ことは、日本でなら何をきざなと思われるのが至当だが、それがここで云うとなると、不思議に自然なことに思われるのだった。東野もうるさそうにもせず、
「そうですね、日本にいれば僕らはどんなことを考えていようと、まア土から生えた根のある樹ですが、ここへ来てれば、僕らは根の土を水で洗われてしまったみたいですからね。まア、せいぜい、日本へ帰れば僕らの土があるんだと思うのが、今はいっぱいの悦びですよ。」と云った。
「しかし、何んでしょう、合理主義は何も日本だってヨーロッパだって、変る筈のもんじゃないと僕は思うんですがね、樹の種類は違ったって、樹は樹じゃないでしょうか。」
 と久慈は勢いに辷って、つい訊きたくもないことまで饒舌るのだった。
「それはそうだけれども、今まで合理主義で世の中が物を云って来て、どうにもならぬということを発見したのが、近代ヨーロッパの懐疑主義というもんじゃないかな。」
 と東野は、久慈の無遠慮な正直さに何か興味を感じたらしい眼つきで云った。
「しかし、それじゃ、僕らは何も出来ないじゃないですか。結局暴力でもそのまま認めなくちゃならなくなってしまうでしょう。」
「まア君のように云ってしまえば話は早分りで良いけれども、しかし、知識というものは合理主義から、もう放れたものの総称をいうのですからね。暴力なんてものを批判するには、手ごろな簡便主義でも結構でしょう。」
「つまり、それじゃ、ニヒリズムというわけなんですか。」
 と久慈は当の脱れた失望した顔つきに戻って顎を撫でた。
「あなたは御婦人づれじゃありませんか。今日はそんなところで良いでしょう。」
 久慈は大きな声で笑うと、
「どうも、失礼しました。じゃ行こうか。」
 と矢代に云って立ち上った。食事には丁度良い時間だったので矢代も一緒に立って皆と出たが、歩きながら彼は、
「今日は君も東野氏にやられたね。たしかに君の面丁割れてるぞ。」
 と愉快そうに久慈の顔を覗き込んだ。
「ふん、合理主義を認めん作家なんか、何を書こうと知れてら。」
「いや、十目の見るところ君の負けだ。愉快愉快。」
 と矢代はまた云って笑った。
「じゃ君は、人間が今まで支えて来た一番美しいものを、みな捨ててしまえと、まだ云うのか。」
「あら、雪だわ。」
 急に千鶴子は立ち停ると腕にかかった花弁のようなものに驚きの声を上げた。
 雪か。いや花だろう。と云い合って一同空を見詰めている間にも、久慈だけは一人わき眼もふらず先に立って歩いていった。
 矢代とアンリエットと、千鶴子とは、クーポールへ這入る久慈の後から遅れていったが、もうこの晩餐の面白くないことは誰にも分っているようであった。クーポールの中は歌舞伎座の中とよく似ていた。太い円柱、淡桃色の壁、階下から階上へ突き抜けた天井と、見れば見るほど歌舞伎座の大玄関である。
「パリにいる日本の方、みな半気違いに見えるわ。それであなたがた何ともありませんの。」千鶴子は料理の註文を終ったとき矢代に訊ねた。
「そうだな、たしかにそんなところありますよ。僕なんかそろそろ怪しい。」
「合理主義を疑い出しちゃ、気違いになるより仕方がないよ。」と久慈はまだ東野に打たれた前の傷が頭に響いてやまぬらしかった。
「君の合理主義なんか日本から持って来た物尺だよ。一度験べてみ給え。印度洋で延びてるから。」
 強いて久慈と争うつもりももう矢代にはなかったが、千鶴子とアンリエットとの次第に強まる無言の敵意を感じると、むしろ、今は男同士の争いをつづける方が愉快に食事の場だけも柔らぐだろうと矢代は思うのだった。しかし、事態は一層険悪になって来た。ぶつりとしたまま誰も話そうともしなければ、顔さえ見合すことも互に避け合って黙っていた。
「ここのお料理、綺麗ね。」
 千鶴子はふと一同の沈んだ様子に気附いたらしく、円柱の間を曳いて廻る料理台の新鮮な魚の列を見て云った。
「ええ、ここのお料理、相当でしてよ。」とアンリエットはフランス語で答えた。
 海老や鶏や鰈《かれい》が出ても四人は一口も饒舌らなかった。いっぱいに客の詰ったホールの中は豪華な花壇のように各国人の笑顔で満ちて来たが、四人の食卓の間だけは、名状すべからざる陰欝な鬼気が森森とつづいていった。
 久慈はふくれ切って、矢代に、何ぜお前はアンリエットなんか連れて来たのだと云わぬばかりに、パンばかりひきち切ってむしゃむしゃ食べた。矢代もいつ何が出てどうして食べたかも分らぬままにフォークを使い葡萄酒を飲んだ。すると、突然久慈は俯向いたまま、
「懐疑主義か、ふん。」と云ってひとりにやにや笑い出した。
「まだやってるのか。」矢代はじっと久慈の眼を見詰めた。
「いや、俺は東野に負けたんじゃないよ。断じてそうじゃない。」
 一同はどっと噴き出すように声を合せて笑った。
「何がおかしい。あれで僕が負けたんなら、腹を切るよ。」
 久慈一人はなお不機嫌であったが、それが却って周囲の三人に浮き浮きとした雑談を湧き上らせた。しかし、久慈は急にボーイを呼んで勘定を命じた。一同ぼんやりして黙っているとき、
「じゃ、今日はこれで失敬する。」と久慈は云って一人皆の勘定をすませて外へ出て行った。


 千鶴子が来てから矢代の生活も少しずつ変って来た。午前中それぞれ自分のホテルにいるのは前と同じであったが、正午はドームに落ち合って昼食を共にし、それから見るべき所を散歩かたがた一二ヵ所ずつ見て、夕食はその日の嗜好物に随い料亭を選び変え、各自のホテルへ帰る前には、また一度ドームへ立ちよってお茶を飲むという習慣になって来た。この習慣はどこから来ている外人の旅行者も同じことで、考えれば誰も極めて単調な生活をしていた。殊にパリという所は来てしまえば、どこを見物しようとか、誰それに逢いたいとか、勉強をしようとかとそのような気持ちは全く無くなって、ただ遊んで暮すことが何よりの勉強になると思いえられる所であった。また事実それに間違いはなかった。
 一番愉快なことと云うのは、他人と議論をすることか、あるいは誰とも話さずぼつりと一人路傍のベンチに腰かけていることか、先ず特種な遊楽場以外の楽しみはさておきそんなことより他にはない。随って一度び議論となるとそれは果しなくつづいていく。その日の議論は逢う度びに前の議論の延長であり、またどの立場を取ろうとも、終局の負けというものがどちらにもないという強味を発見し合って来るのであった。これが例えば日本で議論をするとなると、忽ち終局は必ず法網に触れて来るので、どちらも黙ってそれ以上の議論はうやむやの中に引っ込めてしまうか、さもなくば、ヨーロッパの論理へ樋をかけて水をその方へ引き流し、日本の歴史を外国のこととして戦い合う。間違いはすでにそのとき敢行されているにも拘らず、錯誤の連続であってみれば、自身の知性で間違いを一度び正すとなると、論理らしいものを一応は尽く根から噴き上げてしまいたくならざるを得ないのだった。それからもう一度考え直す。矢代も今はそういうことを絶えず頭の中で繰り返している時期であった。
 ある日、矢代は自分のこの得た確信を元として、千鶴子にヨーロッパに対して絶対に卑屈になるなと話してみた。
 道を歩いていても少し汗ばむほどの日であったが、矢代は千鶴子とサンジェルマンのお寺の壁画を見てから、ルクサンブールの公園の中へ入って来て休んだ。若葉に包まれた石像の肩に数羽の鳩がとまっていて、その向うに若い男女の一組がベンチにかけている他は、人のいない椅子ばかり並んでいた。矢代もその一組と芝生を対して向い合った。
「日本のお寺の壁画は、まア、地獄極楽の絵が多いですが、こちらのお寺の壁画は、ヨーロッパ人が野蛮人を征服して、十字架を捧げている絵ばかりですね。僕らはあんな絵を見せられると、聖壇もいやらしくなって、すぐ出て来たくなって困るが、あのころは、誰も東洋人にあんな絵が見られようとは思わなかったんだな。」何か話すと、見て来たものの批評ばかり自然会話となってしまう外遊者の癖が、また争われず矢代にも出るのだった。
「あたし、この間からパリを見物して、フランスのいい所や恐ろしい所は、やはりこの国の伝統だと思いましたわ。でも、それなら日本にだって有るんだと思うと、パリもそんなに恐くなくなって来たの、もしこれで日本に伝統がなくって、あたしこちらへ来たんだったら、どんなに惨めな思いをしなければならなかったかしらと思うわ。」
 千鶴子の感想は正しいと云うよりもむしろ矢代を喜ばした。
「そうですよ。ところが、久慈君はそれを云うといやがるんですよ。あの人は僕らを無言の中に勇気づけてくれている日本の伝統まで認めようとしないんだから、困ってしまう。」
 若葉の繁みの間から杏の花弁の柔く舞い散って来る中を貫き、重くすうッと真直ぐに青葉が一つ落ちて来る。風が吹く度びに揺れる繁みの中から時計の白い台盤が現れてはまた青葉に隠された。
「でも、久慈さんだって、口でだけあんなに仰言っていらっしゃるのよ、先日もあたしに、パリもいいけれども日本もいいなアって仰言ってから、こんなこと、矢代君にはうっかり云えないがってそう仰言ったわ。藤田嗣治さんの絵を見てるときでしたの。やっぱりそうよ。あの方だって。」
「藤田嗣治はパリへ来てみると初めて豪いもんだと思いますね。よくあれだけこの都をひっ掻き廻したものだと思う。」
「女の人の線が牡丹の花びらのように見える絵よ。それがね、それが面白いんですのよ。」
 千鶴子はこう云いかけてから急に顔を赤らめて俯向くと、
「あら、雀がこんな所まで来たわ。可愛いこと。御覧なさいよ。」
 と矢代の腕を軽く打った。矢代は雀を見ていてから鉄のベンチの冷たさにふと背を延ばした。すると、その向うのベンチでさきから男女の二人が静かにじっと顔を併せているのが見えた。このような情態は矢代はいつもここで眼にすることであったから別に特異な風景とも思わなかったが、しかし、こちらの眼を雀に向けようと努める千鶴子の気持ちを感じ、音響の停った窮屈な世界でぴょんぴょん跳ね廻るその雀が、次第に大きく見えて来るのだった。
「雀ってどうしてこんなに沢山いるんでしょう。どこにでもいるものね。」
 千鶴子はくるりと男女の方に背を向けたが、こちらには矢代がいるとまた真直ぐに向き直って雀の行方を眼で追った。
 何となくそうしているうちに、二人の気持ちは一層動き停って固苦しくなるのを矢代は覚えると、ベンチを立って去ろうかと思った。しかし、考えてみれば外国を歩いている以上、こんな所を千鶴子と二人で眼にすることはいつかあるにちがいないので、一度はここも通らなければと、向うの男女の顔の放れるのを待つようにまたじっと眺めつづけて坐っていた。
「あなた、あんなところをそんなに御覧にならないでよ、さア、行きましょう。」
 と千鶴子は顔を赤らめて立ち上った。しかし、矢代は動かなかった。彼は千鶴子を心の中で自分の顔を合せる対象だと一度はマルセーユで感じたのを思い起すと、あのとき騒いだ自分の心の自然の結末をここでゆっくり一度清めてしまいたいと思うのだった。
「まア、ここへ腰かけていなさいよ。美しいな。」
 と矢代は立っている千鶴子に云った。芝生の中に降りた一羽の鳩が胸毛で葉先きを擦り割りながらよちよち二人の方へよって来た。恍惚として動かない前方の男女の身体へ杏の花弁が絶えず舞い落ちた。
 見ているうちに矢代も馬鹿らしい光景だとは思えなくなって来て、これは驚くべきほど美しい情景だと羨ましささえ感じて来るのだった。骨を鳴らせて飛び交う鳩の身体からうす冷たい風が立ち耳の根をひやりとさせた。
「まだいらっしやるの。」
 千鶴子は渋渋矢代の横へ腰を降ろすと、
「あら、お坊さんだわ、今度は。」
 と云ってにっこり笑った。見ると、カソリックの若い僧侶が椅子にかけて聖書を一心に読み初めた。
 若い牧師が這入って来たのは右の繁みの間からであったから、多分サントーマの僧侶であろう。
 しかし、左の方のベンチで、男女の愛の高潮した姿態を見、右の方のベンチで聖
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