ったところで四人は降りたが、降りてもまだ東野は話しつづけた。彼は外国から帰って以来、日に日に中国への関心が前より一層強くなって来ていることを云って、とにかく、僕らの注目すべきところは、今はヨーロッパではなく中国だとのべてから、また彼はこうも云った。
「中国はフランスと非常に似ているだろう。ね、パリなんて、あれは君、中国じゃないか。しかし、僕はフランスより中国の方が、文明の度は少し高かったと思うんだよ。何ぜかというと、フランスという国は、見れば分る幾何学の国だ。実にはっきりしていて合理的だ。幾何学を数に代えたのが代数だから、つまり、さっきも云ったとおり代数の国だといってもいいさ。しかし、中国はそうじゃない。あれは妙な変数みたいなものだよ。」
屋根越しに不忍池が拡がり、折れた古い蓮の中から若茎の立っているのもよく見えた。矢代は椎の大木の嫩葉に日の射しているのを仰いでいると、博物館の中へ入るのが惜しまれて足も鈍った。
「しかし、中国と危くなって来たというのは、事実だろうな。これでフランスの共産党があんなに勢いを得て来た以上は、世界の均衡は破れたも同じだから、破れ口は西安で、蒋介石の頭へのぼって来たのかもしれないね。」
東野は矢代のそう云うのも、もう聞いていない様子でひとり足早やに先に歩いた。
「けれども君、そんなことは、僕らがいかに心配したって駄目なことだよ。」と東野は云って、また矢代をぐんぐん押しつけるように寄って来た。「僕らにとって究極の大切なことは、ソビエットみたいに人間に科学性を与えることよりも、中国みたいに想像力を人間に与えることだよ。人間の精神を知らすことさ。互にどこも科学ばかりが発達して、相手の精神を知らずにいちゃ、人と人との間の政治は悪くなるばかりじゃないか。そんなら悲劇は増すばかりだ。科学じゃ、精神は分るものじゃないからね。僕らがこうして博物館へ行くのも、つまりは、精神を知りに行くということだよ。人間が人間の良さを知りに行くというもんだろ。僕はこれを云うと、人から袋叩きにされるんだが、――君、僕は外国から帰ってから評判がひどく悪くなってね、手も足も出ないのさ。しかし、一人ぐらいは僕のようなことをいうものもいなきゃ、その国は駄目になるよ。国だけじゃない、世界もだ。」
分りきったことながらも、東野の云うことには、帰朝後に生じて来た彼の新しい苦しみが滲んでいて、矢代も黙って彼に頷くのであった。文字を書くことを専門としているものは、東野のみならず、結局は何らかの意味で、世界の誰も彼もひそかにパリと闘っているらしい風だった。
上野の博物館が石造の建築に変ってから、矢代たち誰も中へ入るのは初めてであった。一見したとき、矢代は、パリのモンマルトルの丘上を仰いだ瞬間に眼に映ったサクレクールの寺を思い出した。そして、も早や、博物館の屋根にまでカソリックは来ていたのかと思った。荘重で古典的な偉容を具えた明るさであった。異国の街街を歩いているとき、先ず初めに旅人は、そこの博物館を観て、その国のおよその文明を一瞥のうちに感じとるのが便法である。この自然な見方に応じるためにも、この博物館は相当の品位を保っていたが、この日の陳列品にはそれにふさわしい目立ったものはあまりなかった。ようやく光琳のあやめ扉風と、友松の干網の図が光っているだけだったが、しかし、この二つはともに優れたものだった。その他陶器には宋窯の滋州壺と、李朝の青磁が麗しく、日本物では織部の鉢に一つ、それから楽の長次郎が一個というところだった。
「この絵、モネーがいれば見せてやりたいね。」
と矢代は光琳のあやめ図の前で、傍へ来た千鶴子に云って、モネーの睡蓮の図と思い較べた。東野も光琳には満足した微笑を泛べて動かなかった。
「しかし、この友松も良いよ。ピカソならきっと光琳よりも、この友松を採るね。」と東野は、後ろの反対の壁にある干網の雄勁な屏風絵の方を振り返った。
二つを比較するのに身体を逆に動かさねばならぬのが、印象を壊して落ちつかなかったが、それぞれもっとも単純化を狙った二つの絵の新鮮な美しさは、観るもの二人をして争わしめるだけの力があり、その前から去りがたかった。
「諸君はどっちかな。御婦人がたは。」と東野はベンチへ反り気味に婦人たちの顔を見上げた。真紀子は、
「あたしはこちら。」と友松を指差した。
千鶴子は黙っていた。矢代は光琳のあやめ図の形象が図案化しているにも拘らず、遠近のはっきり出ている写真以上の高い象徴性から、元禄という文明のなみなみならぬ高さを感じて嬉しかった。これこそ不滅のものだと自覚した。悠悠たる作者の精神がそこにあった。その光琳の絵は装飾にちがいなかったが、装飾という儚ないものの中から、生命の高潮した姿を捉え、そこにまさに固ろうとした刹那の美の崇高な輝きを見てとって、儼としてその危険な一線に踏み停ってみたところに、日本のある優美な精神の限界を見た思いがした。
「この光琳は活眼ではないが、涙眼ですよ。人は活眼の方が良いというけれども、しかし、涙眼もこうなると、もう涙にうるんで人には分らないな。」と矢代は、人があたりにいないのを幸い、東野にだけ聞えるように云った。
「活眼はこの友松だよ。」と東野は云った。
「これはまだ象眼を脱けたばかりだ。」と矢代は一寸云い返した。
「いや、これを象眼と見るのは、君の眼が光琳の涙にうるんでいるからさ。たしかにこの友松も素晴しいよ。第一、これは非常に純粋だ。」
海岸に網が干してあって、その上から帆のかからぬ柱が二三本見えるだけの、簡単な、直線の部分ばかりで構成された白描風の屏風絵だった。
「しかし、これは十の字を描いて、これこそ一番純粋な絵だという、例の、そら、モンドリアンだ。誰にでも純粋に見えるところを、純粋にして見せただけの工夫でしょう。」と矢代はまだ東野に譲らなかった。
「しかし、この時代にこれだけの絵画理論を結晶させて見せただけでも、ピカソだよ。しかも、あの網目の直線と柱の交錯を見なさい。それに一寸、松の枝ぶりの柔い線を配してある結構なんて、ちゃんと伝統も失っちゃいない。これが活眼というものだよ。実にはっきりと、美しさというものの本質を見極めているのじゃないか。」東野の振り仰いでそう云うのを、少し真紀子に味方をし始めて動いてきたなと、矢代は思った。
「もっとも、僕はこの干網に失礼はしたくはないが、こうして、傍に光琳のあやめにいられちゃね。」
「光琳のは有るべき難しい肉を払い落しているよ。同じ肉を落すなら、初めから網や柱を選ぶ方が、徹底している。頭のいい絵さこれは。」
「まア、どっちも人間が一人もいないから、美しくなったのだなア。」矢代は、ともかく云わせて貰っただけの有りがたさを絵から感じ、ベンチを立った。
「うむ、それそれ。」と東野も烈しくもならず、気に入った笑顔で矢代の肩を優しく叩いた。「これはどっちも、描き良いのだよ。僕等は物云っては腐っちまう、人間のことばかり書かなきゃならんのだからね。」
「いや、腐るもの、それが良いのだ。」
矢代はそう云いながら、ほの暗い仏像の並んだ次の部屋へ這入っていった。ここではもう争うものは一つもなかった。群った男体女体の美しい仏たちの前を通り、曲った胴の剥げ落ちた胡粉や、ちらりと唇に残った紅の艶から、矢代は、やがては腐るもののおびただしい視線を吸いとって来た年月の、ある恐怖を誘う云いがたく静かな水水しさを感じるばかりだった。
博物館から四人が出て来たときは、まだ門前の椎の嫩葉に光が射していて、芝生の色の明るい方へ自然に足が動いた。東野は夕暮から出席すべき会があるというので、そこで別れて地下鉄の方へ真紀子と降りていった。矢代は千鶴子と陽のよく射した茶店を選んで赤い毛氈の床几に休んだ。どちらも疲れて黙っていた。そして、茶と鶯餅とを貰ってからそこに二人で並んでいると、矢代は何か急に老人じみた感じを覚え、またそれが却って一種ほがらかな、ゆったりとした気分になるのだった。
「ね、君、ちょっとお爺いさんお婆アさんになったみたいで、いいな。」
言葉もなくぼんやりと額に手を翳し、芝生を見ていた千鶴子はふふと笑った。
「芝生まで何んだか明るく見えるもの。」
「ほんとにね、お仏さんを沢山見たからだわ。」
「博物館を出て来ると、誰も少しは浦島太郎になるのかね。」
矢代はかるく鶯餅に手を触れてみて、こういう微妙な触感のものなど外国には一つもなかったと思い、めでたい感じで摘まんでから指先の粉を擦り落した。尖塔に似た博物館の屋根がはっきりと白く浮いていた。それはこうして離れて見れば見るほど、争われずカソリックから影響を受けた建築に見えた。
「ね、あの屋根、サクレクールそっくりでしよう。」と矢代は粉のついた指で尖塔を指した。
「そうね。一番似てるわ。」
「僕らの外国へ行く前にはあれはなかったんだが、こうしていつの間にやら、みんな集って来るんだなア。」
彼は尖塔を眺めているうちに、ふと傍に並んでいる千鶴子が松濤の木椅子の上で洩した言葉を思い出した。
「君はさっき松濤で、何んだかしら恐いと仰言ったが、別に恐れる要はないですよ。あのようにだんだんなっていって、中にはお仏さんもちゃんと並ばれるようになるんだもの。何んでもないさ。」
しかし、千鶴子はやはり黙っていた。矢代は鶯餅をまた一つ摘まむと、仏像の唇に滲んだ艶も指さきにつくように覚えお茶を飲んだ。緋色の毛氈の反射が赤赤と顔を染めるようだった。そして、自分の花嫁はまだ何かを少し愁いながらも見事にその上に坐っているのだった。
九時の夜行で矢代は九州へ発った。
千鶴子の家との結納もすませた四日目で、駅へは母と幸子とが送りに来た。あれほど一緒に行きたいと云った幸子も、このときは、一言もそれを云い出さずに留守居を我慢したのも、行くさきに千鶴子兄弟のいることを察した兄への同情であった。矢代は京都へは九州からの帰りに寄りたかったが、間もなく欧洲へ出発するという由吉の京都勉強のため、彼と一緒に千鶴子と槙三とが昨日東京を発って、途中伊勢の山田で一泊している筈だった。自然に四人は京都で落ち合う順序になっていたが、それも矢代から云い出したことではなく、出発まであまり日数のない由吉から云い始めたこととて、矢代ひとり日を狂わすことは出来なかった。また京都へは、由吉一行のみならず、塩野や佐佐、その他須磨の夫人のもとへ行く東野も、前後して来る模様もあった。
「あなたのお手紙のことなど、兄にも話しましたら、兄も心配そうに考えておりましたが、それでは僕と一足さきに、山田へお参りに行こうよと、そんなに云ってくれました。」
と、千鶴子の手紙にもあって、矢代は、磊落な由吉に似ず適当なその注意に、自分が三人より日を遅らせて行くことも、これで有意義になったと思った。
父の骨を小さく分骨にした二つの箱はスーツの中に入ったので、これを寝台の頭の傍へ置いてから彼はホームへまた降りた。母とは別に話すこともなかった。ただ彼は、いま少し母と妹との京都行きを自分からすすめるべきであったかと思われたのも、それを強く主張出来がたかった事情に対して、なおまだこのときも気弱く感じるのであった。母としても、良人の死のために結婚の日取りの延びた子の矢代を気の毒がり、こうしてひとり彼に良人を頼んだ配慮のあったことは、黙って並んでいる間も母子二人の胸に通って来た。おそらく母も、良人の骨を見送りに来ているとはいえ、一つは、子の新婚の初旅に出ようとする祝いをかねた心もあろうことなど、傍の幸子をひき据えて黙らせていることにも顕れて、常の旅とは違い、矢代は気まりも悪く寂しくも感じた。
「それから九州のお寺の方にも宜敷くね。」
母は思い出したという風に、ぽつりと矢代に云っただけだった。彼は頷いた。そして、外国から帰った夜、ここへこうして彼の降りたとき以来、初めて母と並んでいるこのホームだと思うと、そのとき母の前に立っていた父が、自分を見つけて「あッ」と小さく唇を開けた瞬間の顔が眼に映った。人の散っ
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