動けなかった。小机の上の置時計の針が丁度二時を指していた。父が寝室へ立っていったさい、襖に一寸手をかけた後姿を眼にしたのが、最後の父の姿だった。それまでどちらもその別れさえ知らずにいたのだと、ちらっと瞬間思ったばかりでぼんやり彼は端坐をつづけていた。
「どうしたんです。」
母が暫くして入って来た。すると、急に何も云わなくなった母は何ぜだか勝手の方へまた戻った。矢代は父の亡骸から離れると、医者の来るまで父を動かさない様に母に頼み、云うべきことは今はそれだけにして外套を着て外へ出ていった。雪は路に降り積っていた。彼は歩きながらも、一大事が起っているのに何か間の抜けた気持ちで、身体の中に一つ大きな空洞の生じたのを感じ、まだ見たこともない冷え冷えとしたものが、徐徐にそこを満している緊張を覚えるばかりだった。
足駄の歯の間に雪が溜り込んで膨れ、彼は片膝をついて一寸倒れた。急いだとてもう遅いと分っていてもやはり彼は急いで歩いた。すると、母が父の鼾の高さを嫌って別室で眠っていた習慣が、俄に腹立たしくなって来た。が、一人今ごろ周章《うろた》えている母の姿を思うとそれも気の毒になって来るのだった。
前へ
次へ
全1170ページ中852ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング