書の頁をくっている僧侶を見たりする図は、これもここでは物珍らしい風景とは云い難いが、矢代にとっては、これは社会の層の種類ではなく、自分の心中に棲む両極の図会となって自身の心の軽重をじりじり計るのである。
 右を見、左を眺めているうちに、千鶴子も何事か胸を打たれるものがあるらしくふと顔を上げると矢代を見た。矢代も千鶴子を見たが、こんなときに視線の合うのは何の意味もなくともはッとなり、急いで避け合うと、そのために一層ない意味までが深まって来るのであった。
 こうしているうちにも矢代は、いつの間にか千鶴子の考えていることを夢中になって追い馳けている自分を感じた。彼は汚れた煙があたりを取り包んでいるようにだんだん息苦しくなって来た。
「もうほんとに行きましょう。久慈さん、待ってらしてよ。」
 千鶴子は冷たい表情になって立ち上った。矢代も腰を上げてベンチから放れていった。
 一団の繁みの胴をコルセットのように締めつけている円形に並んだ鉄のベンチに、人は一人もいなかった。さわさわと立つ風にどこからともなく舞い散って来る落花を仰いでいると、矢代は今は何も忘れ、ただ故郷の空の色を感じて胸は淋しく湿って来た。
「どうもここへ来ると、僕は帰りたくなるんですよ。」
「あたしもだわ。」
 矢代はポケットに手を突き込みながら、ここでは恋愛などは、自分の故郷へ帰りたい心に比べれば物の数ではないと思い、柔い砂を靴先で蹴り蹴り歩いた。樹間の黄色な天蓋の下でメリゴラウンドが空転しつつ光っていた。千鶴子は樹の間のほの白い蕾を見廻し、
「でも、もうすぐ、マロニエが咲くのね。」と云った。
「そう、マルセーユより一と月パリの方が遅れていますね。」
「もう一二ヵ月すればきっと矢代さん、日本へはもう帰らないって仰言ってよ。」
 多分アンリエットのことを云うのであろうと矢代も苦笑を洩したが、それも向きに弁明する気もなく砂の鳴るのを聞きながら歩いた。


 通りや森や河岸の樹のある所には、マロニエが白い花筒の先きを揃えて一斉に開き初めた。重厚な椎の樹に典雅な桐の花をつけたかと見えるこの樹は、昔を今に呼び戻すただ一縷の望みのように美しい。ある夜、矢代と千鶴子と久慈とそれにアンリエットの四人が食事をすませてからドームにいると、東野に逢った。晩餐の後にどこへ行くかという相談はいつも議論を呼んで定まらないのが常だったが、この夜はブロウニュの森の湖水へ行こうという久慈の提案が直ちに通った。一つはもうすぐ、新しく来た日本人の案内役となって地方へ旅に出るというアンリエットとの、皆の別れの意味もあった。
「どうです。これからボアへ行こうというのですが、いらっしゃいませんか。」
 久慈は例の人の良さそうな笑顔で傍にいる東野をも誘った。四人はすぐ自動車を森へ向って走らせた。自動車の中で千鶴子は、
「今夜だけはもう議論はなさらないでね。」
 と皆に頼んだ。皆は声を合せて笑った。
「フランス人は女の人が一人混っていると、絶対に議論はしないが、あれは女というものは馬鹿な者だと定めているからだそうですよ。僕らはあなたがいても議論をするのは、つまり尊敬しているからさ。」
 と久慈は振り返り千鶴子を見て笑った。
「でも、こんないい夜は、頭の痛くなるのいやよ。」
「しかし、こんなに毎日遊んでばかりいると、議論でもしなくちゃ仕事をしたという気がしなくなるんだからね。」
 久慈のそう云うのに矢代は、
「僕らはここにいると、誰も生活がないんだからね。血の出るような生活といえば、議論をする以外に求めようがないんだから、まあ千鶴子さんも議論でも聞いて、生活しているんだと思いなさいよ。」
「いやよ、もう議論は。あたし、そしたら、フロウレンスかチロルへ行っちまってよ。」
「そうだチロルへ行こうか。」
 と久慈は急に大きな声を出した。「さっき聞いていたら、僕らの傍にいた日本人の連中がギリシアへ行く相談をしていたようだから、僕らもどっかへ行こうじゃないか。チロルへ行ってヨーロッパ第一の景色を見ながら議論をするのも、また格別だぞ。」
「石川五右衛門ね。」
 千鶴子の笑っているうちに甘酸い花の匂いの満ちたフォッシュ通りを突き切り、一同はブロウニュの森の口まで来かかった。
「僕の友人は日本を出るとき面白いことを云いましたよ。君がパリへ行ったら何も勉強せずに、ただ遊べと云ったが、遊ぶというのも全く骨の折れるもんですね。」
 こういう東野に久慈は、
「それや、そうだ。仕事をする方がどんなに楽か知れないや。」と賛成した。
 森の直立した樹間から早くも湖面の一端が桃色に光った生物のように見えて来た。
 自動車を捨てた一同は湖の方へ歩くと、一見|榧《かや》の樹かと見まがう松の間を通り、ボートに乗った。久慈と矢代はオールを持って東野が艫に坐り、千鶴子とアンリエットを中に挟んでボートは岸を放れた。湖面は人の顔もよく見えなかった。水藻の匂いが久しく忘れていた日本の匂いとなって矢代の鼻に流れて来た。なまめかしい紅色の西瓜のようなまん丸い提灯を艫につけたボートが、物も云わず幾つも舟端を辷っていった。
「ブロウニュの森の中でボートを漕いだら、もう日本へ帰ってもいいって誰か云ってたが、これなら矢代君も満足だろう。」と久慈は云った。
「まア、いいよ、ここならね。」
 矢代はこれで印度洋とアラビアとを廻って来て今パリでボートを漕いでいるのだと思うと、手にかかる一滴の水も、はるかに遠い故郷を眺める感傷となり窓の開いた思いだった。
「何ぜ黙っているのかね。これが青春じゃないか。」
 と久慈は云ってぐんぐん一人オールに力を入れた。
 闇の中でボートが擦れ違う度びに、脂粉の匂いがしばらく尾を曳いて水面を流れて来た。岸べの森の一角に見えるカフェー・パビヨンロワイヤルの天蓋の上には、一面の紅霧が棚曳き渡り、湖は森の地平から盛り上った張力を見せ灯火に光っている。
「あッ、危いわ。」
 と千鶴子が声を上げた。その途端、島から垂れ下った樹の枝が久慈の頭を撫でたので、そこだけ真白な花が際立ち騒いで揺れた。島の芝生の水に浸っている岸から、数羽の白鳥が水面へずぼりと端正な姿で降りて来ると、提灯の紅の円光の中をほのかな光りに染りつつ遊泳した。樹の下に停っているボートの中では、ときどき男女の一対が一つの影となって動かなかった。
「島へ上りましょうよ。もう暫くここへも来れないんだから。」
 とアンリエットは囁くように久慈に云った。ボートを島の渡場につけ一同は岸へ移って茶を飲みにカフェーの方へ歩いた。
 董とチューリップの放射状に開いている花壇を通り、明るいカフェーの庭に這入り、五人は向き合って卓を囲んだ。矢代はマロニエの太い幹を叩きながら上を仰ぐと、花がぽたぽた落ちて来て冷く鼻を打った。燭台に刺さった蝋燭のような無数の花序の集合した庭の中を光線の縞がはっきりと流れて見える。
「今夜は愉快だ。お蔭で手に豆が出来たよ。これ。」
 と久慈は両手を開いて皆に見せた。ボーイの手で裂かれたレモンが露を什器の上に満たしている間も、マロニエの花は絶えず卓の上へ落ちて来た。その度びにボーイは花を払い除けつつレモンを各自のコップに注ぎ込んだ。
 花冷えにうす冷たく汗のひいて来たころ、梢に縛りつけられたラジオから、ガボットが聞えて来た。
 久慈はさも感じ入ったという風に梢の繁みの中に輝いている電灯を仰いだ。しばらく、一同はオレンジを飲みつつラジオに聴き耽っているとき、
「あら、東野さんいなくなったわ。」
 と千鶴子は云ってあたりを見廻した。
 若葉の垂れ込めた二階の廻廊を通る靴音が淋しく響くだけで、樹の幹の間一面に並んでいる緑の椅子と卓とには一人の客もなく、ただ白い花ばかりがいたずらに散っていた。足もとの砂に混った花の中から捨てた煙草が鮮やかに煙を立てている。
「ああ、もう日本へは帰りたくない。」
 久慈は組んだ両手に頭を反らせてからかい気味に矢代を見た。
「今夜は、まア何を云ったっていいよ。」
 矢代は島の周囲を廻っている紅提灯を眺めながら、ふと日本へ帰れば自分は何をしたら良いだろうと考えた。人の一番望んでいるものを見てしまった空虚さに日日考える力も失われていく疲労を強く感じ、今はこの花の白さに溶け入ってなるままに身を任せてしまいたいと思うのであった。
「ボートが流れるといけないわ。もう行かない。」
 とアンリエットは久慈に注意した。
「あ、そうだ。」
 久慈は身を起しかけたが東野の姿が見えなかったので、また四人は椅子に腰を降ろして待っていた。
「この向うに、日本の滝と同じ滝があってよ、御覧になりたくない。」
 アンリエットの薦めに久慈は顔を横に振った。
「日本的なものは、ここへ来てまでも見たくないね。暫く忘れに来たんだからな。」
「あら、じゃあたしたちあなたにお逢いするのも考えなくちゃいけなくなるわ。」
 と千鶴子は皮肉そうに久慈を睨んだ。
「そう云うわけじゃないさ。外国にいるからには、なるたけ外国にいるんだと感じたいんだからな。」
 久慈の云い難そうな弁明も、それならやはり千鶴子よりもアンリエットと遊びたいと思わず洩らした意味ともなり、かすかにこぼれた千鶴子の笑顔も妙に久慈から遠ざかって消えるのだった。
 東野が花壇の中から現れて来ると一同はカフェーを出て、自分たちの乗り捨てたボートの方へ引き返した。木の下闇で道を手探りしなければ分らぬほど暗かった。足もとはなだらかな芝生とは云え、欄干もなくそのまま水中へ没しているので危険なばかりではない。いつどこに男女の影が潜んでいるか、このあたりはそのための配慮ある木の下の闇であってみれば、隠れた人影を乱すのもつまりはこちらが不注意なのであった。
 一同もそれを知っていると見えて言葉も云わず久慈についてぞろぞろ歩いた。すると、先頭に立った久慈は不意に途中で立ち停った。
「何んだ。」と矢代は訊ねた。
「道を間違えた。これや、たいへんな所へ来た。」
「しかし、あそこの提灯はたしかに僕らのボートだよ。」
「いや違う。」
 こう云いながらも久慈は水際の方へ降りて行こうとすると、
「あツ。」
 と云ってまた立ち停った。矢代は久慈の傍へよって行ってあたりを見た。一抱えもある丸い石のような塊が点点として散ったままじっとしていたが、よく見ていると、かすかにどれも少しずつ動くのが感じられた。
「ここ白鳥の巣だわ。」
 とアンリエットが上の方から云った。
「何アんだ。そうか。」
 と久慈も急に元気な声になった。今まで恐ろしそうにしていた千鶴子も降りて来ると、矢代の肩に掴まりながら白鳥の群れを覗いてみた。どこが水か芝生か分りかねる暗さの中で、矢代は千鶴子の重みを肩に受け何事か約束が果されつつあるように感じられ、そのまま立ち停っていつまでも白鳥の群れを眺めるのだった。
「白鳥の巣なんてあたし見始めよ。でも、真黒に見えるのね。」
 と、千鶴子はささやくように耳もとで云った。まだ気づかずに千鶴子はいるのだろうか、白鳥の巣とはそのままには解せぬ比喩とも矢代にはとれるのである。
「あら、よく辷るわ。あなた危くってよ。」
「なるほど。辷るな。」
 と矢代は云いつつ足もとの湿った芝生に力を入れた。しばらく、二人はそのまま闇の中に立っていると、傍にいた久慈はいつの間にか遠のいて、上の方でアンリエットと話しながら歩く靴音が聞えて来た。
「もう一度お昼に来ましょうね。こんなに暗くちゃ分らないんですもの。」
 白鳥を見るだけでは少し二人の時間の長すぎたのをどちらも感じ合うと、千鶴子は矢代から放れて芝生を登った。矢代も後からついて行ったが、いつ人影に突き衝《あた》るか分らぬ不安が歩く度びに足を遅らせた。間もなく、アンリエットと久慈の姿もどこにいるか分らなくなっただけではなかった。千鶴子の姿も全く闇に呑まれて見別け難くなった。
「これは困った。千鶴子さんどこです。」
 こう云ってももう千鶴子の声はしなかった。矢代は眼の見えなくなったのは自分だけなのであろうかと、靴さきを盲人のように擦らし擦らし歩い
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