宿縁の根へ相当の風を吹き立てているのだとも想像されたりした。
 日の傾き始めた西の空を背に、城山の頂きが鮮明に黝づく色を泛べていた。一行の降りる坂路は入日に射られ、眼の縮む明るさだった。
 矢代は千鶴子に帰る時間の電報を打つ約束を思い出し時計を見ると、少し急がなければ汽車には間に合いかねる心配も生じて来た。先頭の鋤の柄に巻いた奉書紙が蜜柑の葉の下を沈んで行くのが見え、そして、一行が矢代の家の前まで来たとき、家人は彼に茶を飲みによるようと奨めた。矢代は休息の間から忍びこむ不要な胸騒ぎを惧れて、葬帰りを口実に辞退した。家人は彼のためらいを察したものか強いてとは云わず、矢代の去り行くままに委せて彼に別れの挨拶をした。矢代は中庭をよぎり、蔵の戸にかかった鍵の歪みを最後の一瞥に残したまま、家の前から去ろうとしたときである。何か一瞬悲しい声のざわめきをあげて、後に姿を消した家から、
「薄情者ッ。」
 と、一声浴びた思いがした。彼ひとりの心情の寒さとはいえ、耳を蔽い胸を抑える気持ちで石垣の裾の坂路を下ると、彼はもう一度後ろを振り返って見直した。勿論、家は見たままの静かな姿で、入日を受けた明るい壁際に高高と桐の花を咲かせていた。それでも、まだ矢代の荷物ある寺の方へと足が早まろうとするのだった。
 母と別れて東京を発つときも、京都で先に待たせてあった千鶴子のことで、とかくに騒ぐ思いをし、今また郷里のわが家との別れにも、同じく京都で待つ彼女のために不義理を残して行くわが身を省み、矢代は、羞入る肩の竦みますます寒かった。寺の門を潜ってから洗う手も、自然に千鶴子を浄め落す丹念な水使いになろうとした。座敷へ上って居残った老人たちと茶を喫むときも、彼は頼んであった車の来るのを脱し、この夜はここで泊って行こうかとも考えたが、この日を一日遅らすことは、京都で落ち合う筈の千鶴子たち一行との約束も脱すことだった。それを脱し遅らせたとてどんなことともなる慣れはないとしても、約束は約束で、先方の行動に計画のつかぬことも多数起るかと思われた。
 這入って来た車夫が戸口から矢代を呼んだのは、それから二十分もたっていなかった。今夜は寺で彼が泊ることとのみ思っていたらしい老人たちは、矢代の立ち去る礼をしたとき、予想のごとく暫く意外な表情で物いいかねた様子が見えた。
「もう早やお帰りですか。お泊りもなさらずに。」
 浄瑠璃の老婆の矢代を瞶め問い質す強い口調には、まことに少し身勝手な覚えも、まだ消えぬ折とて、彼には火の刺さる厳しさだった。
「御親切はありがたいのですが、京都で友人が待っていてくれるものですから、遅らすと少し工合の悪いこともございますので。」
「それでも、たまたまお帰りなされたのに、そんなみずくさいこと申されて――」
「お蔭で都合よく用事もすませてもらいましたし、それに時間もどうやら間に合いますので。」
 車夫を待たせた気忙しさに寺への謝礼と、村人たちへの礼心を白紙に包む多忙なためもあって、矢代は調子の合わぬまごまごした挨拶をなおするのだった。
「御先祖さんのおられるところで、一晩もお泊りなさらんのですかのう。」
 黙っている老人連の中からまだ老婆だけは心外の意を露わに向けたてかけて来たが、好意を毒舌にして見せる手際も温く、矢代は、答えかねた窮地の底から、ひそかに門の前の車夫に援助を需む有様だった。そして、ようやく、老人たちに背を向けスーツを引きよせると、まだ何か云いかける老婆の方へ向き返って、
「今度はまア、お赦しを願います、この次は家内をつれて来ますから、そのときはゆっくりお礼に上ります。」
 と云って笑った。門前まで皆に送られた所で、車に乗ってから、矢代は梶棒の上るまで焔の中から救い上げてくれる手を見るように車夫の動作が待ち遠しく思われた。間もなく車が走り出した。そして、一同を後にひとり山を見上げたとき、彼は初めて、やはりここでも自分は終始旅の客だったと思った。自分にとって故郷はもう東京以外にはなく、そこへ向ってこれで刻刻近づき得られている自分だと思った。日暮の冷たさを含んだ風が山蔭から頬をかすめて来た。苗代の整った峡間の障子が、土臭を吸いとった高雅な風貌に見え、彼はこのときほど障子の白さに心牽かれたことはまだなかった。
「秋十年却つて江戸をさす故郷」
 江戸をたって、故郷の伊賀へ帰ろうとしたときに深川で作ったと云われる芭蕉のこんな句を、ふと矢代は思い出したりした。十年も江戸にいると、芭蕉の眼にも逆に江戸が故郷に見えて来たのであろう。と、そう思うと、矢代は異国にいたときに、これでこの地に棲みつけば、そこを故郷と思う人もさぞ多くなることだろうと考えたことも、今また不意に泛んで来たりした。しかし、家を一歩外に出たもので、胸奥に絶えず描きもとめているふるさと、今身を置く郷との間に心を漂わせぬものは、恐らく誰一人もいなかったことだろう。してみれば、その者にとって衣食住は仮の世界、さまよう自分の旅ごころこそ実の世界、と念うもの佗びた心情もあの草の中の障子の白さの中には棲んでしまっていると思った。そのほの白さは、胸奥ふかく沈めた旅の愁いの灯火の色だった。
 山の裾が平野の中へ消えて来て、葉さきを曲げた芒の向うに、入日をうけた海が大きく空に残照をあげていた。暮れかたむいて来る芒の中の野路には人影もなかった。
 矢代は細い村道の集りよった辻まで出たとき、そこから後を振り返って見た。通って来た自分の家のある村は、はるか後方に退って見えなかったが、城山の峯だけ一つ疎らな人家の屋根の上からまだこちらを向いて立っていた。脇息のように二軒の屋根を両肱の下に置き、やや身を傾けさし覗いている様子であった。偶然の好位置から振り向いたといえ、沢山並んだ他の峯峯のどこも姿を消している中から、ただ一つ覗いていてくれたその様子に、彼ははッとして襟を正し、「おい、一寸」と車夫を呼びとめた。上り気味な片肩の表情には、永い退屈さもやっと通りぬけたと云いたげな寛ぎがあり、文句なく、遠い先祖が起き上り黙って彼を見送っていてくれた姿に感じた。
「どうも、すみません。今日だけは赦して下さい。」
 矢代は帽子をとって軽く頭を下げてから、また車を降り、山の方へ向き変って鄭重に礼をし直した。
 夕焼の拡りを半面に受け、老人らしく眩しそうに身をひねってはいるが、立てば背丈も相当に高そうな頭の部分に、黒松が繁っていた。見れば見るほど、それは狩衣を着た姿だった。両脇から頂上の砦へのぼっている山襞は袖付の裂け目に似ていた。何の邪魔物もない空の中で、おだやかな、物分りの良い、やさしい微笑さえ矢代は、その狩衣から感じた。じっと動かずいながらも、首だけゆるく廻すように感じるのも、すべてこちらがそう思うからにちがいないに拘らず、それでも、なお彼はその顔と、活き活き話も出来るように思った。
「さア、もうお前は行きなさい。」
 とそういう風にも顎が動く。
「そこにそうしていて下されば、僕たちも安心です。」と矢代は云った。
「うむ。」
「もう皆、お分りでしょうから、お話もいたしません。どうぞお大事に。」
「うむ。」
 矢代はこみ上って来る感動に堪えかねて、とうとう泣いた。涙が出て来てとまらなかった。若い車夫は前掛けの毛布を肩にかけたまま、極まり悪げに彼から顔を背けて待っていたが、矢代は介意《かま》わずなおいろいろ山の話をつづけたくなり、そのまま去って行く気持ちもなくなるのを感じた。そして、どうして今の今までこの姿を忘れていた自分だったのかと、急に過ぎた日のすべてが空虚な日日のように思われて来るのだった。それは実に間のぬけた、迂濶な生活のように思われて残念だった。
「ともかく、まア、行きなさい。どこにいようと同じだよ。」
 と狩衣姿が云う。
「それはそうだとしても、他に面白いことといって、ありません。」
「そういうたものでもないさ。」
 山は黙ってそのときちょっと京都の空の方を見たように思った。矢代は、その山のいつも見て暮していたのは、やはり先祖の故郷のあるその視線の方向だったのかと思い、つい自分も見た。
「俺はここで死んだが、なに、これは一寸、休ませてもらっただけだったよ。」
 こういうようにも見える山は、少し多弁になりかかろうとして、にこにこッとすると、またどういうものか口を閉じ、
「さア、もう行きなさい。」
 と顎で彼を押す風だった。
 矢代はまだ去りがたく足も鈍ったまま車に乗った。日はもう没していて、揺れ変って来た芒の葉の向うから生温い夜風が吹いていた。そして、蛙の鳴く声が次第に高く路の両側から起って来て、そこをすたすた急いで走る車夫の足音も冴えて来たが、まだ彼は帽子をとり車の上から振り返っては幾度もお辞儀をしつづけた。

 その夜、京都へ向う夜行にやっと矢代は間に合った。来るときもそうだったが、帰るときも危いところを狂いなかったそれだけにまた、彼は充実したものを持ち過ぎて来たようで、寝台のない車中では容易に眠られそうにもなかった。そして、京都で千鶴子と会ったとき、郷里の模様を多少は変形させて話さねばならぬ面倒さについても考えたりするのだった。もし千鶴子に、心中去来した郷里の思いをそのまま話す場合、結納まですませたときとしても、この結婚は愉快さを失うものを含んでいたからだった。実際、まだ二人の間には、踏み心地に形のつかぬもどかしいもののつき纏う感じがあった。二人の周囲の誰も結婚を赦しているときに、このたびは矢代自身の裡から膨脹する不安を覚えて、それを今ごろ揉み消すことに気を使う夜汽車だった。
 こんな不安の原因は、矢代の見て来た先祖の城を滅ぼしたものが宗麟で、彼の信じたカソリックを、千鶴子もともに信仰しているという、ただ単なるそのような遠い過去の敵意の仕業では、無論なかった。先祖のそんな悲劇に関しては、怖るべきはその偶然だけであって、それも二人の間で整理をつけてしまっている筈だった。
 しかし、それでも、二人の間にはまだそれ
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