いてもう彼は眠れなかった。母は父の鼾声の高くなったこのごろ、眼が覚め易く別室で眠る習慣だったから、母にはまだ父の呻きも聞えていないかもしれないと思い、彼は起きて父の部屋の外の電気を点け、襖を細目に開けてみた。呻きらしいものもそのときはもう聞えなかったが、嗅ぎ覚えのない悪臭が部屋に籠っていたので、なお少し襖を開けて光りを中に入れてみた。すると、蒲団から乗り出た父の白髪が、あたりいちめんに流れている茶褐色の液体の中に俯向いたままじっとしていた。矢代はただ事ではない父の容体を感じ、
「お父さん、お父さん。」
と耳もとでそう二言つづけて呼んでみた。しかし、色のない耳朶の裏が寂しく見えるだけで、もう父は返事をしなかった。彼は全身に滝の落ちかかって来るような重い戦慄を覚えた。そして、
「お父さん。」
とまた大きく呼んだが、やはり同じだった。液は口から吐いたものと見えて畳の上に多量流れていた。素人目にも脳溢血の疑い確実だったので、彼は父の体を動かさないようにしてすぐ母を呼びに行こうと思って父の手頸を執ってみると、もう脈も響かず瞳孔も開いていた。万事駄目だとだけ直覚され、彼は膝をついたままそこから
前へ
次へ
全1170ページ中851ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング