て行くホームに残った黒い鉄柱の足影が、過ぎゆくものの落した姿のようにさみしく朧ろに霞んだ。ホームの屋根の間に満ちた薄霧の中に光線の川が流れていた。その下で、箒を持って動く駅員の姿が、漂うひとときの哀愁を掃き集めているようで彼の眼に沁みて来た。
「じゃ、ちょっと行って来ます。」矢代はベルの鳴り出したとき母を見た。
「お頼みしましたよ。気をつけてね。」
母の後ろで笑っていた幸子の顔が泣き出しそうに緊った。矢代は踏段に足をかけたまま二人から遠ざかっていった。寝台に戻ってから車内の鎮まるまで、彼は上衣も脱がず暫く長くなっていた。頭の傍のスーツの中の父と、先日東野の持って来てくれた結納の金糸銀糸の鶴亀が、辷って行く車の方向に多忙な犇めく混雑を感じさせたが、間もなくそれも、トンネルを脱け出る空を見る思いで、次第に明るく展けてゆくのだった。
箱根をぬけ沼津へかかったころから彼は眠くなった。しかし、彼はうつらうつらと眠りながらもまだ何かしきりに考えている自分を感じた。明朝は早く眼を醒さねば困る。夜の明けるのは琵琶湖の見え始めるころだとすると、少くとも石山あたりで起きていなければ、すぐ逢坂山にさしかかる。父の成就させたそのトンネルだけは、どうしても父の骨に見せねばならぬ。――こんなことを考え考え彼は眠っているのだった。ときどきはっきりと眼が醒めることもあったが、車内を見るとまだやはり夜中だったりした。一度眼が醒めると、寝つくのがまたなかなか厄介で、出発前に気にかかっていたことなど、あれこれと思い出したりした。
「まア、君もお金が沢山あったところで、結婚すれば、遊んで暮すということはしない方がいいですよ。だから、君、久木会社へ入社しなさい。席だけ入れておけば、後は僕が何んとかする。」
結納を携えて東野が来てくれたとき、親切にこう彼に云ってくれたことなど、矢代は眠つかれぬままその処理について考えた。このことは彼にはかなり重要な問題で、考え始めると眼が冴えてゆくばかりだった。
「僕にはお金などありませんよ。ですが、久木さんの会社へ勤めるといっても、僕などあそこの会社にとっちゃ、ただ邪魔するばかりで、不用な人物になるのが落ちですからね。それじゃ、気の毒でしよう。」
と、矢代は有耶無耶にそのとき答えたが、いつもの癖で、東野は彼の思惑など頓着せず、まア、入れ入れという鷹揚さで、勝手に矢代の入社を定めてしまったらしかった。矢代も拒絶するとなると父と、久木氏の関係を話さねばならず、また話したとてそのような矢代の特殊な困惑など他人に通じさせることは無理にちがいない種類のことだった。久木氏のことで死を導いた父のこの骨箱だとしても、それが誰があり得べきことだと思うだろうか。
「何も勤めるといっても、毎日出勤する必要はないのだよ。君は今の仕事をそのまま続けていて、少しも差しつかえはないのだし、またそれには君が入用な人物だというのだからね。」
そういう東野の話しぶりでは、久木会社というような特殊に尨大な会社では、その中にまた自ら社長専用の小さな特殊世界というものがあるらしく、そこでは会社の用務に不向なものばかりを集めた研究生を必要とするのだとのことだった。それも久木氏個人の趣味と見え他の会社には存在しない、無用の用を弁じる性格らしく社長と社員との関係さえもない。随って矢代の入社も今は他のことは考えず、東野個人の顔を立てれば良いという簡単な処理で決定する風なものだったが、それにしても、絶えず父の死の記憶の蘇って来る久木会社へひたることは、人には語れぬ苦痛の焔を背中に燃しつづけるようなものであった。しかし、それもこれも、今は仲人の東野の気苦労な裁量で、定ったと同様な状態になってしまっていた。
草津の駅を越したころ矢代はもう眼を醒した。すぐ石山にかかると、湖の上に曙色がさして来て、比叡の頂が薄靄の中に染って見えた。彼は洗面を急いですませてからまた寝台に戻り、人に見られぬようにカーテンを締め降ろして、スーツから父の骨を出した。大津の街は湖に包まれ夜明けの白い湯気を立てていた。矢代は半身を起したまま、白布の骨箱の一つを両手に捧げるようにした。湖の色が山際に傾きよったと見るまに、流れ込む水のように轟きをたてて、車窓は逢坂山のトンネルに入っていった。矢代は臭気の籠った煙のまい込む生温さに、のしかかって来ている山梁の部厚さを覚えた。またそれが、父の骨骼のようにも感じられると、骨箱の角を握る手も、ぽッと明りの点いた一点の音を捧げているようだった。
父の微笑していた顔があたりの闇の中に大きく浮んだ。それは額縁の中の父のようでもあれば、夢に見た動かぬ父の顔にも似ていた。駈け通って行く車内の流れが、ここだけは父のその顔を中心にいま風を切っているのだった。矢代は白布に押しつまって来る時の迅さを感じ、父の仕事のすべても、こうして自分を運ぶものに変えられているのが、暫くは何んとも奇妙な有り難さとなり、湖の水色も巻きこめた澄み細まった気持ちともなって、空明りの射して来るまで彼は呼吸を忍ばせた。間もなく、山科の平野は雲に蔽われた牛尾山の裾から開けて来た。彼は水車の雫の飛び散る川添いの垣根に、赭茶けて崩れた泰山木の大きな弁を眼にすると、父の骨箱をスーツに入れた。
昨夜は雨と見えて京都の街の瓦はまだ濡れていた。矢代が京都ホテルに着いてから名簿を見ると、千鶴子たち一行はもう着いていた。矢代は朝も早すぎたので誰にも会わず、すぐ自分の部屋で湯に入った。そして、少し寝不足を補ってから十時ごろまた起きた。出来れば彼は午前中に納骨を済ませたいと思った。
矢代が下のロビーへ降りて行ったとき由吉と千鶴子、槙三の三人は茶を飲んでいた。退屈そうにパイプを啣えている旅馴れた由吉の傍で、下唇の赧い槙三は、制服のまま人の好い微笑を泛べて黙っていた。千鶴子はエレベーターを出て来た矢代を見かけると、小腰を浮かせ片手を上げて笑った。矢代は寝不足の恢復で卓上の紅茶の湯気が新鮮に見え、折よく霽れて来たことを口にするのも実感が籠った。彼は槙三と会うのが久しぶりで特に彼の微笑した眼差が懐しかった。昨日は伊勢から長谷寺へより、奈良から夜遅くこのホテルへ着いたことなども、彼の話から推測するのだった。
「どこがお好きでした。」と矢代は槙三に訊ねた。
「伊勢でしたね。タウトを読んだせいか、内宮は立派だと思いました。」
黙っているくせに、話すとはきはき発音する槙三の態度を、いつものように矢代は好もしく感じた。殊に数学を専門にする槙三のような学生が、大廟に参拝して来て感動を顕わすのを見るのは、杉の葉の匂いに拭き洗われて来た体を見るようで、一層この午前が爽やかだった。紅茶の間、今日の行くべき所を四人で相談した。由吉は案内役の知人が正午前に来ると云うので、昼食時の落ち合う場所を定め、矢代はそれまでに西大谷の納骨をすませる予定を話すと、千鶴子も一緒にそちらへ廻りたい旨申し出てくれた。槙三は午前中は博物館を見たいと云うことだった。自然、矢代、千鶴子、槙三の三人が同じ方向になった。
由吉と別れて三人が自動車に乗ってから、骨箱を膝にした矢代の両側で、暫く千鶴子たち兄妹は黙っていた。矢代は三人が結納のためいつか親戚になっている真新しい今日の事実も、ふと思うと、まだ嘘のような物足りぬ感じだった。しかし、この前こうして三人で会ったときより、親しさの濃度は争いがたく深まっているのも、却って、槙三を見る矢代の胸に遠慮の増す思いもつよくなり、彼はそれを素知らぬ風に装うにもとかく羞う気持ちさえ感じるのだった。実際、何かしら変っている一同の沈黙だった。
「いつか千鶴子さんからうかがったこと、ついそのままになって失礼しました。どうも僕には、あの集合論のことは難しくって――」
矢代は横浜で東野らの船の入港を待つ間に聞いた、千鶴子が槙三から依頼されたという幣帛の切り方と集合論の相似の件につき、そのまま返事を遅らせていた自分の無沙汰を思い出して詫びたのだった。
「ああ、あれですか。」
槙三も思い出したらしく笑った。
「ああいうことは、僕は、ただの暗示があるということだけでも良いと思うのですがね。馬鹿らしいと思えば、もう何もかも馬鹿らしくなる種類のことなんだからなア。」
骨を抱いた身で、もう今は云うまいと努力しながらも、返事を遅らせた責任上、矢代はそれだけ云って今日は終りにしたかった。
「しかし、あのことは僕らにとっては、ただの偶然事だということだけでも、一つの点になるのです。何ぜかと云いますとね。」
と槙三は矢代の方に向き変って来ると、曖昧さを赦さぬ青年らしい活き活きした眼もとで云った。
「僕の今、一番に困っていることは、数学の公理というものは、どこを信じていいかということなんですよ。例えば、平面上の三角形の内角の和は二直角なりという公理と、球面上の同じ三魚形の和はそうではないといった公理とか、また、二つの平行線は相交らぬという公理が、無限の向うでは相交る公理になるとか、そういう風な数学上の根本の公理が、一つが正しければ他は不正だという風に、公理ではなくなって来ている場合のことに関して来ると、非常にもう困るのです。そうすると、やはりどうしても、僕はもう信仰を持たなくちゃおれないのですよ。僕は一番単純な公理を信仰しようと決心しました。それは伊勢でですが。」
単刀直入といいたい明快さで、槙三はそう真理の問題に関して云った。矢代は膝の上の骨箱のことも忘れた。まことに一つの公理が二つになるという単一性の分裂に際して、その一方を決意しなければおられぬ数学者の行動には、今まで矢代の聞かない新鮮なものがあった。思考というものを心情にまで高めなければ、生の意義はない、と悟ったパスカルに似ている。
またそれは数学のみに関したことではない、万事精神の世界に共通した真理の分裂に関する、今日の日本人の決定的な問題にも迫っていた。
「虚無的になれば、どんなに深かろうと結局は、どこまで行っても虚無的だろうからな。しかし、それはあなただけのことじゃないですよ。」
「そうです。それは虚無的になれば、どんなに深かろうと、何もないということですよ。」槙三はわが意を得たと云いたげに眼を光らせた。
「それで僕も、あなたが幣帛の切り方に注意されたのがよく分りましたね。しかし、むつかしいなそれは。」
矢代はこう云いながらも、この槙三という兄を持ったカソリックの千鶴子が、傍にいて、これで初めて何か得たにちがいないと思い、また異う一方の部分を喜ぶのだった。
「幣帛が集合論に似ているということは、僕にはただ偶然だっていいのですよ。それで先日もお訊きしたかったのですが、今の数学は集合論につきるといってもいいのです。それも、この集合論の公理は逆説が逆説を生んで、真理が何んともならなくなって来てるんです。またその逆説がどこで停止するかも分らない有様なんですからね。実際、数学もこうなっちゃ、僕らはどこに信頼すべきか分りませんから、僕は苦しくってたまらなかったんですが、もう僕も覚悟を定めました。それでなければ、僕には自由な零というものが分らない。」
悲槍に静まって行く槙三の面にも、乗り出て行くものの微笑がおだやかに漂って澄んでいた。疑うならば、公理を信じることを誓う場所を、どこにしようとも同じである。しかし、それを信じるからには伊勢にしたいと願った槙三の意気には、数学よりも幣帛に思いを込める祈りの高まりが感じられ、パスカルのように以後この青年に対う困難な勉学の場所も、矢代には推察された。それはもっとも攻撃に満ちた困難な道のうちの、また特別に難事な場所であった。矢代は、そこでまた微笑をつづけて行くであろう槙三を想像することは、何より今日の心愉しい、みやびやかなことだと思った。その平和なみやびやかさが良いのだと思った。
西大谷で矢代と千鶴子は車から降り槙三と別れた。蓮池に懸った石橋を渡って納骨堂の石段を登って行くときも、矢代は稀に見る槙三の端麗な精神について千鶴子に賞讃した。千鶴子も槙三を認められた
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