彼は千鶴子と対い合った。槙三の姿の見えないのを訊ねると、娯楽室へ行ったということだった。昨日から初めて二人きりになった今、理由もなく矢代は胸騒ぎを覚えて山を見つづけた。千鶴子も同じように黙っていた。
 宿の後の山が谷を越し向うの山の頂近くまで影を投げていて、雪を冠った雑木が睫のように刺さった裾の方に鉄橋が見えていた。
「あたしたち、明日の朝帰ろうと思いますの。」
 と千鶴子はまだ山を見たまま低く云った。
「じゃ、そろそろ僕も帰るかな。」
「あなたお帰りになったら、田辺侯爵に一度お会いになって下さらないかしら。」
 千鶴子はどういうものか、云い難くげに顔を赧らめて矢代を見た。
「会いますが、それはまたどうしてです。」
「どうってこともないの。ただね――」
 千鶴子は一寸言葉を切った。
「あたしのお母さん、あなたとお会いしたことないものだから、やはり、どなたか中に立っていただいといた方がと思って、侯爵にお頼みしたらと、そんなこと、あたしひとりで考えたの。でも、あなたもしお嫌いなら、いいんですのよ。」
「そういうことならいつでもお会いします。」
 と矢代は簡単に云った。
「じゃ、ありがたいわ
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