た。廻り巡って見て来た地表のすべての眺めの中、この一点を坤軸として選み落された自分だった。
「ああ、どうして俺は、このパリへ生れて来なかったんだろう。」
と、そうモンパルナスで歎息した久慈の声を聞き、その背後から、矢代は突然に突きかかってゆきたい腹立たしさを覚えたことのあったのも今思えばこの眼前の景色のためかもしれなかった。それにしても、何んと念うことの多く、することの出来がたかった世界だったことだろう。矢代は絞りよせられる思い余った忽忽とほおけた放心の底から、父を埋める墓場を探しもとめた。
寺からの報せが届いたと見え一人二人と村人たちが来てくれた。それぞれ木綿の匂う挨拶を矢代は受けている間も、見る人ごとに顔を知らぬもどかしい感じがつづいた。
「わたしは信常さんの友達でして、ここのお寺でな、よう相撲をとりました。」
父の名を出してこういう老人や、父とともに来たころの矢代の幼少の姿を覚えているという老婆や、彼の父と同年で、二人で青年時代に稽古した浄瑠璃を、今夜矢代に聴かせたいという人もいた。みな彼の傍へ擦りよる風にして、鼻さきに顔を近づけ物いう癖があった。また僧侶たちとは違い、どの顔も潤みを含んだ微笑をたたえていて、懐中へそっと流しこむ囁くような温情に、旅では見られぬ膨れ実った果実を盛られたようで、矢代は暫く顔の入り変るごとに挨拶に困った。しかし、あの谷この谷から集り出てくれた見知らぬこれらの人人の眼に、自分の幼い姿が刻まれていたのだと、そう思うと、野山の色が指さきに迫りよる瑞瑞しさを覚え、さし覗く顔の皺を、田畑を支え保っていてくれた台座の勁い蓮弁を見るように、黙って彼は見るのだった。
「耕一郎さん、あんたさんはわたしを覚えておいでなさりますかな。わたしはな、それ、あんたさんのお祖母さんからお針を教わりました、おかねでございまして、それ、あそこの土手で、こうしてあんたさんを抱いて歩きましたぞ。おお、もうお忘でしたかいのう。」
手真似までして、浄瑠璃口調の失せぬ老婆に出られたとき、まだ今ものり附いていそうな自分の体温に触れる思いで、彼はどきりとした。覚えのないその枯れた肩口を撫で擦ってみたくなった。あたりに彼の体の破片が、散り蠢いている風な一室になって来てからは寺の人は遠のいて来なくなったが、村人たちは彼の周囲でまた親戚たちの話をし始めるのだった。
矢代はこの話をされると気が詰った。父の納骨に親戚たちを呼びよせることはさして苦労ではなかったのを、それもせず急に出て来たのは、仕事を措いて出て来るもの達への遠慮のみならず、彼の見知らぬ親戚の多数と顔を合せる気苦労もあり、また他に口にはしがたい理由も少しはあった。一つは帰途に千鶴子と京都で落ち合う予定もその中の重要なことだったが、これで、さて親戚たちを集めたとなると、自ら別に矢おもてに立つ親戚もあった。矢代の父の血族の中、もっともこの村から離れることの不都合な叔父一家が、叔父の死後家を他人に貸し、遠く他郷へ出ていることから疎遠になっているのも、表面立たぬそれだけに、各家の者からは自然非難の眼を向けられずにいない態だった。なお他にも特別思案にあまることが多多あって、このたび矢代の母の出渋った大きな理由も、彼女自ら語らぬながら、想像すれば彼にも出来ないことではなかった。それはこの郷里の叔父の家の所有権で、今は借家となっている家が、名儀は叔父の長男になっているとはいえ、前には矢代の父のものであった。永らく村長をこの村の役場で勤めていた叔父の体面上、父は名儀を叔父のものとして家を無代で貸してあったそのままの折、その当の叔父が死に、矢代の父も亡くなった。このような父の美徳の後、矢代の母が出て来て骨を据え、忘れた記憶を揺り動かせば、親戚間の紛糾は火の手をあげて来る惧れもあった。
父の死の直後、矢代は新しく自分のものになりそうな郷里の家の処理について、考えないわけではなかったが、他のこととは異りこの一事に関しては母の黙している限り、彼から表情を閃かすことは仕にくいことだった。また、母が先だって彼を動かし、父の納骨を好機に家の所有を瞭らかにすることを命じても、あるいは彼から母に反対したかもしれなかった。勿論、自分の善人を意識にしたい矜りあってのためでもなく、むしろその反対の狡智にも似た、後ろめく覚えのする彼自身にも説明しがたい感情で、強いて云えば、無責任にただぼんやりとしていたいそれだけのことと云っても良かった。郷里も知らず父の代から不在の自分が、旅の半ばで引きかえし、故郷に無理を起すのは、却って所有の思いを失うにちかく、家そのものを失っても、思いを心にとどめて行く旅の途上は、振り返る家の景色も艶を失うことがない。人の家は、それぞれこうして心の奥底ふかく一つずつ持たれて来たのは、絶ゆることのない誰もの旅の姿だったと、矢代はそう思い、村びとたちの話を聞くのだった。
「お墓のあるのは、これで、どちらの方ですか。」
矢代は墓地のないこの寺の境内が訝しく訊ねた。
「あんたさんところのお墓はな、そら、あそこに見える山ですが。」
傍の浄瑠璃口調の老婆が門の前方、真直ぐに見える丘を指で差した。さきから矢代はその丘をときどき見ていた。小松林のおだやかな丘の麓に見える一軒の人家が、記憶の底に残っている彼の家らしい位置だったからである。
「そうすると、あの麓の家が、僕のいた家らしいですね。すっかり御無沙汰していたものだから、夢の中のような気がしましてね。」
「あれまア、ひどいこと云いなさるわ。御自分のいられた家もお忘れで、他愛もない。」
老婆もおどろいたと見えて、ちょっと矢代の膝を打つ手真似をしてから優しく口に手をあてた。いったいこの地方は浄瑠璃の染み入った土地とは聞いていたが、それにしてもこんなに若やいだ身ぶりの老婆の肩から自然に出たのは、幼少に自分を抱いた記憶のためかと、矢代は何ぜともなく嬉しかった。
「あんたさんのいなさった家は、今は田になっておりますぞ。」
と、父と相撲をとったという老人が不意に云った。
「いやいや、あれはな、この人の祖父さんの家じゃ、この人は知りなさるまいよ。」
こう云い出したのは父と浄瑠璃を習ったという老人で、矢代はその祖父の家というのもかすかに覚えていた。祖父は矢代の生れた日に亡くなり、その家にいた祖母だけは彼はまだ記憶していたが、その二つの家の一つを売り父の家へ叔父一家の移り棲んだ顛末を瞭らかにすることは、若い矢代に不向きと気附いた様子も見え、浄瑠璃の老婆は怜悧にすぐ話を外に反らすのだった。
「あんたさん、これからたまには、お帰りなさるもんですぞ。なア、あんたさん、ここはな、あんたさんとは切っても切れぬところじゃによって、お墓もここへ建てなされや。これなア、もうし。覚えていなされや。」
ふと他から何か云いよって来た老人も二人あって、一時にその方へも向きかからねばならぬ矢代の膝を老婆はまたしつこく打った。この故郷の九州の地よりも、母の実家の東北地方の人のいぶきをよく浴びて来た矢代は、見たところ、父の里と母の里とはひどくまた違ったものだと思った。家督をつぐ相談に母方の叔父の貞吉の所へ矢代が行ったとき、貞吉は彼に、
「とにかくあの九州という所は妙なところだ。僕らの東北地方はたった一度悪事をすると、後は山ほど良いことをしても、もう受けつけないが、そこへ行くと、九州は過去を問わぬ。あれだから大西郷なんて人物が出たのだね。」
と、多少は矢代の肩身に幅を与えるつもりかこう云ったことなど、彼は今あらたに思い出された。過去を問わぬ。なるほど、ここは郷里も知らずに帰って来た自分に、今もこのように、手厚い呼吸を吹きかけて来てやまぬもののあるのを見ても、宗麟のむかしも同様ヨーロッパから「雲の波、煙の浪を凌ぎ、今この日域に来って貴き御法を弘む。」という風なカソリックの天国の福音を仏者の声音で吹き靡かせば、過去など論なく言葉のあやに随い、頭の芯も拍子をとって踊り出す情熱的な舞いごころも、どこより烈しかったことだろうと推測されて来るのだった。
本堂で若い和尚の経があって、それから矢代は村びとたちにつれられ墓場のある山の方へ案内された。田の中の細い路を行く途中に、また一人中年の農家の者が一行の群れに混った。この人は矢代の方へ進み出ると、低い腰で遅参を詫びたが、矢代はこの人も知らなかった。浄瑠璃の老婆は傍から、
「この人は、そら、あそこに見えるあんたさんのいられたお家の人ですよ。」と、矢代に訓えた。
「ああ、あなたでしたか。みなが御厄介になっておりまして。」
矢代は突然胸を衝かれて引き下る感じになり、あらためてその農夫の顔を瞶めた。身の緊った、天候の変化に敏感そうな細面の眼差の底に、技師のような綿密繊細な涼しげなものを含んでいた。矢代は農夫も変ったと思うよりも、この人ならいつまでも家を貸したい家主の気持ちの先ず起るのを覚え、前方の山麓に見える自分の家に眼を移した。
山を断り崩した赧土を背に、屋根の瓦の縦に長い側面をこちらに見せた二階家である。それは立派な家とは云いかねるものだったが、まだ誰も、あれを自分の物だと知っていてくれるもののないのが心寒く、その隙間に通うひそやかな風の中から、そっと瞶める彼の視線にも力が籠った。周囲のものが急に消え散った思いのする、明るい空洞の中の自分の家は、矢代の視線に堪え得ぬような風情でじっとこちらを見ていた。矢代は胸の動悸が昂まり鳴った。足も自然に早くなり躓きかけようとしたが、それでもまだ彼は瞶めつづけた。傷んだ物小屋の羽目板には、新しく繃帯ですぐ手当をしてやりたかった。土質の酸に沁み込まれた皹《あかぎれ》やひびが眼についた。実際、彼の家も何かと絶えず闘っていた様子ながらも、蔵や母屋の膝から上は、まだ健康そうな色艶を失っていなかった。父より永く生き、子の矢代より長命しそうな巌乗な肩には、その後も引き受けてくれそうな緊った木理の眼さえ彼は感じた。
坂を登りつめた上は、家の中庭になっていた。矢代は父の骨を胸の方に廻し替えて、竃の光った間口の方へ向け中庭を通っていった。近づいた家の間口が拡がるように見え、そして、中から我さきにと這い出て来る薄暗みの気配を彼は眼で制しながら、
「黙って、黙って。」
と、何ぜだかそう云いたくなった。半ば閉った蚕室の雨戸に日が射していて、桐の花が高い梢の頂きで孤独な少い筒を立てていた。明るい空に沁み入りそうな淡い紫の弁をふと見上げたとき、思わず彼は悲しさが胸に溢れて涙が出て来た。
中庭を脱けた裏から栗の木の多い山路にかかった。嫩葉色の顔にちらつく登り路を暫く行くと、右手に一部平坦な部分が見えて、そこに大小百基あまりより塊った墓があった。
「ここのお墓は、これ皆あなたさんところのばかりですよ。」
と、先頭に停った老人が矢代に告げた。他家の墓の一つも混らぬ墓地というものを見るのは、初めてだったので、そう云われると彼もうろたえを覚え、先ずどの墓を主にして拝んだものか見当もつかず、
「祖父さんのはどれでしょうか。」
と若い和尚に訊ねてみた。和尚は墓地の一番端にある一つを指した。今まで父以外に、一族の中では、祖父がもっとも親しく権威あるものと思われていたのも、亡くなった先祖たちの中では、末座にかしこまっていたのだと彼は知って、亡きものの特別な順列の厳しさだけは、生あるものいかんとも狂わしがたい自然の命令だと思った。彼は父の骨も石の出来るまで祖父の前の片端へ置いてもらいたいと頼んだが、こんなことは母からも聞かされず出て来て見て気づいたことの一つなのは、やはり母は争われず、自分と違う他郷のものだったと、今さら彼は思うのだった。
納骨の場を掘ってくれている間に、矢代は墓石の間を廻り碑面を読んでみた。絡りこもった野茨の蔓が白い小花をつけて石を抱き、嫩葉の重なり茂ったその裏から、滴りを含んだ石の刻みがつぎつぎに露われた。みな古い時代のもので矢代の知らぬ先祖たちばかりだったが、いずれも氏名は矢代と同じで、また碑面の姓のどれにも藤原
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