ことが嬉しいと見えて、一家中でも彼がもっとも義理人情に厚い人物だと云って、家庭内における槙三のおだやかなことや、孝行者で不平不満を少しも云わぬ性癖のことなどを話した。
「そういうのこそ、知性のある日本人というのだなア。」
矢代は広広とした横幅の石段の磨滅した傾斜の部分を選びながら呟いた。敷石の隙間に幼い草の芽が見えていて、日光が二人の影を鮮やかに段ごとに倒し、石の肌まで暖かそうな景色だった。
矢代は寺務所で父の戒名を書きつけ骨箱を渡してから、本殿の方へ廻された。本殿と一番奥の霊屋との間の庭は、一町四方の緩い傾斜を見せた正方形で、真白な砂を敷きつめた単調さの中央に、正しく帯のように霊屋の正面まで石畳が延びていた。仏具のない寝殿造りの神社に似た霊屋は、照り輝く砂の白さに調和した破風の反りを波うたせ麗しかった。まったくここだけは、平安朝の姿をひそかに残した閑寂な明るさに満ちていた。庭の背後の杜の中から鶯の声も聞えた。
「ここはこれから、ときどき来たくなる所だな。」
平坦な砂の中に立って矢代は、邪魔するものの何もない空を仰いだ。空を真近く呼びよせた砂の白さの中では、千鶴子のぴったり詰まった黒い服色は、光を吸いこみ、ネットの紅の一点がなまめかしい匂いを放つようだった。
「お父さん、あそこへお入りになるのね。」
千鶴子は霊屋の方に向いたまま、うらうらとした光に眼を細めて云った。「お父さん」と何げなく云った千鶴子のその呼び方に、矢代は一瞬、ま近に迫って囁くような新しい呼吸の温もりを感じた。それは何んとなく、運命というものの顔を不意に見たようで、もう一度見たいと希っても、再びは見られぬ初初しい温もりに似たものだった。
「あそこは霊屋だから、先ずあそこだろうが、地下室が素晴しく広いらしいんですよ。」
「でも、ここなら京都へ来るたびに、お詣り出来ていいわ。来ましようよね、ときどき。」
本堂の方から誦経の声が聞えて来た。多分父の骨に上げていてくれる経にちがいなかった。二人は本堂へ引き返してみると、如来の立像図の周囲に烈しく後光の射した掛軸が垂れていて、その前の三宝の上に父の骨箱の白布が小さく見えた。矢代たちは僧侶の後に坐って誦経のすむのを待つのだったが、待つ間彼は掛軸を見ていると、金色の後光の放射がつよい線で出来ていて、軸からはみ出しあたりを突き射すような勢いこもった漲りを感じた。その中央の如来像も素足を踏み出すように宙に浮き霊屋の方へ人を誘う眼差しつよく、颯爽とした凄しさがあった。そして、もうこのあたりは悲しさは影もなく、見るもの一切が明るくのどかだった。誰もここでは、これで先ず安心と思うように出来ている空気に、矢代は感服し、自分も何に安心したのかきょろきょろ周囲の様子を見廻すのだった。
誦経がすんでから、父の骨は三宝に載せられたまま、僧侶の手に運ばれてすぐ霊屋の石畳の方へ渡って行った。黄色な袈裟懸の袖の動くその方へ、矢代と千鶴子も急いで靴を履きついて行った。しかし、父の骨は、
「お前たちまだ来るな。」
という風な、突きとばす迅い足もとで、素気なく石畳の上を渡り、霊屋の中へ消えて行くのだった。矢代はもう追っつけず唖然として遠くから三宝の上の白さを望みながらも、それでもまだ霊屋へ急いだ。
「迅い足だなア仏さんは。おどろいた。」
人気のないひっそりとした霊屋の前で、矢代は賽銭箱に銀貨を落し、お辞儀の暇も急がしい気持ちにされるのが不服だった。父の骨は一番上段の扉を押し開いて見えなくなった。危く矢代はそれも見脱しかけ、やっと眼で父を追い送ってから、虚ろなまま立っていると、早くもそこへ空になった三宝を捧げた僧侶が戻って来た。そして二人の前を顔も見ず、すたすた行き捨てて石畳の上を渡っていった。
「なるほどなア。」
と、矢代は思いあたる所があってこう呟いた。
ここでは生きた人間のことなど憂うるのが愚かなことだ。見捨てられて行くのこそ逆に生への歓びと感じるべき筈の所だと思い、彼は爽爽しい思いを恢復してみて、もう一度賽銭を投げ直した。壁のない堂内の、透けた閑寂さの中に立った柱の細みも、背後の森の青さに射し洗われ板間に映るように美しかった。吹きぬけの向うで、杉の巨木の肌に流れた樹脂の艶が自然の潤いに見え、万事ここではこうして仏から放れた清潔さを保っているのが、自然に僧侶の心さえ変形させているのだろうか、神官に似たあんなに無表情な沈黙に僧を還らせるのも、ふとこぼれた人間の情かもしれない。
「これで僕も安心した。」
と矢代は今度は、物足りた気持ちで、日の射す砂の方へ向き変った。霊屋の前から離れて行く二人の靴音が、石畳の上に響くのも、このときは生きているものの権威さえ覚えしめ自分の耳にはっきりと聞えた。渡殿の廊下をくぐり、また街の方へ向って勾配のある坂を下るときも、思わず胸を反りたくなる晴れやかな一望の眺めだった。
「あたし、お伊勢さんへお詣りして、良うござんしたわ。鶏もいるんですのね。あそこには。」
石段を降るとき、ハンドバッグをかかえ込み、黒の手袋をはめながらそう云う千鶴子の自然さが、矢代には、もう諛いも含まぬ声に聞えて頷いた。前から彼は、階段を下るときの、千鶴子の膝の伸び降りて来る表情が、好きだったが、今もその膝が眼につくと、翌日また別れてひとり旅だつ自分の九州行きが怪しまれ、今夜東京から集って来る塩野たちの賑やかさを脱すのも、約束甲斐のない無聊なことと思われるのであった。
「京都を見るのは早くて三日はかかるだろうが、明日からはまた賑やかなことだな。」
「お発ちは明日ね。」
「朝発つと、次の日の今ごろは、お寺詣りをしているころでしょう。」
「もう一日お延ばしにはなれませんのね。」
あらかじめ寺への通知もしてあることとて、それは出来ないと彼は答えた。そして、千鶴子と二人ぎり会っていられるときの間も、後一時間あまりの昼食までかと思うと、矢代は並んで降りて行く石段の美しい広さも、短かく惜しまれて急がなかった。巻藁の筒から滑らかな赤松の枝が延びていた。築地の間を下から拡りよって来る池の蓮の葉の群がりが、役目をすませた自分を待ち受けてくれているように、姿を崩さぬ慎しやかな丸みに見えて至極のどかな感興が湧いて来た。
「九州行きも、何んなら、あなたを誘惑して行くべきなんだが、まア、この度びは遠慮をした方が良さそうだな。」
と彼は太鼓橋の欄干に膝をつけて笑った。
「あたしはお伴してもいいんですのよ。でも、何んだか皆さんいらっしゃるし、それに、あなたのお宅の方にいけないと思うの。どうかしら。」
千鶴子のそう云いかねているのとは反対に、矢代の場合は、二人の結婚を許可してくれた千鶴子の兄たちへの礼儀も忘るべからざる今の心得だった。しかし、伴に行きたい気持ちの匂い出るのもまたやむを得ず、結局は一人で行くことに落ちつくのも瞭らかだのに、暫くは微妙に押しあい跳ねあうよじれも、無駄につづく今の沈黙の始末だった。
「どうなすって。あなたが良いと仰言れば、あたし、そうするんだけれど。」
千鶴子も橋の反り上った石から動かず、笑顔の消えた迫り気味の表情で彼に訊ねた。
「いや、やはり一人にしましよう。」と彼は答えた。
「そうね。」
千鶴子は短く安心したひと言で決したようだったが、まだ何か、思いの残る風情で水面に動く鯉の輪を見降ろした。矢代はともかく昼食に落ち合う一休庵のある方へ車を探した。二人は丸山下で降りてから公園の中へ入っていった。夜桜はもう葉桜となって無数の糸を垂らしていた。姿の良いその幹を右に眺めながら、また少し登って池を越え山手へかかってから、二人は自然に道の細まる方へと足が動くのだった。
夜になって塩野と佐佐が東京から着いた。その後一時間を隔いて東野がまた来た。矢代は始めは皆から離れひとり出発するのをさみしく感じたが、落ちついて旧蹟を観るのは、やはり一人か二人の方が良いと思い、また父の骨を持った身で皆の歓びの中に混じるのは気もひけることとて、予定を変更して滞まる気にはならず、翌朝そのまま出かけることに決めた。
「とにかく、出来るだけ早く納骨をすませてから、また来るよ。僕のは葬式の延長だからね。」
こう彼はひき留める塩野たちに苦しく云ってはその場を切りぬけた。夜も皆の行き先きの料亭から、塩野と槙三、千鶴子と彼の四人だけ先に早くホテルへ帰った。東京でもすでに海外版の写真で活動を始めていた塩野は、明日からの京都の旧蹟を撮ることに、今から愉しみぶかい興奮を示して絶えず活溌に話したが、矢代だけは明日の別れもあり、また皆のものを京都へひき出したこの度びの責任の回避も覚えて、とかく沈みがちに気重くなるのだった。ホテルの自室へ戻ってからも、翌朝の出発を今夜の夜行にすれば九州からの戻りも一日早くなり、それなら帰途京都へ着くときもまだ一行に会われそうな余裕もありそうだったので、ためしに一応駅へ寝台の問合せを頼んでみた。すると寝台も一人ならまだ工面が出来るとのことだった。時間を見ると、その列車は後二十分より間がなかった。二十分では躊躇もされたが、それはまだ遅すぎるわけでもない間に合う時間だった。
彼は荷物をあわただしくまとめてみて、千鶴子の部屋へだけ行ってみた。
「僕ね、このすぐの夜行にしましたよ。皆さんに黙って行きますから、あなたから宜敷く――」
帽子を手にした矢代を見ると千鶴子は、不審しそうに黙って立ち上った。
「これで行くと一日早く戻れますからね、それだとまたここで落ち合えますよ。じゃ。」
矢代は答えも待たず部屋を出た。彼の後から廊下を随いて来た千鶴子にエレベーターの口で彼は手をさし出した。力も緊って来ない弛んだ千鶴子の手をまた彼は振った。
「僕もびっくりしてるんですが、とにかく、寝台があるというもんだから、逃せない。あなたはゆっくりしていて下さい。」
「じゃ、電報下さいね。」
千鶴子も初めて納得したらしく彼と並んで階下へ降りて来た。駅から遅く一人で戻るものの気苦労も際し、見送るという千鶴子を無理に回転戸のガラスの前で止めたまま、ひとり矢代は駅の方へ車を走らせた。
夜行にはまだ五分も間があった。躊躇することなくば急場の無理も調子よく行くものだと、ほッとした気持ちで、彼はすぐまた旅臭い寝台でひとり寝る準備にとりかかるのだった。このような急がしさも幾回もやったものだったが――彼はヨーロッパの見知らぬ山中での不意の乗り替えや、出発の際の危い佗びしさを思い出したりした。そして、落ちつくと初めてまた彼は旅への郷愁をつよく覚え、身にせまりよって来る空や水の、拡り流れてゆくさまを胸痛く惜しんで眠りがたかった。
次の日の朝眼を醒すともう関門海峡にかかっていた。矢代は海峡を渡り門司から裏九州の方へ支線を廻って行って、父の郷里の駅へ着いたのは、正午を少し過ぎたころだった。そこから再び一時間もバスに乗り、終点で停ってから、また約半路ほども歩かねばならなかった。前に彼の来たのは少年のころであったから、行く路傍もうろ覚えの程度でときどき目的の村と寺の名を尋ねた。海から続いて来ている川添いの土手には、背の高い芒がのび茂っていて眼路を遮った。桑畑や麦畑の間から山が見えて来たとき、矢代は鋤を肩にして通りかかった四十年配の農夫に、
「城山というのはどの山ですか。」
と訊ねてみた。低い幾つもの峯が平野の方へ延びて出ている中央の、一番高まった峰をさして農夫はあれだと答えた。寺へ着いてから村人たちの出て来てくれた後では、彼の想い描いていた場所をひとり静かに歩いてみることも出来そうになく、まだ知られぬ今の間に、彼は先祖の呼吸し、眺め暮して滅び散った館の跡を見て置きたいつもりであった。田の中の路の四つ辻の所に石地蔵があって、その傍に駄菓子屋が一軒見えた。矢代はそこで駄菓子とサイダーを買ってから、荷物のスーツを一時預かって貰うことにして、父の小さな骨箱だけを携げ山路を登っていった。
城山は馬蹄形の山容で、部厚い肩から両腕を前に延ばしたその真ん中の、首の位置にあたる場所に、谷から突っ
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