いなくもう今ごろは千鶴子の入浴の時間だった。矢代は顔を水面につけるようにして、湯気の足の立つ比較的曇らぬ部分から透してみても、忽ち濃霧が上から舞い下って来て人の姿をかき消した。霧は絶えず湯の波に突き上げられてはまた水面にまき返り、早い速度でぐるぐる室内を廻っているようだった。雪の山が上方の稀薄な霧の部分に、射し出た朝日を受けて高く薄紅色に染っていた。
山際の深い藍色の空は厳しいほど鮮かだった。矢代は湯の縁で足を抱き、空を仰いでいると、ふと千鶴子が自分と別れてパリを去っていったときの、あの飛行機の消えた空の色を思い出した。あのときは、もう二人は再び会うこともなかろうと思ったほど虚しく、深い空の色だったが、――霧は絶えず噴きあがり舞い降りた。嗽いをするような秘かな水音に包まれその中に今も千鶴子がいるのだった。矢代は昼の食事を今から愉しみに入浴しているにちがいない二人のことを思うと、間もなく湯から出た。
宿の女中から貰った杉菜や、生椎茸を擁《かか》えて彼は山小屋の方へ登った。谷底の川の表面は氷の解けた流れだけ薄黒く沈んだ色を残し、他は真白の起伏が全面朝日に映え、微粒子の飛び散るように眼映
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