ていった。
 矢代の足先きに花のようなものや、道と芝生の境いの籠目の金がひっかかったりした。少しわき道をしたために、これだけ道を迷うとはどういうものだろうと、矢代はいら立って来たが、しかし、それより、夜中ここで婦人を一人歩かすことは虎に餌を与えるのと同様な、恐るべき解禁のブロウニュの森の中である。千鶴子に闇中何者が飛びかかるか知れない危険を思うと、矢代も彼女の手を曳かずに歩いた自分の無謀を今さら恥かしく、もどかしく歎かれて来るのだった。
「千鶴子さん。」と矢代は呼んでみた。
「ここですのよ。」
 そう云う千鶴子の声は意外に遠くの方から聞えて来た。
「危いから待っていらっしゃい。」
 矢代は樹に突き当ってもいいと思って勢いよく声の方へ進んでいき、
「あなた、それで見えるんですか。」と訊ねてみた。
「暗いのね。」
 と千鶴子は矢代の声も聞えない風だった。ここの造園家は夜の人間の眼まで考えて樹を植えたのだと、急に矢代は幾重にも落し込む陥穽《おとしなな》を見る思いで腹立たしくさえなって来た。しかし、千鶴子に声を出させることは、今は、闇中に迷っている彼女の在所を潜んでいる虎に教えることと同様だった。
「じっと立ってらっしゃい。」
 と矢代は云いながらも、しかし、人間が猛獣より恐るべき動物になる森を市街の中に造ってあるパリの深い企てを考え、も早や云うべからざる近代の寒けを感じ、なるほどこれは闇だなと思い進むのだった。
「どこです。」
「ここ。」
 と今度は千鶴子はすぐ傍で答えた。拡げた手と手が触った瞬間、思わず二人は両手を握り合せた。
 提灯の火はここからはよく見えた。道も広く下り坂になって来たが、重なる樹の幹に隠されすぐまた提灯が見えなくなった。
「この森は魔の森と云って恐ろしい森ですから、気をつけていらっしゃい。」
「恐いわ、そんなこと仰言っちゃ。」
 千鶴子の擦りよって来た手を指環の上から握り矢代は曳くように歩いた。湿った樹の幹の間に前から漂っていた脂粉の匂いが歩く身体に纏りついて追って来た。坂道のせいか千鶴子はぐんぐん矢代を押して来ながら、
「多勢で来ると短いようだったけど、道を間違ったのね。」
 と云うと、どっと何かに躓いて倒れかかった。矢代は引き立てるようにして水際の方を覗きつつ歩いたが、ボートはどこにも見えなかった。ボートなど無くなっても千鶴子と二人でいる以上は、このまま見附からない方が良いとも矢代は思い、もうゆっくりと肚も坐って来るのだった。
「さア、しまった。いよいよ帰れなくなった。」
 と矢代は云って立ち停った。二人は黙って水辺を見降ろしていたが、
「いいわ、行きましょう。」
 と千鶴子ももう元気な声で云うと、自分から矢代の腕を持ってまた歩いた。
 闇に馴れて来ると森はさまざまな匂いを放って来た。パリに永く生活している人で、闇夜に森の中を婦人と二人で歩くことほどこの世に幸福なことはないと云った言葉を、ふと矢代は思い出した。
 なるほど、これが幸福なのであろうか、ただこれだけのことが、と矢代はひとりそんなに思いながらも、湖に浮んでいる紅のまん丸い提灯の色が、もう光明のまったく失せた悲しい最後のなやましげな紅さだなと頷くのだった。
「この森をパリの街の真ん中に是非残しておけと云ったのは、ナポレオン・ボナパルトだそうですが、豪い男だと思いますね。あの男はただの豪傑じゃなかったのだ。」
「広いのね。これでどれほどあるのかしら。」
「周囲五里というんですよ。」
「まアこれで。」
 と千鶴子は云っても別に驚いた風ではなかった。二人の歩く道の下に岸がつづき真白な花をつけた枝が水面に垂れていた。ボートがこんなに見えない筈がないと思うと、矢代は「おーい。」と呼んでみた。
「おーい。」と東野の声が樹の繁みの下から聞えた。
「あら、東野さん、ボートに一人いらっしゃるんだわ。」
 千鶴子は繁みを廻りスロープを降りていってみると、ボートの中にはやはり東野が一人しょんぼり坐っていた。
「久慈君まだですか。」
 矢代は訊ねながら千鶴子と二人で灯の消えたボートに乗った。
「お一人で何してらっしたの。」
 と千鶴子は気の毒そうに訊ねた。
「俳句を作ってたんですよ。」
「良い句出来ましたか。」
 矢代の訊ねるのに東野は、「いや。」と云っただけで提灯の新しい蝋燭に火を入れた。
「おーい。抛っとくぞオ。」
 と矢代はオールを持って森の中の久慈を呼びつつ少しあたりを漕いでみた。
「どこだア。」と久慈の声が遠くの闇の中からして来た。
 矢代はまた呼びながら声の方へボートを近づけてゆくと、しばらくして久慈は水際へアンリエットと二人で現れた。
「やア、弱った弱った。ボートがどれも違うんで、分らないんだよ。」
 互に顔がぽっと見えるだけの提灯の明るさの中へ、白鳥が水に浮んだ花の群れを胸で割りながら泳いで来た。皆が道の暗さを云い合っている所へ乗り込んで来て、オールを動かし出した久慈に、矢代は、
「東野さんは俳句を作ってたんだって。ひとりならそれもいいな。」と云って笑った。
「俳句か、ここで俳句なんてどんなの出来るんです。」
 と久慈もやや嘲笑の口調だった。
「白鳥の花振り別けし春の水。」
 真面目な顔で句だけを投げるように東野は云ったので、一同一寸黙って考えていたが、突然、
「いや、やられた。」
 と久慈は頓狂な声を上げた。
 矢代は思わぬ不意打を食ったような苦笑ながらも、今は東野の諧謔にボートの動揺も気持ち良かった。ボートが岸を放れていくにつれ岩を打つ滝の音が聞えて来た。
「あそこよ。滝」
 とアンリエットは垂れ下った樹の下を指差した。
「じゃ一つ、僕も俳句を作ろうかな。」と久慈は云ってオールを廻しながら、「えーと、ブロウニュの、滝も無言《しじま》を破りおり。どうです東野さん。」
「そんな句ないよ。」
 と矢代は云うと皆どっと笑った。久慈はまた、
「それじゃ、これやどうじゃ。」
 と小首を一寸かしげてから、「ブロウニュのオール少しく鳥追えり。」
 ふざけていた久慈の句も幾らか緊って来たその変化に、
「ふむ。」
 と、矢代はしばらく考え黙っていてから云った。
「そんなら、これはどうかね――白鳥の巣は花に満つ春の森」
「うまいね君は。いつ習ったんだ。」
 と久慈は感心して、「ようし、じゃ、も一つやるぞ。」とまた競い立って考えるのだった。千鶴子は舟ばたで一人腹をかかえて笑っていた。ときどき道路を疾走する自動車の光が森の樹木を貫いて消えていった。一行はオールを軽く動かしていたが、真面目に俳句を考え出したと見えて、誰も空を仰いだり森を見たりして黙っていた。そのうち久慈は、
「よし出来た。今度は傑作だぞ。」と前ぶれして思い出す風に、
「春の夜の月さまざまな水明り。」
 と調子よく読み下した。
「高等学校の歌じゃないか。」
 と矢代はひやかしたので、またボートの中は笑いに満ちた。しかし、久慈だけは一人、「馬鹿を云え。」と云いつつも得意そうにオールを勢い良く動かしていった。
 東野は煙草の灰を水に払い落しながら形の良い白鳥の姿をじっと眺めていた。
「さア、早く上って、サンゼリゼへ行こう。」
 久慈の声に応じて矢代もともにオールに力を入れて漕いだ。アンリエットは軽快な速力に合せるように今流行の小唄を歌い出した。
 ――夜のヴァイオリンがかすかに鳴っている。甘いやさしいメロディに、愛する楽しみと、生きている喜びを、わたしらにささやいていてくれる。――
 このような感傷的な唄もフランスの婦人が歌うと、水に浮んでいる白鳥も花も一しお矢代に旅の愁いを感じさせた。行き過ぎるボートの中からもアンリエットの歌に合せて低く唄うものがあった。千鶴子は指さきに水を浸しながら、遠ざかって行くボートの紅の提灯を振り返って眺め、オールが水を跳ねても水面に尾を曳く波紋から眼を放そうとしなかった。パビヨンロワイヤルの桃色の明りが見えて来ると、島に繁った花の樹が水の上から次第に白く朧ろに浮いて来た。


 ブロウニュの森からサンゼリゼまでは、自動車に乗る間もないほど近かったカフェー・トウリオンフは凱旋門から下って来た左手にある、大きなカフェーの一つである。パリの日本人で上流階級を意識に入れて活動しなければならぬ人人の多くは、下町のモンパルナス一帯には出没しないが、山の手のサンゼリゼのカフェーにはいつもよく姿を現した。モンパルナスの日本人らは、山の手組の日本人を小馬鹿にして、「十六区のお方。」と呼び、サンゼリゼ組は下町者を、近よれば斬らるるのみと軽蔑して相手にしない風があったが、久慈や矢代は来て間もない一団であったから、日本人の縄張りなど考えている暇もなかった。
 カフェー・トウリオンフのテラスには、数百の真紅な籐椅子がいつも道路に向って並んでいた。この日は夜であったから、久慈たちの一団は赤い皮張の屋内へ這入ってフィンを命じた。淡紅色の紫陽花《あじさい》の一面に並んでいる壁面には、豪華な幕が張り廻らされ、三方に映り合った花叢はむらむらと霞の湧き立つような花壇であった。丁度、紫陽花の中から楽士たちのタンゴが始まり出したときである。
「やア。」
 と云って這入って来た三人の日本人の一人が、東野の方を見て手を上げ近よって来ると、すぐ傍の椅子に並んだ。東野は新しい人人を久慈や矢代にそれぞれ紹介した。それらの人人は、日本の大使館に出入する若手の技師の塩野と、平尾男爵、書記官の大石であった。いずれもこれらの人人はパリの上流階級のサロンへ出入しなければならぬ関係から、山の手の人人の中でも代表的な紳士たちというべきであったが、永く帰らぬ東京の様子など懐しそうに訊ねられるまま、千鶴子や久慈が答えているうちに、突然大石は千鶴子を見て、
「じゃ、あなたはロンドンの宇佐美君の妹さんですか。」と驚いて訊ねた。
「ええ、兄を御存知でございますの。」と千鶴子も全く意外な様子であった。
「知ってるどころじゃありませんよ、あなたの小さい時を、僕は見たことがありますよ。」
「ああ、あの宇佐美君か。」と塩野も思い出したと云う風に、
「僕と大石とは暁星の同級でしてね、宇佐美君もそうでしょう。」
 このようなことから話はますます一致して進んでいくと、手ぐるように共通の知人が三人の間から続続と現れた。
「じゃ、一度御招待したいと思いますから、明日はどうですか。お暇でしたら六時にいらして下さい、僕らは皆一緒の所におりますから。」と塩野は云った。
「ええ、ありがとうございます。」
 千鶴子は礼を塩野に云ったものの、他の者が多くいるのに自分一人招待される苦しさにちらりと矢代の方を窺った。傍で前後の様子を聞き知っている矢代は、千鶴子一人を引き抜くような塩野の申し出にも、むしろ裏のない誠実さを感じた。彼はフィンに染った眼もとで、紫陽花の上で輝く楽士のトランペットを眺めながら、パリの上流のサロンに出入している人物は、人前でも塩野のような流儀の挨拶をするのが習慣であろうと思った。
「それでは、お待ちしてますから、夕暮の六時ですよ。」
 と塩野はまた念を押した。事実、この塩野は学界の名門の一人息子であったが、質の良い貴族の品位を想わせる目鼻立に、明朗率直で親切な性格がどこともなく噴き現れている青年だった。矢代は東野や大石などの話す言葉を聞いていると、塩野は写真学校の教授で、パリで開いた彼の個人展覧会も、パリの写真専門家の間では、なかなか好評だったらしい様子であった。間もなく一同の話は著いた当時のそれぞれの困った話に移っていった。
「僕は一度こんな所を見ましたよ。」今まで黙って一言も云わなかった東野は云った。
「それもここのカフェーですがね。丁度、僕は久慈さんの坐っているそこにいたのですよ。他に日本人も三人いましたが、隣のテーブルに、印度支那の安南人が四人ほど塊っていましてね。そこへ、ある外人が三人ほど這入って来て、坐ろうとすると椅子がいっぱいで、どこにも坐れないんです。そうしたところが、その男はボーイに、
『ここにいる東洋人を、皆追い出してくれ、その分の金は払
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