蔵の隙間に至るまで噴きわたった。いつも春の来るまでは、来ても例年の通りと思う期待で浮くだけの気持ちも、それがいよいよ桜のころに迫ってみると、思いの他ぱッと浮き騒ぐ鮮やかさに、これでは京都の街の騒騒しさも想像の外であろうと、宿をとるのも怪しまれ矢代は花どきを脱したくなった。
 ある日、矢代は社長の叔父の所へ、京都へ行くまでに片附けて置きたい相続のことで相談に出かけた。叔父は母方に当るので矢代の方の家事にはあまり干渉もしないとはいえ、会うと嫁の話を切り出すことが多く、矢代も緊急の用事の他は会わない方針でいたのだが、父の死後は株券や税金の取扱いにはこの叔父の智慧が何より役立った。叔父の貞吉は自分の娘たちの学友や知人の娘の写真などを矢代に見せて、彼の意見を覓《もと》めるのも、一つは矢代の母から頼まれているとも受けとれた。彼にしては叔父が自分の嫁に熱心になる以上に、妹の幸子の縁談に意を向けて貰いたく思うこのごろで、それとなく幸子の病いの全癒を報らせる方に話の傾きがちになるのには、叔父も不興げな様子だった。
「潮どきは脱すものじゃないぞ。嫁の顔は不味くとも、月日がたっといつの間にやら氏育ちが顔形に
前へ 次へ
全1170ページ中956ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング